真玉橋 金城 初子(村内避難) 1 全文

ID1170681
作者金城 初子
作者備考出身地「真玉橋」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目村内避難
資料名(別名)真玉橋_金城 初子_「知念ヤードゥイの沖縄戦体験」_1_全文
キーワード一般住民体験談、我那覇で戦車壕掘り、長嶺グスクで球部隊の壕掘り作業、10.10空襲(十・十空襲)、山原疎開、旧陸軍第24師団第2野戦病院壕
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.808-812
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
真玉橋
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容暁部隊が民家に駐屯
知念森のすそ野に「知念ヤードゥイ」と呼ばれ、4世帯がポツンと寄り添う小さな屋取集落があった。この一帯は現在では字真玉橋の行政区だが、戦前までは字根差部に属していた。私の実家はその中の屋号〈知念〉と呼ばれる家で、父は当時、字根差部の区長をしていた。

 昭和19年の10.10空襲(十・十空襲)のあったその晩のこと。暁部隊の兵隊約20名が急遽やってきて、私たちの家を宿舎にした。この部隊はそれまで那覇港に駐屯していたようだが、米軍機により桟橋一帯が攻撃を受けたため豊見城村内まで移動してきたのだった。兵隊らは和歌山出身の人が多く、以後、毎日早朝から真玉橋部落へ壕掘りにと出発しては、夕方ごろ帰ってくるという日課を送っていた。しかし、長くは滞在せず、南方へ移動すると言って、その年の12月頃に我が家を去っていった。

 野砲隊が知念森に壕構築
 翌昭和20年1月には、入れ替わるように今度は山部隊に属する野砲隊が知念ヤードゥイ(知念屋取)に駐屯してきた。そして知念森の山腹に陣地を構築、野砲が隠せるほどの大きな地下壕が造られた。
 野砲隊は私たちの家に4名、隣りの〈新知念〉の屋敷に20名ほどがそれぞれ入居し、荒瀬という名の隊長を筆頭に前野兵長、その下に北海道出身の若い兵隊さんたちがいて、それらの中に混じって沖縄出身の初年兵も2人ほどいたと記憶している。また、知念森の陣地から少し離れた根差部の部落内には、野砲をけん引する軍馬が飼われており、馬係の兵隊らがやってきては、いろいろと指揮を仰いでいるようだった。

 奉仕作業の毎日
 既に沖縄戦の始まる前年あたりからは戦争に備えて様々な奉仕作業が行われていた。私も父が区長だったということもあって、この頃から率先していろいろな作業に参加した。瀬長海岸から敵が上陸するということを想定し、その進路を妨害する目的で字我那覇集落の東側に戦車壕を掘ったり、字嘉数の長嶺グスクで球部隊の壕掘り作業に参加したりという毎日だった。長嶺グスクでの作業は昭和19年の10.10空襲(十・十空襲)以前から始まっていて、グスク内の大きな岩盤の下から掘り込んでいき、出入り口も嘉数集落側を向いていたり、反対斜面の長堂側にあったりなど縦横に造られているようだった。参加者も嘉数はもちろん根差部や長堂など周辺部落から多くの住民が集められた。作業は、兵隊らがツルハシなどで掘り込んだ土をモッコなどで外に運び出すのが主な役割だった。既にその頃は男子青年も数少なく、婦人や少し年配の男性が作業員の中心となった。夜も明け切らない早朝に家を出て、字長堂の公民館に集合、常に夕方近くまで作業が続いた。

 ある日、いつものように長堂で作業前の点呼を受けていると、那覇上空に向かって飛行機が飛んでいくのが見えた。誰もが日本軍の大演習だと思ったその編隊飛行の一群こそ実は米軍による沖縄初空襲「10.10空襲(十・十空襲)」だった。しばらくして那覇の街が敵機の攻撃で煙を上げてくるのが高台の豊見城側からもよく見えた。また、その年の12月には大里方面を走る汽車が突如爆発炎上する事件も作業中の長嶺グスクから目撃した。

 また昭和20年の2月から3月頃にかけては、村や区長らの呼び掛けで男女青年団を中心に義勇隊が結成された。夜間、村役場に集合し、弾薬や食糧などの運搬作業が行われ、それが終わると敵の眼から逃れるためにと、普段の道を通らず、あえて木々の生い茂る山道などから遠回りをして家路に着くなど、すべて戦争と隣り合わせの日常生活だった。

