我那覇 運天 信成(フィリピン)_1_全文

ID1170751
作者運天 信成
作者備考出身地「我那覇」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目軍人・軍属
細項目フィリピン
資料名(別名)我那覇_運天 信成_「レイテ海敗戦からの生還」_1_全文
キーワード軍人・軍属体験談、重巡洋艦那智、サントス丸
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.837-839
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名フィリピン
都道府県名
市町村
市町村2豊見城市
字2我那覇
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容 「喉もとすぎれば熱さ忘れる」のことばどおり戦後50年平和が続き、物が豊かになるにつれ戦争の悲惨さがいま忘れ去られようとしている。戦争は瞬時に多くの尊い命や財産を失う、このようなことが再びあってはならない。

 昭和6年満州事変勃発。日支事変、太平洋戦争と続き軍国主義教育を受けた私は17年に海軍水兵に志願した。翌18年4月相浦海兵団に入団、10月に重巡洋艦那智乗組員となった。
 那智は1万屯級の重巡洋艦で、第五艦隊司令艦であり、装備は目をみはるばかりであった。アッツ島沖海戦や第一次キスカ撤退作戦のあとで第五艦隊は北方警備の任務についていた。
 私の艦内での配置は第二砲塔の旋回伝令で楽な場所であったが艦内勤務は厳しかった。
 那智は昭和3年に建造され、10年、15年と改装されたが主砲身取替と対空火器取付のため19年になってドック入りした。3ヵ月余りで改装をおえ、佐世保港を出て瀬戸内海の柱島に待機、戦況は日々悪化し、9月末第五艦隊も南方に出撃することになった。

 10月末にルソン島東方海上に到着。艦長から「米軍はレイテ島上陸のため機動部隊はレイテ湾に集結しており、これを第三艦隊が沖合に誘導し、第二艦隊と第五艦隊が双方から挟み撃ちにし、米機動部隊を殲滅する作戦であり、連合艦隊の命運帝国興廃はこの海戦で決する」と告げられた。
 夜に入って第五艦隊はレイテ島めざして出撃、スリガオ海峡に入ったところ、真っ暗闇の島かげから米軍の水雷艇が機銃掃射をしながら艦に魚雷を発射。これをかわし、レイテ湾に近づいたところ「敵艦が火災になっておる」がしばらくして火柱を噴きあげているのは戦艦山城であることが分かった。
 連合艦隊は米軍のわなにはまり、レイテ湾に敵機動部隊はなく、もぬけの殻であったとのことであった。間もなく航行不能になった重巡最上と那智が衝突、艦の前部が大破し、応急修理のためマニラ湾に退避した。

 11月5日午前8時、マニラ湾に停泊していた那智に米空軍の大編隊が爆撃を開始、艦は応戦しながら湾外に出て反撃した。しかし艦と戦闘機ではあまりにも差があり、爆雷撃を無数に受け航行不能となった。単装機銃以外の火器は全く使用不能となり、私達が上甲板に出たら、そこにいた兵士は爆弾や機銃掃射で撃たれ、甲板は血の海となっていた。
 艦内が雷撃で浸水し、上甲板と海面が水平になり、全く反撃できない艦に米軍機の攻撃は激しさを増した。兵士は倒れ、艦は真っ二つに割れ、大音響とともに沈没。私達は必死になって艦を離れた。振り返って見ると、艦の姿はなく、海面から空の高さまで黒煙が噴きあげていた。
 米軍機は艦が沈んだあとも泳いでいる兵士に低空飛行で機銃掃射をくり返していた。この日1日といっても僅か5時間あまりで那智乗組員793名の(第二復員局調)若い命が失われた。
 レイテ、マニラ両海戦で沈没した各艦艇の生き残った兵士がサントス丸に乗船して11月24日マニラ港を出港、日本へ帰国することになった。沖合に出たあとは左右に護衛艦がついての航海であった。

 バリンタン、バシーの両海峡は米潜水艦が出没し、危険海域になっての護衛だったと思われる。バブヤン諸島近くから日が暮れたので「夜は島かげに停泊し、明るくなってから航海してくれれば」と気になっていたが、船は航海を続けていた。
 夜も更けてバシー海峡をとおる頃護衛艦の1隻が魚雷攻撃を受け爆沈、続いて2隻目も沈没。次はサントス丸かと思う間もなく、前部に魚雷攻撃を受け船尾を上に「アッ」という間に沈没。私は真っ暗闇の海上で船から遠ざかるため泳いだ。
 夜があけると十数人が一団となって泳いでいたが、時がたつにつれ1人減り2人減りして陽が高く上った頃は数人だけが大海原に浮いていた。陽が西に傾いた頃友軍の偵察機が上空を旋回していたので手を振り助けを求めたが去って行った。私は「必ず救助される」と確信をもって浮いていた。日が暮れる頃海防艦に救助された。

 一昼夜も泳いだので疲れきって寝むたかったが「寝込んでしまうと死ぬ」といわれ我慢していた。が、何時の間にか寝てしまい、夜明けに「台湾が見える」と聞かされた。正午前に高雄港に着き、警備隊に収容された。今回の遭難で那智乗組員の死没者は196名(第二復員局調)とのことである。フィリピン群島は最大の激戦地で日本兵の戦死者は47万6000人余といわれる。
 那智生存者は高雄警備隊勤務となり、20年のお正月を迎え、お互いの健在を喜びあった。
 軍隊は何の生産手段もなく朝から晩まで殺人を指導し、戦争になり多数の人(敵)を殺した者が英雄としてあがめられる。このようなことがないように思うこの頃である。

(1996年2月寄稿)

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