根差部 赤嶺 カメ(山原疎開 大宜味村喜如嘉) 1 全文

ID1170701
作者赤嶺 カメ
作者備考出身地「根差部」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目山原疎開(大宜味村喜如嘉)
資料名(別名)根差部_赤嶺 カメ_「戦争は二度としてはならない」_1_全文
キーワード一般住民体験談、
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.817-822
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
根差部
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容私は明治41年生まれで、戦争当時は37歳だった。家族は10名だった。

 昭和19年10月の空襲の後、垣花の人達が根差部に避難してきた。そのときは、空家はもちろん、メーヌヤーが空いている家も避難してきた人達へ貸しなさいということになった。さらに、これらの避難民には食べ物の配給がなかったから、畑で作ったイモの大きいものからその人達へ売りなさいということになった。そんな状況だったため、村は避難民から最初に疎開させるよう指示が出ていたようだった。避難民の多くは、その後、字を離れて山原など他の地域へ移って行ったが、部落民の疎開は少なかった。疎開先は大宜味村の喜如嘉に割り当てられていた。

 疎開する前、ちょうど5男が満1歳の誕生を迎える頃あたりから私は徴用作業に駆り出されるようになった。小禄の向かいから城ヌ下まで「散兵壕」を掘った。散兵壕というのは、人が通れる3尺位の幅で掘られた穴のこと。敵がやってくると、この壕に入り込み頭だけをだして、鉄砲を向けて撃つための壕である。軍はこの壕をテーラウフナー(字平良)の所まで掘ると言っていた。自分たちも高安の所まで作業した。その後、長嶺グスクでも軍のゴウフヤー(壕掘り)をした。
 散兵壕を掘っている時、休憩時間に私は兵隊さんの所に行ってよく話を聞くことがあった。
「エエー兵隊さん、もうこうなったら敵が上陸するのは決まっているでしょうね。」
「そうだなあ、あんたは子ども達はいるか」と兵隊は逆に私に聞く。
「長男と二男は本土に疎開させたが、今も男3人に女1人おりますよ」
「ああ、そうか。それじゃ村からどこかに避難したほうがいい。割り当てがあるでしょう」
「はい。私たちの所は大宜味村喜如嘉と決まっているようだけど、垣花の避難民から早く行かしなさいといって、自分たちの部落民は誰一人と避難しないんです」
 するとこの兵隊さんは「だけどな、早く子どもたちを連れて避難したほうがいいよ」と言った。
私は「それなら兵隊さん、戦争が始まるというのは、どんなふうなものかね」とまた聞くと、「船から陸に向けて艦砲というのを撃つから、この艦砲が撃たれたら、もう上陸だ」と言う。兵隊さんの教えてくれたことに私は「そうですか」と答えて、やっぱり戦争はやってくるのだとあらためて思った。そのような騒がしい時期に私の夫も読谷へ兵隊として召集されてしまった。
 空襲警報が頻繁におきるようになってからは夫と親戚の人で掘った壕をいったりきたりしていた。

 3月23日、ゴーンゴーンという音がするので、ほかの人にあの音は何かとたずねると、艦砲の音だと教えてくれた。以前に兵隊さんから艦砲のことは聞いていたので、もうそのときからはいても立ってもいられなかった。
 私は親戚も揃って避難しようと両方の親に相談したが、おじいたちは「イチムシ(家畜)をほうってどこに行けるか」と言われた。家では豚から山羊・馬を飼っていたので避難はできないと親に言われ、それなら長女の○○○は置いていくからと言ったら「たくさんの子供をお前1人で面倒見ながら避難するのは大変だ、○○○もつれていきなさい」と私と長女、三男、四男、五男の5人の疎開に理解を示してくれた。

 艦砲の音が頻繁に聞こえるようになった。25日の朝出発の準備をし、親戚のウヤファフジにも手をあわせ、命の安全祈願をしてその夕方出発した。
 部落の入口には5、60名の兵隊が駐屯していた。ちょうど私たちがそこを通る時は整列をしていた。その中に1人のとても顔なじみの兵隊さんもいた。よく私たちが食糧を分け与えていた兵隊で、イモやお汁を食べた後、いつも仲間にも持っていっていいか、とイモと砂糖をもらっていった。お礼にと、ときどき子供たちにカンパンを持ってきてくれた気のいい兵隊さんだった。
 この兵隊さんが整列の中から飛び出してきて、「姉さん、元気で行ってきてナー、○○○ちゃん元気で行ってきてナー、さようなら」といってくれた。
 その時は、隊長さんも列をはみ出したこの兵隊さんを怒ったりしなかった。しかし、後で聞いた話によると、あの兵隊さんは戦死したという。もし元気だったら、親も連れて挨拶しに来たと思う。○○○とはとても仲良しだった。いつもおいしい、おいしいと言って百号イモを食べていたあの兵隊さんの姿が今も思い浮かぶ。

