根差部 外間 清幸(南部避難) 1 全文

ID1170731
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)根差部_外間 清幸_「辛かった戦争体験」_1_全文
資料内容私は昭和5年生まれで、沖縄戦当時は14歳だった。私は4男3女、7人兄弟の一番末(四男)である。
 沖縄戦が始まったときの私の家族は、嫁いだ姉2人と、南方に出征していった長男兄さんを除き、父、母、兄2人(二男、三男)、姉(三女)、そして私の6人家族だった。

 10.10空襲(十・十空襲)(昭和19年)の始まる前あたりから、私たち生徒も軍の作業にひんぱんに駆り出され、ほとんど勉強はできなかった。
 軍のトラックが通行しやすいようにと、豊見城城址周辺から石を拾ってきて、一豊(現在の長嶺小学校)前の泥道を舗装する作業や、壕掘りの土運びを手伝ったりという作業であった。10.10空襲(十・十空襲)のあとからは平良にあった陸軍の壕掘りにもよく駆り出された。

 沖縄戦も間近になると、青年学校の教官をしていた二男兄さんもほとんど兵隊同様の仕事で家にはおらず、父と三男兄さんも防衛隊へ召集され、家には、母と三女姉さん、それに私の3人だけが残された。
 その当時、根差部の入り口付近は、現在と違って相当高い谷間となっており、私の家はちょうどこの谷間の崖っぷち(ウナーフチと呼ばれていた)にもっとも近い集落の一番入り口に建っていた。その谷間の斜面には海軍と暁部隊の壕が構築されていた。
 沖縄戦が始まり、艦砲や空襲も次第に激しくなった5月下旬頃だったと思う。字内のタカトゥイモーにのぼって周囲の様子をうかがっていたら、嘉数と根差部の中間あたりの上空から敵機がグウーッと侵入してきてそのまま真玉橋方面に向かって攻撃を開始した。このとき橋も攻撃され、とくに「橋のチビー」と呼ばれた真玉橋の対岸側が集中的にやられたのを目撃した。
 6月に入ると、ますます戦況は悪化した。ある日、海軍の兵隊が私たちに、「家に触るな」と命令した。聞けば、夜間やってくる特攻隊の目印にするため燃やすんだと言う。人の家に何て勝手なことを、と思ったが軍の命令にはどうすることもできず、それから以後は戸板を外すことさえできなかった。しばらくしてまた海軍が、「いよいよ敵が迫って来たので壕をすべて爆破する。お前達は部落から出ていけ」と言った。当時、部落の人達のほとんどは、集落の南側崖下にあったマヤーガマや周辺の山に避難していたが、私たちは海軍の壕のすぐ上のほうに自分たちの避難壕を掘っていた。

 家だけでなく、隠れていた避難壕さえも海軍に奪われた私たち家族は、仕方なく字を離れることにした。6月5日頃のことである。私たちが根差部を脱出しようとしたとき、ちょうど米軍は今の赤十字病院付近まで迫ってきていた。
 海軍に壕を追われた私たち家族は、急いで身支度をし、わずかな米と味噌、ウムクジを持って字を出た。そのときは父も防衛隊から家に戻ってきていて、父と母、それに私と三女姉さんの家族4人、これに加えて二女姉さんとその子供たち2人、さらに二男兄さんの嫁さんとその子供1人が合流して、合計9人で避難することとなった。

 行くあてのない私たちは最初、一豊(豊見城第一国民学校)の恩師でもある金城徳明先生を頼りに字宜保に避難することにした。金城先生とは青年学校教官だった二男兄さんを通じて親交があった。私たちは金城先生の家で一泊お世話になったあとそれから字武富へ移った。そこで、たまたま遭遇した同じ根差部のおじの家族〈二男徳小堀川〉とも合流した。 私たちは集落はずれの墓地の近くに手頃な岩場を見つけ、そこに隠れていた。しかし、しばらくして日本兵がやってきて、軍が使うからそこから出ていけと言われた。
 私たちは、別の場所へ移動するしかなかった。行くあてもなく畑や山の中を突っ切り、さらに南へ向かった。糸満を経て真栄里に差しかかったところでは敵の激しい攻撃を受け、いとこがやられた。その場を逃げるのに必死だったため葬ってあげることさえできなかった。

