根差部 大城 コト(南部避難) 1 全文

ID1170711
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)根差部_大城 コト_「戦争を思うと涙が出る」_1_全文
資料内容私は大正5年生まれで、戦争当時は29歳だった。戦前、私の家は農業をして暮らしていた。

 10.10空襲(十・十空襲)のちょうどその日、私は知人と近々武部隊に入隊することになるいとこのことで立ち話をしていた。部落の青年会で送別会をしようという話しを、畑へ行く途中でしていたときのことである。突然空を見上げると飛行機がいっぱい飛んできた。「これは空襲だ」ということで、慌てて壕の中へ避難した。夕方の4時5時ぐらいになると、壕の中は那覇からの避難民も入ってきて満杯状態であった。
 この空襲で那覇の街は焼けてしまい、たくさんの避難民が根差部にも入ってきた。こんなにいっぱいの人がやってきて夕御飯はどうするのだろうと思っていたら、字の公民館であり合わせのものをつくってその人達に差し入れをしていた。それから2、3日の間、避難してきた人達は公民館で過ごしていた。それからあとは根差部の人に宿を貸してちょうだいという人もいれば、別の場所へ移っていく人もいた。
 避難民らは、味噌などいろいろな物を集め、畑にあるイモを掘ってきては御飯を炊いていた。米はあまりないのでウケーメー(お粥)をつくっていた。

 戦争が次第に激しくなったときのことである。私たちの家では、部落周辺の何カ所かに壕を掘ってあったが、どの壕も行ってみると別の人が先に入っていていっぱいだった。追い出すこともできず、仕方ないのでおじいさんがもう一つ壕を掘ったほうがいいと言い、みんなでまた掘り始めた。その時に、妹が足をやられた。
 妹は、荷物を取りに行こうとしたとき、運悪く機銃の弾が足にあたったのだった。そこは私とおじいさんが壕掘りをしていた場所から、わずか10メートルくらいしか離れてなかった。弾がまだ足の中に残っており、そのままにしていると足が腐ってしまうというので「取りだそう」と言うことになった。「我慢してよ」と言って、おじいさんがカミソリで傷口を切って弾を取り出してくれた。友軍が家を宿舎に使っていた時、薬をいろいろ置いていってくれたので、そのときもらった薬で足を手当てした。
 私たちはこれ以上ここにいては危険だと考え、字を出ることにした。妹は足のケガで歩けないのでみんなで交替ずつおんぶして字渡嘉敷へ向かった。そこで2日間過ごした。しかし、渡嘉敷も危ないという。私たちは歩ける所まで歩いて行こうと決め、座波・賀数まで移動することとなった。

 座波・賀数にたどり着くと立派な家があった。でもそこにもたくさんの避難民がいて、「ここには入れないよ」とおじいさんが言った。しかし夜にならないと移動できないので、夜までここで待つことにした。午後3時ごろ一緒にいたおじいさんが、用を足しにいくといって外に出たときやられた。ここも早く出なくてはならないということになり、私たちはスンジャ・カナグスク(潮平・兼城)に向けて逃げることにした。
 逃げ回っているときは、みんな荷物を抱えての移動だった。小さな子どもたちにも食べ物の入っている荷物を少しずつ分けて持たせ、私も荷物を持っていた。
 兼城に着いたのは次の日の早朝だった。昼頃になるとおじいさんが「子どもたちはひもじいはずよ、ごはん炊いてあげないか」と言った。しかし上空を見ると、飛行機がたくさん飛んでいたので、今外に出るとやられると思い様子をみることにした。しばらくすると、飛行機の姿が見えなくなったので、ごはんを炊いて持っていた味噌を中に入れおにぎりにして食べた。それから夕方5時ぐらいになって、外に出たらアメリカーに捕まった。両方から捕まえられて逃げられなかった。

 捕虜になって2晩は、兼城で過ごした。アメリカーが缶詰やらお菓子などをたくさん置いていた。しかしアメリカーからもらった食べ物は毒が入っていて食べたらだめと言われていたので、誰もそれらの食べ物に触る者はいなかった。
 そこへアメリカーが3人入ってきた。「何で、これを開けて子どもたちにあげないのか」というような身振りで、しゃべっていたようだったが、私たちが手で「いらない」と首を横に振ると、そのアメリカーたちが袋を開けて自分から食べてみせはじめた。そして何でもないということが分かると、それからは、私たちもその食べ物を口にするようになった。それ以降、私たちは缶詰だけを2、3日食べ続けた。

