伊良波 大城 秀雄(中国→南洋群島ブーゲンビル島)_1_全文

ID1170771
作者大城 秀雄
作者備考出身地「伊良波」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目軍人・軍属
細項目南洋群島
資料名(別名)伊良波_大城 秀雄_「私の戦争体験記」_1_全文
キーワード軍人・軍属体験談、徴兵検査、中国、南洋群島 ブーゲンビル島、マラリア、熱帯潰瘍、栄養不良、浦賀収容所
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.841-843
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
伊良波
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 私は昭和14年に満20歳で徴兵検査をうけて、兵役で中支へ出征した。アメリカとの戦争はなく支那事変の最中だった。自分たちが中支に行ってから大東亜戦争が始まった。
 昭和14年召集だったので、すぐに行った。

 出征する前夜は家族だけで送別会をやって、特別なことはしなかった。出征する当日は公民館の所に集まって、字民の見送りはあった。
 最初は熊本の13連隊に入ってから、中国戦線に行った。九州全体で第6師団という大きい部隊だった。熊本には1カ月くらいて、訓練を受けて、すぐ中支の戦地へ行かされた。中国は当時、北支・中支・南支とあった。
 私たちが駐留したのは武昌・漢口で、揚子江を隔てて自分たちの側が武昌、対岸が漢口だった。そこは名高い「武漢山地」といっていた。自分たちは武昌から6師団の本部があった黒竜江省の富錦(フキン)に行き、さらにヨウロウドウという所に派遣された。中国との戦いがあった。
 そこに満3年いた。それから昭和18年の正月前に、師団から凱旋の命令が下って、一応は解散し家に帰りなさいと命令が出た。ところが、上海に来てから凱旋の命令は取り消され、今度は南方に行くようにと夏服が支給された。これはおかしいなと思ったが、結局6師団は南方に行くことになった。

 貨物船で南方に向かう途中、台湾沖で昭和18年の正月を迎えた。船には護衛艦は付いていなく、魚雷にやられないように、ジグザグの航路をとったために1カ月もかかった。その間、風呂にも入れないからスコール(雨)が降るのを待って、体をふいた。
 6師団は南洋のブーゲンビル島に上陸した。ブーゲンビル島では物資の後方輸送もないため、食物もなくて、木の実、雑草でも何でも食べた。たくさんの兵隊がいたわけで、食物が無くて大変だった。この島は沖縄本島よりやや大きい島だったが、色の黒い地元住民が少しいるぐらいだった。
 ブーゲンビル島では、相当の人数を失った。戦死と戦病死だ。軍医さんはいるけど、手の施しようがなかった。薬も僅かしかなかった。風土病のマラリア多くの兵隊がかかった。相当ひどかった。風土病には熱帯潰瘍もある。できものができる、潰瘍だから腐っていく。薬もないからナイフでその部分をえぐり取る。麻酔もないから大変だった。多くの兵隊は潰瘍にかかった。自分もその時の傷が今でも両足に残っている。

 米の飯を食べたいと思った。弾にあたって死んだ人は少ないけど、栄養不良でバンバン倒れた。
 ブーゲンビル島での戦争は2カ年続いた。昭和20年に降伏して、アメリカの捕虜になった。柵に囲まれた収容所は無く、寝るのはそのまま地べただった。
 捕虜になってから、アメリカーがオートミルといって柔らかい食べ物を配給してくれた。捕虜になってから、ブーゲンビル島には3~4カ月くらいいて、それから神奈川県の浦賀港に日本の船でつれて来られた。

 ブーゲンビル島から日本へ連れていかれた人数は、はっきりは分からない。生き残ったほとんどの兵隊は、栄養不良のため船の手すりにつかまって上がれない状態だった。私はゆっくり、ゆっくり歩いて上った。
 浦賀には1カ月くらいいた。その後、家に帰りなさいと命令が出た。浦賀の収容所ではお米の御飯もあったし、おかずなんかもちゃんとあった。作業もなかったし、待遇はよかった。暇を持て余していた。
 浦賀からは日本の軍用船で中城村についた。着いたら全員がDDTの粉を全身にまかれた。久場崎の大きい収容所で1週間くらい過ごした。

 伊良波の部落に戻って来たのは昭和20年の暮れ以降で、自分の家はなくなっていたので、姉の稼ぎ先の家に世話になった。ほとんどの家は残っていなくて、あちこちに避難小屋が建っていた。
 戦後の生活は配給があって、アメリカ兵の使い残しというか。食物は缶詰類だった。牛肉の缶詰はとてもおいしかった。卵の黄味を粉にしたものも、とてもおいしかった。服の払い下げもあった。

 中国での戦争の話だが、「長沙作戦」といって「長沙」という地名をとった作戦があって、1カ月くらいほとんど眠らずに戦った。日本兵もずいぶん亡くなった。
中国人は商売がうまかった。ある日、クーニャン(現地語でかわいい娘さんのこと)がきて、「シーさん、ホロホロ卵(ゆで卵)と塩を交換しよう」と言うので、交換してやった。自分たちは軍馬の世話をしていて、軍馬用の塩を持っていたから、少し袋に入れて中国人にあげたら喜ばれた。「シェーシェー(ありがとう)」と言ってね。当時、中国では岩塩を山に掘りにいくので、塩は貴重品だった。

(1996年3月聞き取り)

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