 私たちは真玉橋を通って真和志を通過し、夜中に普天間まで着いたところで休憩した。5歳になる四男もずっと歩き通しだったので、この子は休憩と同時に寝てしまい、その後はなかなか起きなかったので、長女の荷物を私が持って、四男は長女がおんぶして出発することにした。
 ここからはたくさんの人が歩いていた。
 私たちはひとまず娘が嫁いでいる知花のバシクブ部落に行き娘家族と一緒に山原へ行く計画である。歩いているうちに夜が明け避難のため近くのガマ「トゥールガマ」というところに入った。
 壕の中にはたくさんの人がぎっしり入っていた。この壕には10名位の海軍もいて後から2名の陸軍とが鉢合わせとなり、陸軍の兵隊が「お前達は海軍だろ。お前らが陸にいるから敵が入ってくるんだ。お前達から殺してやろう」と避難民から包丁をうばい取り喧嘩となった。私達民間人はこのときみんな慌てて外に飛び出した。中にいたら自分たちも殺されると思ったから。とても大きな兵隊さんだったのでほんとうに怖かった。多分あの兵隊は酔っ払っていたのだと思う。
 私たちはこの壕を出て、また歩き始めた。しばらくすると、8歳になる三男もずっと歩き通しだったため足が膨れて歩けなくなってしまった。すると1人のおじいさんが「どうしたのか」と歩み寄ってきた。私が理由を言うと、このおじいさんは「あなたも娘もそれぞれ子どもをおんぶしているのに、この子は私がおんぶしてあげよう。」と言ってくれた。
 この見知らぬ人は私達が行くバシクブ部落の人でちょうどこれから帰る途中であった。私達は道が分からなかったのでその人と一緒に行くことになった。
「ここが私の家だから、ユクティ(休んで)から行きなさい」といわれて入って行ったら奥さんは偶然にも私の母の知り合いであった。そこでウケーメー(お粥)やウムクジと砂糖を混ぜたのをご馳走になった。空腹がつづいていたのでこのもてなしには感激した。
 私達はそのおじいさんと娘の家(屋号・嘉味田)を訪ねたが誰もいなく、少し離れた部落民の壕に案内された。
この壕にもたくさんの人がいた。ここに2日泊まることになった。

 娘婿に「私達は、ヤンバルまで行くつもりで部落を出たのであるから、早くヤンバルに行こう」と言った。しかし、ヤンバルまでの道のりが分からない。たまたまヤンバルから荷物を取りに来ていた人に「ヤンバルまでの道を教えて下さい」と言ったら一緒に行こうと言われた。しかし、このときその人の娘が「いやよ、私達は豚を殺して食べてから行く」といったので、私達はこの親子と分かれて山原へ行くことにした。
 山原への道はたくさんの人がいた。金武の大橋は壊されていたので、三男も四男もカタシンボウ(肩にのせ)して渡った。水かさもだいぶあって渡るのに一苦労だった。さらに進み金武のサーターヤーのかまの中で休憩した。その時飛行機からタマガラー(薬きょう)が頭の上にざらざら落ちてきた。
 もう私たちの命もこれまでかなと思った。バシクブの壕で一緒だった人たちが追いついてきて、「あなたたちは荷物も持っているんだね。私たちは、敵がいきなり落下傘から降りてきたのでハンカチ一枚持ってこれなかった、今逃げてきたんだよ」と言った。
 私が「一緒にヤンバルまで行くつもりだったあの親子はどうなったか」と聞くと、「殺された」と言っていた。
 私たちはなんとか名護のヒンプンガジュマルのところまでたどり着くことができた。その時には、名護の街もみんな燃えていた。その時、道の向こう側がパァーと赤くなって照明弾があがった。
 私たちはときどき照明弾で明るくなる夜の道を、敵に見つからないよう隠れながら前へ進んだ。途中、通りかかった日本軍のトラックに乗せてもらった。20人くらいの2家族と兵隊3、4名だった。トラックは夜なのにライトもつけず走っていった。
 一家族は途中で降り私たちは喜如嘉まで乗せてもらうことにした。
 しばらくしてから、このトラックにかめを忘れているのに気づき、中を見たら油味噌が入っていた。一緒に乗っていた兵隊が「前に降りた人たちが忘れたものだから、あなたたちが持っていきなさい」とそのかめをくれた。「忘れた人もこのかめを取るためにわざわざこないよ」と、私たちがもらうことにした。このトラックは手間賃もとらなかった。