 次にたどり着いたのは名城だった。そこは隠れる場所もなく、私たちは破壊された屋敷や石垣のかげに身を寄せた。武富から出てずっと歩き通しだったため、のどが渇いてカラカラだった。しかし名城部落の共同井戸へ行けば、敵に狙われてやられると思い、水を飲むこともできなかった。辺りは艦砲や砲撃がいっそう激しくなっていた。
 私たちは、名城から海岸伝いに喜屋武へ向かった。昼間は隠れ、夜動き出すという毎日であった。喜屋武に移ったときも、夜中の浜辺をアダンの茂みの中から移動した。昼間、海に目をやると敵の軍艦はぎっしりと島をとり巻いていた。
 さらにそこから福地・山城に向かった。ここも砲撃の痕が凄まじく、山肌は真っ白な石がむき出しとなり、木もほとんどなくなっていた。私たちは山中で適当な岩陰をみつけそこに隠れていた。私を真ん中にして二女姉さんと三女姉さんが並んで座っていたときのことであった。突然、ブーッと艦砲が飛んできて私たちの目の前で炸裂した。私の両側に座っていた2人の姉が両方とも頭をやられ倒れ込んだ。即死だった。私は土をかぶっただけで奇跡的に助かった。このとき、姉の隣りに座っていた同じ部落の人も亡くなった。さいわい、二女姉さんの二人の子のうち、1人はずっと私がおんぶしており、もう1人の子も大丈夫だった。

 私たちは束辺名へ移動した。ここにたどり着くまでに2人の姉を亡くし、一緒に行動したおじの家族や同じ部落の人達からも犠牲者が幾人か出ていた。目の前で続く悲惨な出来事にいつ死んでもいいという気持ちになっていた。
 私はあまりにも水が欲しくて、どうせ死ぬんだから潮水でも飲んで死のうと思い、海から潮水を汲んで飲んだが、飲めるものではなかった。空腹をうめるため、アダンの実も口に詰め込んだが、これも食べられるものではなかった。
 義兄(二女姉さんの夫)にばったり遭遇したのも束辺名だった。村役場の職員だった義兄も、戦時中ずっと公務に駆り出され、それから南部へ逃げてきたのだろう。久々の再会だったが首から背中にかけて大ケガをしており瀕死の状態だった。ケガをして何日か経っていたのか、傷口からはウジもわき出ていた。福地・山城で亡くなった二女姉さんのことを話したら、うなづくだけであった。しばらくして義兄も束辺名で息をひきとった。また、これまで一緒だった嫁さん(二男兄さんの妻)も、ここ束辺名で偶然に二男兄さんと再会し、それからは私たちと別々の行動となった。しかし、兄たちも束辺名でまもなく子どもが手榴弾でやられ、さらにその後兄も亡くなっている。

 身内を次々失った私たちは、いっそ豊見城に戻って死のう、と束辺名を出ることにした。夜を待ってふたたび内陸の山中に向かって歩き始め、福地辺りに差しかかった。途中、水たまりがあって、人が亡くなっている隣りから水を飲んだ。それから少し歩いて父が一言、二言声を挙げた次の瞬間である。バッと照明弾があがり、銃弾が雨あられのごとくこちらのほうに撃ち込まれた。いつの間に私たちは敵陣地の手前まで近づいていたのである。この攻撃で今度は父と従姉妹が亡くなった。おじも胸を撃ち抜かれる重傷を受けたが、なんとか助かった。
 私たちは夜が明けると同時にそこで米軍に捕らえられ捕虜となった。重傷を負ったおじは別に運ばれた。私たち家族で生き残ったのは母と私、それに2人の甥(亡くなった二女の子ども達)だけだった。私たち4人は、福地からトラックで直接野嵩へと連れて行かれた。

 野嵩の収容所には1カ月ほど滞在したと思う。米軍の野戦用テントに10家族ぐらいが収容された。缶詰などの配給はあったが、そこでもケガや栄養不良のためどんどん人が亡くなった。私たち家族からも、2人いた甥のうち1人が栄養不良でまもなく息をひきとった。まだ1歳半の幼子であった。

