真玉橋 宮城 芳子(南部避難) 1 全文

ID1170691
作者宮城 芳子
作者備考出身地「真玉橋」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)真玉橋_宮城 芳子_「二度も殺された妹」_1_全文
キーワード一般住民体験談、供出
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.813-816
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
真玉橋
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容私は大正9年生まれで、沖縄戦当時は24歳だった。大里村仲程出身の夫と結婚したが、夫の実家は兄弟が多く、姑が「あなた達は真玉橋で生活したほうがよい」と言ってくれ、夫婦は真玉橋の私の実家で生活を送っていた。しかし昭和19年11月、夫は海軍からの徴兵により佐世保に出征、ちょうど夫婦のあいだに長男が生まれた1週間後のことであった。夫が出征するとき、生まれたばかりの長男を抱いて通堂(現在の那覇港)に見送りに行ったら、そこで私は異様な寒気に見まわれ、自宅へ戻ったらさらに熱発に苦しめられた。産熱であった。

 沖縄戦の直前、父はちょうど字真玉橋の区長をやっていて、私達はその頃、よく父の仕事(供出)の手伝いをやらされた。そのため我が家からは山原にも疎開に行かなかった。いつも、部隊に対して今日はイモが何斤、などと供出の品物を配ったりして、まるで家族全員で区長をやっているような感じだった。
 この頃、私達の実家(■■■番地)と、隣の家(■■■番地)との中間に、日本軍(暁部隊)の炊事場が設けられ、そこで、私たち姉妹3人は炊事班の手伝いに従事していた。また〈仲上門小〉の馬小屋には軍の缶詰などがたくさん保管されていた。字に駐屯していた兵隊らの中には夜ともなると、この缶詰を盗むためこっそりその馬小屋へ忍び込んでくる者もいた。父はそれに気がついていたが、同じ兵隊だからといって「いいから盗ませ」と気にとめることもなかった。暁部隊の長尾曹長などが、あとになって気が付き「何ケース盗まれたのか」と血相を抱えて聞くが、私達は父の言われたとおり知らんふりを通していた。
 軍の炊事の仕事には、私達姉妹のほか、〈徳上門小〉の金城○○○さん、金城○○○さん〈六男上門小〉など字から6名の女の人が一緒になって従事していた。常に責任者だった長尾曹長に「長尾さん、献立は何にしますか」と聞き、長尾曹長の「今日は○○○にしなさい」という内容に従って、食事の準備に取りかかった。だいたいは缶詰と野菜を一緒に炒めた献立が多かった。軍隊では、階級によって出されるおかずも異なっていた。
 出来上がった食事は皿に盛りつけ、配膳し、上官に持っていくのは末の妹の○○○の役目であった。ときどき、私達がウムクジ天ぷらや砂糖天ぷらを焼いてあげると、兵隊達は「沖縄はいいね」と言って喜んで食べていた。

 沖縄戦が始まってしばらくして、字にいた兵隊達から、上陸した米軍は西原、首里に近寄っていると聞かされた。4月頃のことである。そのようなある日、いつものように私と妹は暁部隊の炊事場で仕事をしていた。その日、ひととおり仕事を済ませた私は、幼い子の面倒をみるため一足先に帰り、妹はしばらく食事の後片付けなどのため炊事場に残っていた。そして仕事を終え、帰る途中、妹は艦砲の直撃にあい〈東上門〉の近くの壕に入り込もうとするところでやられてしまったのであった。妹の体は〈東上門〉のガジュマルの木の下で半分に切り裂かれており、それを見た母はあまりの衝撃に気絶した。父と〈東上門〉のおじいさんが、オーダー(モッコ)に妹の遺骸を乗せ担いでつれてきた。暁部隊の兵隊が2つに切り裂かれた妹の体を包帯でつないでくれた。4月28日のことであった。
 亡くなった妹はそのまま墓に納められた。この時期、軍からは墓の入り口の扉は開けておくようにと命令されていたが、私達は開けっ放しにしておくのは忍びなく、墓の入り口を閉じてしまった。すると翌日、妹を納めた墓が日本軍の手榴弾でめちゃくちゃに破壊され、妹の遺体も散り散りばらばらになってしまっていたのである。母は「一度だけでなく、二度もやられて」と泣きながら戻ってきた。
 この時期に暁部隊の長尾曹長も、字の屋敷内で風呂に入っているところを砲撃にあいやられている。

 戦争がいよいよ激しくなり、部隊も出撃のため真玉橋から出て行くこととなった。兵隊らは鍋や釜を片付け、字を離れていった。自分たちもそれからしばらくして字内の壕を出て字饒波へと移った。
 饒波へ避難したのはおそらく6月の4、5日くらいだったと思う。私達は集落内の道のそばにあった墓の中に避難した。つい最近亡くなって墓に納められたばかりの知人の棺をとりあえず外へ出して、墓の中に避難した。そこには4、5日いた。しかしウジがウヨウヨしてすごい臭気がしたので私達は墓を出て武富(兼城村)へ向かった。
 武富では集落内の茅葺きの民家に避難した。するとその屋根の上にシチガーラ(絣柄の一種)の着物を着た女性が、髪をなびかせガジュマルの木に引っかかって亡くなっていた。柄が五つ玉だったので18、9歳の年頃の女の人だっただろう。爆風にやられたと思われるその女の人の死体と周囲の現場をみながら、父と妹とで話し合い、ここも危険だと判断しこの家を後にした。30分もしないうち砲弾がその周辺に落ちてきて爆発した。
 避難途中、ケガをした兵隊が、歩いている私の袖をつかんでなかなか放してくれなかった。スーマンボウス(小満芒種)の時期で物が腐れやすく、その兵隊の腕からはウジがあがってきてたいへんだった。

