豊見城 上原 誠徳(沖縄師範学校男子部 師範鉄血勤皇隊) 1 全文

ID1170741
作者上原 誠徳
作者備考出身地「豊見城」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目学徒隊
細項目沖縄師範学校男子部(師範鉄血勤皇隊)
資料名(別名)豊見城_上原 誠徳_「鉄血勤皇隊、恐怖の投降」_1_全文
キーワード軍人・軍属体験談、沖縄師範学校男子部、師範鉄血勤皇隊、首里城、第32軍司令部壕、壕堀り、牛島満、球32軍野戦築城隊、首里・国場・津嘉山・東風平・南山グスク・新垣・真栄平・摩文仁、6月19日師範隊解散
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.835-837
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
豊見城
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容昭和20年3月末、私たち学徒は急遽学校長から集合命令を受け、かねてから師範学校の避難用として構築してあった留魂壕の前に集まった。
 壕は首里城本殿(当時はそう呼んでいた)の北側、城壁の下から正殿の真下部分に向けて掘られていた。
 壕の入り口に整列した私たちに対し、部長(教官のことを当時そう呼んでいた)が「諸君は今日から本科1年に昇進(進級のこと)した」と学校長の言葉を代弁した。それまで予科2年生だった私たちは昇進を喜びつつも、修了証書も何もない「進級認定」に胸中は複雑であった。
それから息つく間もなく部隊への入隊編成が行われ、私たちは「鉄血勤皇師範隊」として友軍に配属されることとなった。
 司令本部付き、あるいは通信隊などと配属先も幾つかに分けられた。

 私が配属されたのは球32軍野戦築城隊であった。私たち学徒はだいたい10人ひと組で1つの班をつくっていたが、同隊には3個班編成(約30人)で配属となった。 築城隊の任務はほとんどが壕掘りである。首里城のほとり、ハンタン山の斜面には32軍の司令部壕が以前から構築中で、私たちはそこで兵隊らと一緒に壕掘り作業に連日従事するようになった。
 首里城下を反対斜面に向けて掘りこんでいく作業は大変な重労働である。奥深く掘り進む壕内にはトロッコが導入され、兵隊らが掘った土砂をそれらに運んで外に運搬投棄するのが私たちの主な作業だった。クチャと呼ばれる土質もある程度掘りこんでいくと、なかには腐りかかったような異臭を放つこともあった。
 いくつかある壕のなかには、入り口から少し進むと階段状に下に降りる構造となっているのもあって、その数85段、その途中には寝台などが置かれ、かえってそれが生々しさを引き立たせていた。
 米軍が上陸し、戦争が激しくなって後も、しばらく壕掘り作業は続いた。首里でも次第に敵の攻撃が激化してきたが、地下約30メートルもある壕内にいると至近弾を受けても「コーン、コーン」と響くだけである。
 1日の壕掘り作業を終え、夕暮れどきに司令部壕を出て自分たちの留魂壕に帰るときに目にする周囲の惨状が戦況の深刻さを伝えていた。そんな時期のことだったが、壕内の一室で女の人に団扇で扇がれながらちょうど食事をとっている牛島司令官らを見かけたこともあった。

 5月の始めごろには、首里城正殿が敵の黄燐弾を受け焼失、司令部壕と留魂壕との行き来の最中に負傷したのか、字我那覇出身の安谷屋清市先輩が膝に大ケガをし、だいぶ苦しんでおられたのもこの時期であった。
 司令本部の情報では米軍は中部方面よりいよいよ南下、その第一線部隊は東海岸を与那原から那覇向けに進攻、西側は天久から泊高橋、崇元寺方面に向かっているとのことであった。敵の進撃が中南部に迫ってこようとしている最中のことであるが、司令官が「敵さんも頑張っているなあ」と呟いているのを耳にしたこともあった。
 32軍司令部にあと2キロたらずという距離まで敵が迫ってきた5月28日、司令本部から私たち師範隊にも島尻の摩文仁方面への撤退が命令された。
 首里金城の石畳を下り、国場、津嘉山、東風平を経て、南山グスク周辺にあった壕で一泊。さらに新垣、真栄平を通って摩文仁に着いたのは6月の始めごろであった。

 到着したときは、戦争の最中と思えないほど辺りは非常に静かだったが、1週間が過ぎるころから艦砲射撃や迫撃砲の弾が雨のように間断なく降ってきた。集落内の屋敷や道路、どこを見ても死体がごろごろと横たわり、目を覆うような有り様であった。
 私たちは海岸に程近い自然壕に身を寄せていた。摩文仁に移ってからは特に任務らしい任務もなく、ただ敵の攻撃から身を隠す毎日であった。

 あるとき私たちの隠れていた壕の近くで馬が1頭、幾度となく炸裂する迫撃砲の至近弾に脅えなきながら松の木に括りつけられていた。その後、馬は爆風か破片にやられたのだろうかその場に息絶えていた。それを目にした私たちの班長である仲間先輩が、「上原君、馬がやられたから馬肉を取りにいこう」と誘ってきた。2人で倒れた馬の大腿部を切り取り、壕に持ち帰ってみんなで空腹の足しにしたのだった。

 それから幾日か経った6月19日、軍から師範隊に対し最期の命令が伝えられた。それは「師範隊は解散。敵中突破のあと国頭方面の護郷隊と合流して最期まで戦ってもらいたい」という内容であった。
 私たちは2、3名ずつ組んで日没を待ち、摩文仁を出発した。内陸部は既に敵の制圧下にあるので海岸沿いに歩みを進め北上することにした。まずは港川方面に向かったが海岸は陸に向けて機関銃を構えた敵の舟艇がうようよの状態である。解散北上の軍命令を受け2日経っても昼間はほとんど身動きがとれず、未だ摩文仁沿岸から抜け出せない私たちはまさに進退極まった状況であった。
 6月21日昼ごろ、行動をともにしていた友人5人で相談、私が「死ぬことは容易い。ここは出来るだけ生き延びることにしよう。そして万一最期の状況になったときにはガソリンタンクに火をつけ敵もろとも自爆しよう」と投降することを進言した。仲間たちもみんなそれに賛同してくれた。
 私たちは意を決し、岸辺近くまで接近してきた敵の上陸用舟艇に両手をあげ近づいていこうとした。すると近くの岩陰にいた日本兵が「どこに行くんだ」と今にも私たちに向けて銃を発砲する構えを見せた。その場を脱兎のごとく敵舟艇に逃げ込んだ私たちであった。
 鬼畜と教えこまれた米兵のもとへ身を委ねようとする未知なる恐怖感、そしてさらにそこに覆いかぶさった背中越しの友軍の恐怖に戦慄し、ただただ「恐かった」という気持ちであった。
 やっとの思いで舟艇に乗り込んだ私たちであったが、しばらくして落ち着いたころ、米兵から与えられたビスケットや缶詰の支給にようやく「命拾い」したことを感じた。
 もし、あのまま逃げ隠れ続けていたら今頃、自分たちははどうなっていたのだろうか。あのとき意を決してとった5人の行動に思いを馳せる現在である。

(1999年6月寄稿)

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