 喜如嘉についたのは夜明け前だった。
 それから私は朝8時ごろ書記のところまで行った。すると書記は「今日は豊見城村の人、5人が爆弾にあたって死んだので、豊見城村長さんはそこに行っていて今日は村長の証明がもらえない。すまないが明日来てほしい。今日は向こうに食料を渡す所があるから、そこに行きなさい。」と言われた。
 指示されたところへ行くと、そこで「米とおにぎりのどちらがいいですか」と聞かれた。私は米をもらってもすぐ炊くこともできないので、おにぎりをいただいた。大きなおにぎりが1人1個ずつもらえ、中には味噌が入っていた。大変おいしく子供達もかみつくように食べていた。
 翌日、村長さんから米を1ターラ(一俵・60キログラム)をもらいお金23円支払った。もらった米を炊いているときだった。塩屋から戦車が7台も向かってくるので、早く逃げるようにと言われた。火を消して慌てて逃げた。
 山中に逃げてしばらくして、私は昨日のおにぎり代として、配給の米から二升納めなければならなかったことを思い出した。しかし、婿が「こんなイクサの最中に誰が危険を冒して納めに行く人がいるか」としかられ、避難することにした。
 山の中では雨も降って、私は着物で子どもたちを覆いかぶせながら逃げた。五男はずっと私がおんぶしていたが、四男は歩きっぱなしだったのでとうとう泣いてしまった。すると、近くにいた人に「泣く子は殺せ」と言われた。もう、何がなんだか分からなくなった。
 それからデマもながれるようになった。島尻は安全だから早く島尻に帰りなさいという内容だった。このデマが出てからは婿からは、
「おかーがあんまりシカバイ(臆病風から性急になること)するから、私達は哀れしてここまできてしまったさぁ」と言われてしまった。
 1ヶ月近くも山の中、道のない山奥を歩きまわった。ある時は青く深い川の上を小枝をつかまえながら、またある時は、寝る準備をしてから、近くでハブのうなる声がするからと移動したり、とかく雨が多く、木の葉で屋根を造り寝泊りをくりかえしながら南の方向へと移動する毎日だった。
 東村のオーシッタイ(大湿帯)というところで兵隊が「今は島尻へ行かないほうがいい。島尻は今激戦中だ」と言ってくれた。
 それから、久志を通り、宜野座を通って金武の大通りに出た。それまでは毎日山の中を歩いていた。
 大通りを大勢の人達と歩いていると、鉄砲をかついだアメリカ兵が待ち受けていて手荷物を調べられた。わけのわからない大きな声で何とか言っていたが、とてもこわかった

 石川を通り島尻に行くつもりだったが、アメリカ兵(MP)が立っていて通さなかった。
 5月9日、私達は石川の古い家に配置されたが、そこは床が全部なく、自分達で竹の床を造り住めるようにした。そこでは班長がいて、班長の指示で芋掘り作業に出された。食糧は充分ではないが三度の食事は取れた。

 11月ごろ帰れることになった。
 豊見城村にはアメリカ軍のトラックに乗って戻ってきた。伊良波でのテント暮らしだった。食糧がなく大変な暮らしだった。
 与根の浜でスヌイ(モズク)等を取って1日3回もこれを食べたり、また帰ることが許されていない自分の部落に行って、木草が生い茂っている中から食べられるものを取ってくるのがせきの山だった。
 もう二度とこんな戦争は起きないよう祈るばかりである。私達は、山原の山ではひもじい思いをしたものの、1日1回は、ごはんも食べられたが、島尻での悲惨な話を聞くたびに、山原に疎開してよかったと思う。
 今ではウヤフジのおかげと思って感謝の気持ちでいっぱいである。

(1996年3月聞き取り)

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