 疎開せずヤードゥイに残る
 20年初頭には、山原方面への疎開呼びかけもあった。父は「子供達だけでも避難したほうがいい」と勧めていたようだったが、さほど強制的でもなく、結局、家族の中から山原疎開に行くことはなかった。父や叔父たちが山原行き断念を自ら納得させるかのように「知念森ヒララスの御神がきっと守ってくださる」と口々に言っていたのを覚えている。

 空襲を受ける
 敵の砲撃や空襲も次第に激しさを増していくなか、4月20日には私たちの屋敷も米軍機の攻撃を受けて、全て焼き出されてしまった。私たちの家族や兵隊たちもすぐに知念森の陣地壕に避難し無事だったが、〈○○○〉の娘さんが逃げ遅れ、足に機銃弾を受け出血多量のためまもなく息をひきとった。その前日、兵隊たちが外で炊事をしていたのを敵偵察機に見つかってすぐの出来事だった。それ以降は野砲隊の人達にお願いして陣地壕に入れてもらうことになった。壕は知念森の南側、ちょうど私たちの屋敷の裏側にあたる斜面に出入り口が2カ所あり、さらにその坑道は山を貫通し、反対の漫湖側には大砲が射撃できる砲眼も備えていた。2か所の出入り口のうち、間口が二間もある大きな壕の方には、野砲が格納されており、それを外に引き出しては、首里方面に向けて砲撃を行っていたが、回数は少なかった。
 饒波川を挟んで眼の前には、豊見城城址内に陸軍の野戦病院があり、負傷兵を担架に乗せた人達が、足早に石火矢橋を渡っていったり、一人で杖をついてびっこをひいて歩いて行く兵隊らの姿が私たちのところからもよく見えた。時々、同じ部落の防衛隊の方が「今日は、前線から負傷兵を運んできたよ」と私たちの壕に立ち寄ったりもした。「敵がすぐそこまで迫っているんだな」と痛感した。

 野砲隊南部へ
 5月中旬に入って、それまで一緒にいた野砲隊が突然、「島尻方面へ移る」といって知念森の壕を出ていった。辺りが暮れかかった時間帯に、野砲一門を馬に引かせ、南へ向かった一隊のあとには空っぽの陣地壕が残され、そこに私たち知念ヤードゥイの3世帯と、字真玉橋と高安からそれぞれひと家族づつの合計5家族が寄り添うように暮らし始めた。幸い、壕内には野砲隊が玄米一俵を置き去りにしていったので、それらを食いつないだりして特に食べ物に困ったということはなかった。

 壕にやってきた兵隊たち
 私たちの壕に、あるとき前線から2人の負傷兵が飛び込んできた。ひとりの兵隊はどうやら本土出身者のようで、もうひとりは少し年配の防衛隊員、垣花の出身だと言っていた。2人とも足などにひどい傷を負っていた。水をだいぶ欲しがるので、私たちは水や食べ物を与えようとしたが、特に垣花の方は瀕死の状態で、食べ物を口元にもっていっても顎が動かない有り様だった。既に2人とも破傷風に罹っているようで、このまま死を待つ状態だった。そんな壕生活が続いたなか、6月7日夕刻。今度は豊見城方面から来たという兵隊の一団が壕にやってきた。一団のリーダーらしき田中という兵隊が「我々は海軍だが、隊が解散したのでしばらくここで休ませてほしい。夜明けには敵に斬り込みにいく」と父らに話していた。海軍兵らは壕内で少しの時間休息をとっていたが、そのとき、私たちに「生きていればこれを」と万年筆や時計などを預けだした。私たちもいつ死ぬかもしれないという気持ちだったので、そのときは正直いって大変困ってしまった。その海軍兵らは一晩も休むことなくその日の未明には壕を出て行った。

 それから間もなくして米軍の斥候兵が、私たちの隠れる壕に恐る恐る近寄ってくるのが見えた。「いよいよこの場所も危ない」と、6月9日、私たちはついに壕を出て行くことにした。壕を出る際、破傷風に罹った本土出身の兵隊が「自分を殺してから行ってくれ」と這いずりながら叫んできた。あまりにも嘆願するので、困った父や叔父らはその兵隊を壕入り口付近の崖下まで運び、その場を急いで離れた。垣花の人は壕内にそのまま残っており、その後どうなったかは分からない。海軍兵から預かった品物もそのまま壕内に残したままだった。