 私たちは潮平兼城の浜から今度は戦車(水陸両用車)に乗せられ、そのまま大きな軍艦に乗せられた。
「アキサビヨー、私たちはこれで沖に捨てられるのだな」と思った。「アキヨーナー、死ににだな」「こんなにたくさんの子どもたちも捨てるんだな」と思っていた。足をケガしている妹も、熱が出て苦しんでいたおばあさんもいつしか船の中で離ればなれにさせられ、それからあとは3カ月間ぐらいどこに行ったか分からなかった。生きているのか死んでいるか、おばあさんや足の不自由な妹のことがそれからずっと頭から離れなかった。「どんなにしたのかなぁ」と。私たちは潮平から大山に移され、さらにそこからヤンバルの捕虜収容所に連れていかれた。

 そこで3カ月ぐらい収容所生活を送っていたら、字渡嘉敷の人が「あなたの妹とおばあさんは病院にいるよ」と教えてくれた。それからは、午前中作業に出て、午後から、おじいさんと一緒に病院に出かけるようにした。しかし大きな道にはだいたいCP(民警察)が目を光らせて立っているから歩けない。CPは銃を持っていたから見つかったら大変だ。しかしどうしても妹らがいる病院へ行こう。ということで、私とおじいさんとおばさんの3人は山に入ってそこから山道を通り病院へ向かった。
 たくさんあるテントの中からやっと妹を見つけると、痩せてやつれてはいたものの、ちゃんと生きていて足も手当てされていたので、ほっとした。そこに嘉数の人が来て、「おばあさんを探しているのね」と言うので、そうだと答えるとおばあさんのいる別のテントを教えてくれた。おばあさんは夕方5時ぐらいに作業から帰ってきた。「どうして病院に入っているのに作業に出るの」と聞くと、元気な時は作業に出ないと他の人に悪いさと答えていた。でもほんとに元気でいたから良かったさぁと言って、再会を喜びともに泣いた。私たちは、妹とおばあさん2人の無事な姿にほっと一安心した。
 妹の具合も良くなりつつあったし、おばあさんと妹は私達が病院から一緒に連れていくことにした。離ればなれだった家族がまた一緒になれ、すごく嬉しかった

 しばらくしてヤンバルから豊見城村に帰れることになった。最初に戻った場所は伊良波にあった収容所だった。 村に帰ったときは寒くなっていたので、12月ごろだったと思う。何カ月かあとには、それぞれの部落に帰ることができると言ってはいたが、その頃はまだ、アメリカーが多くて帰れなかった。
 字嘉数には、アメリカーの部隊があったので周囲にも兵隊がまだいっぱいいた。収容所から部落に通って作業に行ってもアメリカーに追われて大変だった。
 戦のことを思うと涙が出てたいへんだ。これからの時代にもし戦争が起きたら、私はもうどこにも逃げないと思う。いや、反対に余計逃げるのかな。いずれにしてもまたこんな戦争があったら大変だ。

 戦前、ゴーフヤー(壕掘り)をしていたとき、穴を掘りながら兵隊に聞いたことがあった。この穴にも隠れるのかと。すると兵隊は「この穴は敵が来るのを見るためのものだ」と言った。私はこんな穴から見ていると、反対に撃ち殺されてしまうと思った。
 私達は、10.10空襲(十・十空襲)の前、壕掘りに駆り出されていた時期に、家が火事で焼けてしまった。作業に出ていたから自分達の家が焼けるのも分からなかった。家に帰ると飼っていた豚が集落内のあっちこっちで歩き回っていた。焼けてしまった家で豚を飼うのも大変だと思案していたら、兵隊達がさっそく豚を捕まえ持ち去って食べてしまった。
 終戦直後の部落の様子は、掘っ立て小屋を造って、イモや野菜を植えたりしていた。那覇から買い出しにくることもあった。食べ物はほとんど自給自足、自分でつくって、それを食べたり、売ったりした。ときどき糸満の人たちが物々交換にくることもあった。
 家も廃材を利用したり山から木を切り出して造った。そしてアメリカー服等の配給があると、それを仕立て直して子どもたちの服を縫ってあげた。
 メリケン粉や米などのわずかな配給を食べて、残りは野菜などの物々交換で得たものを食べていた。
 戦時中、私たちが最初にいた壕に、首里から来た親子(母と娘)が壕の入口でもいいから泊めてくださいとやってきた。狭くて座ってしか眠れないけどいいですかと言って、泊めてあげた親子がいた。その人たちが今でも正月、盆には私の家を訪ねてくる。そのときの母親は亡くなったけど娘2人は今も元気である。

(1996年聞き取り)
キーワード一般住民体験談、10.10空襲(十・十空襲)
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.822-825
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
根差部
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類36010606市史編集
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編

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