 私は若かったので野嵩にいたとき、よく亡くなった人を埋める穴掘りをさせられた。亡くなる人があまり多かったので1つの穴に45名ぐらいいっぺんに葬るのが常であった。このほかトラックに乗せられ米軍の作業に連れていかれることもひんぱんにあった。
 私たち家族は、そのあとさらに古知屋開墾に移された。ここには3、4カ月いたと思う。配給される食べ物も非常に乏しく、1日1食、おにぎりが2個配られるだけだった。これで私たちは毎日作業に駆り出された。おもには山に入って竹を切り出す作業であった。竹は当時、避難小屋の屋根の材料として使われていた。
 私は食糧や物資不足を補うため、ときどき仲間たちと一緒に収容所を抜け出しては、米軍のゴミ捨て場へ通うこともあった。遠く読谷まで出かけたこともある。明け方にそうっと収容所を出て、山の中を歩いて向かった。主要な道路にはだいたい米兵のMP(憲兵)やCP(民警察)が監視していたためである。私たちはゴミ捨て場から缶詰や野戦服などを拾い、夜そうっと帰ってくるのである。しかしこの頃はまだ14、5歳で体力もあまりなかったので、せっかく持ち帰った物も途中で重くなって、捨ててしまうことも度々だった。
 母もこの古知屋で、戦場での過労と栄養不良で倒れてしまい、一時は生死の縁をさまよったことがあった。母と2人で、残された甥の面倒をみていたから、もしものことがあったらこれからどうしようと、そのときはものすごい不安にかられた。さいわい母はその後回復し元気を取り戻した。

 収容所に入って3、4カ月が経過した頃、念願の帰村が叶った。私たちは米軍のGMC(トラック)に乗って豊見城村字伊良波に到着した。私たちが入ったところは伊良波集落の上のほうで、現在の中学校の近くである。ここでも相変わらずテント暮らしの毎日であった。配給も十分でなく、そのために私たちは伊良波と根差部の間を絶えず行き来した。伊良波の山から上田に下り、さらに高安を通って今のとよみ小学校付近にあった山道から部落内に入っていった。要所要所に立つ監視の目をかわしながら根差部に入り、畑に残されたイモ、さらに戦争前に土中に埋めて隠してあった食器や味噌などを掘り起こし持ち帰った。このころ、根差部や隣接する嘉数にはまだたくさんの米軍部隊が駐屯していた。そのため、女の人では危険だということで、部落へ往復するのは男の人が多かった。米軍がいた場所は根差部の東原一帯や、嘉数の集落内、さらに現在RBCの鉄塔のある付近、このほか長嶺グスクの反対側にも駐屯していたと思う。これら米軍が他へ移動してあとからは、次に国場や仲井間など真和志村の人達が滞在するようになった。

 昭和20年4月頃、私たちがまだ伊良波にいたときのことである。どこからか「津波が襲ってくる」という情報が流れ、このとき私たち家族は、字高嶺の高台まで避難した記憶がある。
 やっと根差部に帰れたのは、6月ごろだったと思う。周辺には、真和志村の人達もまだ残っていた。根差部には焼失をまぬがれた家など一軒も残っておらず、一面焼け野原であった。そのため、最初はテント小屋や廃材を利用した掘っ建て小屋での生活だった。その後キカクヤー(規格住宅)も配給されるようになり、字民が共同作業で家屋の建設や集落内の復興に取りかかった。
 生活が落ち着くと遺骨収集も行った。部落周辺に散乱していた遺骨を字民共同で収骨し、部落の東端にあるメーヒジモーに「遺芳の塔」を建立し祀った。
 私たち家族は、島尻での避難中、父と姉2人を亡くし、長女姉さんも嫁ぎ先の字豊見城で亡くなっている。3人いた兄たちも、長男は南方で、二男、三男は沖縄戦でそれぞれ亡くなった。両親、7人兄弟のなかから、生き残ったのは結局、母と私だけであった。
 戦後は、母と2人で姉の忘れ形見である幼い甥を家族同様に育て、一生懸命働いた。私は一気に家族の大黒柱となったため、ほんとうに苦労した。
 戦争は私たちからかけがえのない家族を奪った。二度とこのような戦争を起こしてはならないと、体験者の立場からいつも思っている。

(2001年聞き取り)
キーワード一般住民体験談、10.10空襲(十・十空襲)、壕追い出し、家屋焼き払い
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.827-831
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2根差部 外間 清幸(南部避難)_1_全文
出典2リンクhttps://jmapps.ne.jp/tgda/det.html?data_id=1566301
出典3語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc3、YouTube @TGDA_okinawa
出典3リンクhttps://youtu.be/H61BI1qeWxY?feature=shared
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
根差部
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類36010606市史編集
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編

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