上田 大城 牛吉(海軍 沖縄戦)_1_全文

ID1170791
作者大城 牛吉
作者備考出身地「上田」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目軍人・軍属
細項目日本軍・沖縄従軍
資料名(別名)上田_大城 牛吉_「戦争は絶対にしないこと」_1_全文
キーワード軍人・軍属体験談、10.10空襲(十・十空襲)、海軍入隊、小禄飛行場仮入隊、沖縄戦へ出兵、宇栄原陣地、斬り込み、喜屋武で捕虜、田頭収容所
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.845-847
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
上田
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 私は昭和17年、20歳の時に現役軍人として海軍に入隊し、佐世保で3ヵ月の訓練を受けた後、鹿児島の鴨池航空隊に配属され、そこで1年間ばかり過ごした。昭和19年の7月に沖縄に配属され、小禄飛行場に仮入隊としていた。

 10月に空襲があった。まず、飛行機が飛んでいるのが見え、爆音も聞こえたが、友軍の陸軍が演習をしていると思った。私たちは、朝食も終り、「タバコ盆、出せ」といって、外に出てタバコを喫む時間があるが、タバコ盆の所に行って、タバコを吸っていたら、消火器係の一等兵が、消火器を担いで走って行く。「何だ、どうした」とたずねたら、彼は「演習です」と答えた。新兵だから分らなかったのであろう。「連兵場に集まりです」と言って駆けて行った。私たちは、演習だからと、ゆっくりしていたら、15分ぐらい経ってから飛行機が飛行場につっ込んで来た。飛行機は低空でやって来て、機銃掃射をし、爆弾も投下した。私たちは、その時、はじめて敵機の来襲と知り、「これは戦闘だ」と防空壕に逃げ込んだ。あの時に飛行場の飛行機は全滅した。格納庫や燃料、いろんな物が破壊された。最初は5、6機ぐらいだったが、次々にやって来て、後には20機ばかりになっていた。防空壕に逃げ込んで、4、5時間は外に出られなかった。

 いよいよ米軍が沖縄に上陸を敢行し、首里などで大変な攻防戦が繰りひろげられたが、首里には陸軍が行き、海軍は那覇から南部の方で戦闘した。海軍でも、ある部隊は中頭や国頭に行ったが彼らは少数部隊だったので、大きな作戦に参加することは出来なかった。
 小禄方面にいる間は、生活にあまり不自由しなかった。海軍は、内地から船に積んで来た物資があり、軍部が管理し、配給するので困らなかった。陸軍は、現地で調達するので大変だったと思う。しかし、首里がやられてからは大変だった。食糧も、自分が持っているだけしかない。カンメンポー(ビスケットを厚目にして、固くした、長方形の非常用食糧)しかない。

 敵の戦車隊が鏡水に上陸した時、飛行場はやられていたので、私たちは字宇栄原に陣地を作って、そこから米軍を攻撃したが、夕方の5時頃から、敵陣に斬り込みにやらされるようになった。斬り込みは2人1組だった。私も3回行った。一度は敵の黄燐弾の攻撃を受け、顔や足をやられたこともある。
 3度目には、先任下士官(海軍の古い下士官のこと)との2人組で、手造りの爆雷を背負って、敵の戦車にとび込むために敵陣に向かった。現在の那覇飛行場、第一ゲートの所まで来た。敵を目前にした時、彼は臆病風を吹かしたのか、今日、明日にも兵曹長になる人だが「大城、この戦争はだめだよ」と言ったので、「この爆雷はどうしますか」とたずねた。「発火させて、退却しょう、信管を抜けば爆発するから」と言われた。私は、上官の言うことには逆らえないから、言われた通りに始末した。

 陣地に戻る時、あたりは真っ暗闇で、敵陣まで匍匐前進で行ったので東か南か、方向が全然わからない。「水の流れる所、下方に飛行場があるから」と溝に沿って、やっとの思いで、飛行場跡にたどり着いた。ここまで来ると地形は心配ないので、陣地のある宇栄原に引き返した。あのまま、肉弾攻撃をしていたら、今の私はいなかった。 20歳で出征したのは、那覇港からだった。あの時分は見送りも出来た。旗を持って母親が見送ってくれた。 乗船して、沖縄を離れて行く時の気持ちは、あまり戦争というものの恐ろしさがわからなかったので、ただ、名誉ということしか頭になかった。「入隊したら一生懸命やろう」という気持ちだけだった。

 沖縄の地上戦で、最もつらい、苦しいと思ったのは、喜屋武方面に行ってから、食糧がなかったのが一番つらかった。アダンの実も食べた。私たちは一番最後に捕虜となった。民間人は1人も残っていなかった。
 捕虜となり、字田頭の1軒だけ残っていた茅ぶき家に連れて行かれ、次に国場、屋嘉、石川と収容生活を送り、その後米軍のトラックで伊良波に移動させられた。村民は伊良波、座安、小学校などに集められた。私たちは伊良波からやっと字上田に戻ることが出来た。

 収容所生活は、食料不足で大変なものだった。芋を掘って来て飢えをしのいだ。
 上田に着いた時、焼け野ヶ原になっていて、どうして良いかわからなかった。ただ、ぼう然と立ちつくすだけだった。道はブルドーザーで、敷きならされて、どこがどこやらわからなかった。
 伊良波にいる時から、作業班を作って、焼け残った家がなん軒かあったので、そこを修理してあったので、そこに分散して住んだ。男は家作り、女は畑仕事をした。米軍の木材が、村から支給されたので、それで規格屋を建て、住むようになった。
 だんだん落ちつくと、畑仕事などに精を出すようになった。自分達の土地は、他と区別出来た。自分の畑の境界にホーギという木を植え、どこの畑も共同作業で耕した。字上田は、どこよりも先に部落に帰った。
 いもが主食だったので、自由に食べられるようになったのは、1年ぐらいしてからだったと思う。那覇などから、いもを買いに来た。

 あれが人間の普通の生活とは思わない。とても大変な時代だった。
 戦争が終って50数年も過ぎた現在、後輩たちに言いたいことは、「戦争は絶対にしない」という教育をして欲しいということ。あの悲惨な戦争の中をくぐりぬけて来た人間としては、そうしか言えない。
 戦争は大変だ。勝っても負けても大変だ。もし、勝っておれば、ますます国民は苦しんだかも知らん。若い者はすべて戦争にかり出されたかも知らんから。

(1996年聞き取り)

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