根差部 比嘉 ミコ(村内避難) 1 全文

ID1170721
作者比嘉 ミコ
作者備考出身地「根差部」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目村内避難
資料名(別名)根差部_比嘉 ミコ_「殺された家族」_1_全文
キーワード一般住民体験談、出産、
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.826-827
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
根差部
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容昭和20年4月ごろになると、根差部方面も戦争が一段と厳しくなって来た。私たちの家も焼けてなくなってしまい、100メートルぐらい離れた壕の中に身を隠していた。当時私は身重だったが、唯一焼け残った馬小屋で男の子(三男)を無事に出産することができた。4月5日だった。食べ物は少なく栄養状態が悪く、生まれた子には水ばかり飲ませていた。昼間は壕に隠れて、夜になると義姉が家に戻り食事を作ってきてくれた。

 6月になると敵も目の前に迫って来たので、私たち家族、親戚は着の身着のままで饒波の壕に避難した。雨の多い梅雨の時期であった。根差部から饒波へ避難途中に手足のない兵隊、民間人の死体が並べてあった。負傷した人達が助けを求めたり、水を求めたりしていた。子供は生まれて2か月ぐらいだったが泣きはしなかった。タオルで包み、だっこして避難した。饒波にはまだたくさんの部落の人達がいた。

 長男と義姉は壕に入るのを嫌がり外にいたが、弾が飛んでくると近くの溝の中に横ばいになり身を隠したりした。私たち家族、主人、私の妹、二男、三男は壕の中に隠れていたが、突然ガスみたいな物が投げ込まれたのか、目が見えなくなった。気が付いたら私だけ奇跡的に生き残っていたが、声は出なくなっていた。私はもう生きるか死ぬかの状態だった。全滅だった。とてもつらかった。壕の中にアメリカ兵が入って来たが、私1人だったので逃げた。どこがどこだか分からないが、山の中を2か月ぐらいさまよっていたと思う。何も食べ物もなく、井戸の水を飲んで1人で逃げ隠れしていた。木の上にはハブもいたし、とても怖かった。もう死んだ方がましだと思い、ひもで首を絞めたこともあった。もはや1人では逃げ切れない、話す相手もいないし、とても淋しい。身につけた着物も長い間着けっぱなしで汚くなり、やはり死のうと家族の死んだ壕(饒波の壕)に戻って来た。しかしこの壕は焼けてしまってもう中には入れなかった。なんとも言いようがなかった・・・。そして近くの別の壕に身をよせていたが、たぶん8月3日だったと思うがついに捕虜となった。捕虜は私1人だけだったので、アメリカ軍の大きなトラックに乗せられた時は、大変怖かった。アメリカ兵からお菓子をもらった。越来の収容所に連れていかれた。

 そこには、たくさんの人達が集まっていて、豊見城村の人もいた。ここで偶然にも根差部のオバーと水汲み場で出会った。オバーが「ワッター所に行こう、皆元気でいるから」とおっしゃるのでついていったら、饒波で離れ離れになって以来行方の分からなかった義姉と私の長男が元気でいた。何と言う出会い、再会か!敵が偶然にも私たちを引き合わせたのかと思った。

(1996年聞き取り)

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