伊良波 大城 亀保(台湾)_1_全文

ID1170781
作者大城 亀保
作者備考出身地「伊良波」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目軍人・軍属
細項目台湾
資料名(別名)伊良波_大城 亀保_「台湾での戦争体験」_1_全文
キーワード軍人・軍属体験談、10.10空襲(十・十空襲)、徴兵検査、伊良波収容所、福岡から台湾へ、宮古島へ引き揚げ
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.843-845
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名台湾
都道府県名
市町村
市町村2豊見城市
字2伊良波
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 私は昭和16年に召集された。徴兵検査は昭和16年5月に糸満尋常高等小学校で受けて甲種合格で現役入隊した。その時は入隊通知書みたいなものが届いていた。出征するときは青年会の入会祝いに招待されたり、ムラヤーで激励されたり、拝所を廻って安全祈願したりした。見送りは那覇の桟橋までしてもらった。
 集合は福岡県であった。沖縄県、福岡県、大分県の3県の現役が集まった。ここには約1ヵ月間滞在し、兵隊の資格の再検査を受けた。再検査で不合格となり帰される人も2、3名いて羨ましく思った。

 それから台湾へ行ったのが17年の2月ごろだった。海路は、門司から台湾まで軍の船団を組んでジグサグして進んだため5日間ぐらいかかった。昭和16年の真珠湾攻撃もあって、万が一の事態に備えたのだろう。福岡県は沖縄より寒くて凍傷にかかった者もいたが、今度は寒い福岡から沖縄を越えて熱帯地に行ったものだから足が腐る人も4、5名いた。

 私達の連隊は台北に駐屯していたが、昭和19年9月ごろに高雄に移動した。しばらくして台湾西海に浮かぶ澎湖島に渡った。この島は日本軍の要塞になっていて、中国軍の攻勢に備えて駐屯していた。県出身の大田政作さんが知事をしていて心強かった。又、県出身の知事はもう一人いて、屏東の知事も上江洲さんという方だった。 台湾では、いろいろな食物が豊富で恵まれた生活だった。沖縄には無い食べ物がたくさんあった。パイナップルとかタンカンとかの果物が豊富だった。水も豊富で竹の棒で1メートルほど差し込むと水がどんどん沸いて来た。田植えの時は水を流し込んで使っていた。近くには4000メートル越えるニイタカ山やガイブ山、スギタカ山の峰々が連なっていたから。又現地の人達とのトラブルは特になかった。

 台湾での戦闘は空襲だけだった。艦載機とか黒い機体の変な戦闘機がやって来て機銃掃射されて難儀させられた。艦載機に目撃されたらイチコロだった。だから洗濯物特にフンドシが干してあれば兵隊がいると思われ、攻撃の目標となったので、空襲警報が鳴るとすぐフンドシや洗濯物を取り込んだ。軍の演習は山岳地帯を利用しての重い物資を背負っての山越えや幅1キロメートルもある川を渡る訓練があった。陣地構築、壕堀り作業もした。

 沖縄の10.10空襲(十・十空襲)は情報で知っていた。米軍の沖縄上陸については膨湖島にいるときに聞いた。米軍上陸を知って非常に悔しく思い、ヤケ酒を飲んで暴れたので、所属部隊の中尉が「戦争はまだ負けたわけではない、そんなに興奮するな」とたしなめられた。そして日本がポツダム宣言を受け入れて戦争に負けたことを知ったのも、この島にいた時だった。島の兵隊達はやはり興奮して暴れていた。
 私は軍隊から解放されたようになって気が楽になった。台湾に知人とか頼れる人がいる者は「除隊」できた。私は終戦から10ヵ月近くは現地での復興作業、いわゆる後片付けの協力をさせられた。

 私は早く沖縄に帰りたくて基隆にいた宮古、八重山の人達と船に乗って宮古に渡った。昭和21年の6月ごろだったと思う。軍の物資(お金、米、塩等)を持っていたので生活の足しにした。宮古では特に塩が高く売れたのでいろいろなことができた。

 沖縄本島へはポンポン船みたいな小船に5円ぐらい支払って帰って来た。小船は海水がどんどん入り込んでくるので本島まで一昼夜かかった。粟国の近くから港川廻りして勝連半島に着いた。軍服姿のままだったので米兵から「どこからきたのか」と取調べられたため、すぐには上陸できなくて浮き桟橋で一晩過ごした。それから軍服を着替えて、インヌミヤードゥイ(沖縄市高原)に連れていかれて1週間ぐらい過ごしたと思う。もうその頃は南洋引き揚げ者はいなかった。本土からの引き揚げ者が来たと思う。そこでは負けた兵隊は食べる必要がないと言われたり、作業では鎌を投げられたりして大変な思いをした。
 インヌミヤードゥイからは伊良波収容所に帰り、学校で手続きを済ませてすぐ部落に戻った。部落は自分の家も分からなくなっているぐらいになっていた。

(1998年聞き取り)

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