与根 大城 仁太郎(防衛隊 南部避難)_1_全文

ID1170761
作者大城 仁太郎
作者備考出身地「与根」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目軍人・軍属
細項目防衛隊
資料名(別名)与根_大城 仁太郎_「四度の召集」_1_全文
キーワード軍人・軍属体験談、10.10空襲(十・十空襲)、徴兵検査、中国華中、満州、防衛招集、防衛隊、南部避難、伊良波収容所、民間人を装う
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.839-841
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
与根
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 私は昭和14年に徴兵検査を受け、その年に約1ヵ月間教育召集で熊本県に行った。沖縄県に戻ったのも束の間、同じ熊本県の輜重第六連隊に入隊して、中国の中支に派遣された。昭和14年の末ごろだったと思う。ここには約1年間ぐらいいた。私の任務は弾薬運びだったので、直接第一線へは行かずに済んだ。

 昭和15年には沖縄に帰ってきたが、翌年の16年には三たび召集された。満州だった。沖縄に帰れたのは3年後の昭和19年の12月だった。

本隊のある熊本に1カ月滞在した後、ものものしい警戒の中、船団を組み、飛行機の護衛を受けながら1週間の航程で那覇港についた。那覇の町は空襲で焼け野原と化していた。10.10空襲(十・十空襲)については満州で聞いて知っていた。

 除隊後、しばらくは古里の与根で暮らしていたが、昭和20年の旧正の頃に四たび召集された。山部隊3474への防衛召集だった。これは区長からの連絡によるものであった。上田のサーター屋の前(ウーモーヒチャー)に集合して近くの壕に入った。そこから宜保のテラサチにある壕まで食料運搬で行き来した。しばらくは上田の壕にずっといた。米軍が上陸したのはこの壕にいた時だと思う。

 私の所属する部隊は一番の激戦地だった西原村の幸地棚原まで行った。上田から津嘉山を通って、南風原の兼城から戦車隊と歩兵部隊で首里に向かっていたが、その途中に戦車が爆弾の穴に落ちて積んでいた弾薬が爆発してしまった。首里近くまでくると戦闘もあったので、墓の中の遺骨を出してその中に隠れた。首里は焼け野原みたいになっていた。そして、幸地・棚原へ到達したが、米軍の攻撃で陥落していたため首里に引き返した。この時の私の任務は負傷兵の運搬をしたり、炊き出しをして各部隊に配ったりすることだった。
 幸地・棚原が落ち、首里に後退してからは軍の統制も弛み、命令も無視して行動がばらばらになった。私たち数名は、私の従兄のラッパ手を班長に選び、それぞれの家族や親族引き連れてヘーカタ(南部)へ逃げた。同郷の知人も一緒だった。捕虜になるまで皆一緒だった。

 私の家族は、与根海岸近くに艦砲射撃があって「与根は危ないから避難しなさい」と区長に言われるまま上田、高嶺と避難した。避難先だった高嶺の軍の壕と与根とは食料や日用品をとりに行ったり来たりしていたので、与根の状況はある程度分かっていた。それで与根は大丈夫だと思ったのと家への恋しさから与根の珠数森の壕に戻って来た。ところが空襲で壕の入り口がやられてしまい、ここにいられなくなり一緒にヘーカタまで逃げることにした。潮平・兼城、国吉、真栄里を通って喜屋武まで逃げた。途中、相当の人達がやられた。与根の人達もやられた。だが私達は幸運にも全員無事に喜屋武まで着いた。喜屋武では大変だった。海岸線には壕はなく、海のシー(岩かげ)に隠れたが、沖合には米軍の軍艦が陸を監視するように停泊し、空には飛行機が飛んでいるし、地上からは米軍が攻めて来る。三方から挟まれて、大変怖かった。食料にも困っていた。

 逃げる場所がない所まで追いつめられた。もうだめだという気持ちだったので、軍服を脱ぎ捨て、女達のモンペ服に着替え、白旗を掲げて糸満まで引き返し、そこで捕虜になった。
 伊良波の収容所には1~2日いた。そこで男達と女、子供、老人に分けられ、男達は越来へ、他は別の場所へ連れていかれたようだ。私の家族は島袋の近くに移されたと言う。
 越来では軍による尋問があり、軍人、防衛隊か民間人なのかの峻別があった。私は民間人を装っていたので、スーキ・カンナ(惣慶・漢那)行きとなった。ここには家族とは別々に連れてこられたが、風の便りで家族もどこそこに居ると聞き、あっちこっち探し回り、久し振りに再会できた。
 収容所は、だんだんあちらこちらから連れてこられた人々であふれ、仮小屋も手狭になってきたので、私逹は近くの山から木や茅を取ってきて小屋を作った。床は無いからキナーを敷いて山羊のように寝泊まりした。食事の配給はあったが、軍作業に出た場合は、特別におにぎりとか缶詰が貰えた。ここには約半年間いた。

 昭和20年の末ごろ、豊見城村民は米軍のトラックに乗せられて伊良波の収容所に帰ってきた。食糧は配給であったが量が少なかった。与根の自分の家にミソとか食糧、衣服等を取りに行ったがすでに何も残っていなかった。
 3、4ヵ月後与根に帰ることができた。与根の飛行場にはいろんな資材が山積みされていた。家々は焼失したり、ガラガラになっていた。私の家は残っていたが、先に帰ってきていた3、4世帯の人達が入っていたので私達はメーヌ屋や馬小屋で生活した。

(1999年3月聞き取り)

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