 私達は武富から与座方面へと向かった。与座川で水を飲んでいると、兵隊が「ここにいるとやられるよ」と忠告するので、その場所を急いで離れ、さらに与座岳の近くへ進んだ。そこで私達がもぐり込んだ屋号〈西銘〉という屋敷にあった壕は、たいへん深い壕であったが、そこにも兵隊がやってきて「今出ないと手榴弾にやられるから出なさい」と言い、私達はその壕を追い出されてしまった。壕を出てしばらくして7、8人でひざまずきして休息をとっていると、ハブがその前をサーッと素早く通っていった。そのとき、65歳ぐらいの小禄の男の人が「ハブにやられた」と叫んだが、誰も助けにいけなかった。私達は怖くなって与座から新垣へ向かった。

 新垣に行く途中、〈○○○〉の○○○が急に産気づいた。父が介抱しようと抱き起こそうとしたが、銃弾も飛び交い敵もすぐ間近に迫っているのに、その人を助けていたら自分たちまで危ないと周りから言われ、前進せざるを得なかった。
 新垣に着いた私達はそこにあった山羊小屋に避難した。そこで2日くらい寝泊まりしたため私は山羊の糞でひどいコーシをかいてしまった(発疹で痒くなった)。
 新垣もひどい激戦地だったため、私達はさらにそこを飛び出し、道に迷いながら、ふたたび与座岳にたどり着いた。弾があちらこちらから飛び交い戦闘は一段と激しくなっていた。与座岳を登っていたとき、以前、真玉橋で巡査をしていた上江洲さんと偶然遭遇し一緒になった。私達は与座岳の崖の上のほうに避難した。するとそこには83歳になるという1人のおばあさんがすでにいた。その老婆が言うには、「私は(ここに来て)1週間になるが、まだ(敵に)殺されない。ご飯も日本の兵隊が持ってきてくれる」とのこと。私達は与座から一度は兵隊に追われてきたが、この老婆は一体なんだったのだろうか、と不思議に思った。
 崖の上に避難していた私達だったが、〈前城間〉のおじいさんが崖下にゴザを落としたときから状況が大きく動き出した。下のほうにいた米軍が落ちてきたこのゴザを日本軍が投げたものと思ったのか、下から激しく銃弾を撃ち込んできたのだ。結局、私達はそこで捕虜となり与座岳を降ろされた。6月15日頃のことであった。

 私達はこのあと東風平の屋宜原へ連れて行かれた。そのとき一緒だったのは、父と妹の〇〇〇、〈〇〇〇〉のおじいさんに〇〇〇さん、上江洲さんらであった。捕虜になったときの混乱で、それまで一緒だった母親とは与座岳ではぐれてそれっきりである。

 屋宜原の収容所についたその日の夕方、米兵達がなにやら「ポス、ポス」と口にしながら私達に近寄ってきた。ポスポスの意味は当然そのとき私にはわからなかった。あとになって「ポスポス」というのがとても恥ずかしい意味だったことを知った。上江洲さんは言葉の意味が分かっていたのか「絶対だめだ」と拒む姿勢を私達に送っている。私も幼い長男をおぶりながら父親の腰の帯をずうっと放さずつかまえていた。米兵が「行こう、行こう」と手招きするが、私は父親のそばから離れず、妹の〇〇〇も上江洲さんのそばにくっつき絶対離れなかった。しきりに言い寄る米兵に上江洲さんが「ノーノー、今、生理だ」という内容を伝えても、その米兵は「それでもかまわん」と言っていたという。
 翌日、2世の米兵が私達のところへやって来た。英語で「どこからきたのか」と上江洲さんに聞くので「豊見城村真玉橋」と答えると、その2世はびっくりして「真玉橋はどこか」と尋ねる。自分たちの屋号は〈前大屋〉だと答えると「比嘉さんを知らないか」と言う。なんとその2世の兵隊は偶然にも真玉橋の〈比嘉〉の2世だったのだ。このあと、この2世が他の米兵たちに私達のことを自分の親戚だと言ったのだろう。翌日から昨日の米兵らも「ポスポス」などと言わなくなり、かわりにお菓子を持ってくるなどの変わり様であった。

私達は屋宜原からすぐに大里村稲嶺に連れていかれ、さらに6月16日には知念へと移った。知念にはたくさんの米軍部隊が周辺に駐留していて食糧が豊富にあった。私達は19班にいた。与那原の人たちが先に収容されていた。炊事場では米軍の部隊内から「戦果」をあげてきて八メー鍋、十メー鍋などの大きな鍋に女性たちが御飯を炊き配っていた。なかには大きな鍋を持ってくる人もいたが「どうぞもらって、もらって」と快く配ってあげていた。その後私達は、知念から渡橋名へ帰ってきた。真玉橋に戻ることができたのは翌昭和21年の7月か8月頃であったと思う。
 戦後、私は農業で生活をしていた。出征した夫は戦死。私は1人で畑を耕しては夫の顔を思い出し、涙しながら作物を植えていた。ほかの夫婦連れを見ると余計夫のことが思い出された。

(1996年3月聞き取り)

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