 捕虜に
 私たち5家族は壕を出て後、国場川沿いのアダンの繁みなどに隠れていた。夜はシュルシュルーと照明弾が不気味に上がるなか、川べりで3~4日を過ごした。そのうちに、私たちの目の前を米軍の戦車が往来するようになった。そのなかの一両に、10.10空襲(十・十空襲)のあと、知念ヤードゥイ付近に移り住んできた小禄鏡水の老夫婦が乗せられて私たちの目の前を通過していくのを見たとき、「あね、上地のおじー達も捕まったようだ。次はこっちの番だ」と大人たちが呟いた。
 6月13日、ついに米兵らが私たちの隠れている繁みのすぐ近くまで迫って来た。「カマーン、カマーン」と銃を向けて近づく米兵の一団にあっと言う間に囲まれた私たちの家族はあっけなく捕虜となった。壕から持ち出した着物や毛布などもそのまま放り投げ、何も持たずに米兵に周りを取り囲まれ、そのまま徒歩で真玉橋の石橋まで連行された。途中、真玉橋集落に近い場所で兵隊の死体が横たわっているのを見た。歩きながら母たちが「あの兵隊、この間の田中さんではないねえ」と言う。よく見ると、確かに私たちの壕にやってきた田中という海軍兵だった。きっと斬り込みの時にやられたのだろう。一緒に出発した他の海軍兵らの姿は確認できなかった。

 私たちはいよいよ真玉橋にたどり着き、それを渡るよう促された。石橋は破壊されていたためか、橋の高さと川の水面がほぼ同じで、石畳を歩いていると流れる水が足元を濡らす。このまま橋を渡り切った向こう側でどういうことが待ち受けているのか考えるだけで恐ろしくなってきた。私はいっそのこと、川へ身を投げようかという衝動にかられ、橋のへりに寄って歩き出した。しかし一緒に付いていた米兵からもっと内側から歩くようたしなめられ、ふと我に返るという状態だった。
 橋を渡り切ると、対岸にはトラックが待機しており、私たちはそれに乗せられた。「いったいどこに連れていかれるのだろう」と思う間もなく、しばらく走らせてすぐにトラックは停車し、着いたところは古波蔵にある現在の動物検疫所付近だった。見知らぬたくさんの人達が収容されていた。雑踏の中から時々、同じ部落の人や知人に会うとお互いの無事と再会を喜びあった。

 マラリヤに苦しめられた収容所生活
 やがて私たちは、古波蔵から中城の安谷屋(約3カ月滞在)、さらに金武中川(約半年滞在)へと収容所を移され、捕虜生活を送るようになった。安谷屋は地元の人達の民家が残っており、そこで生活した。民家には以前の家主が残した豆などがあって、それらの食糧を食いつないでなんとか暮らしていけたが、中川の収容所は食糧も行き届かなくひどいところだった。水がたっぷり入った四枚(シンメー)ナベに、たった一合の米を入れて炊いたお粥が、なんと長屋約50人分の1回の食事だったのだ。収容所内ではマラリヤも蔓延し、特に体力の無い子どもや年寄りが、せっかく苛酷な戦場から生き延びたのにもかかわらず、あたら命を落としていった。私や妹も中川でマラリヤに罹りひどい目にあった。症状の重さ、軽さはともかく当時は収容所暮らしの住民の多くがこの伝染病に苦しめられたものと思う。マラリヤは、最初にくる強い悪寒が耐え難いものだった。毛布でくるみ、さらに上から人が覆いかぶさってもガクガクする震えは止まらない。
 その後には高熱が出て、ただでさえ弱りきった体力を消耗させていく。私たちの場合、特に妹のほうは重症で、一時は生死の境をさ迷うほどに病状が悪化。幸い九死に一生を得たものの、マラリヤの特効薬キニーネを多量に服用したため、肌の色がまっ黄色に変色するほど凄惨な状況だった。

 翌昭和21年の4月ごろ、ようやく帰村できるようになり、私たち家族は中川を後にし、故郷へ戻ることができた。字渡橋名の収容所のテント生活を経て、面影もとどめない我が家に帰ったのは実にほぼ1年後のことだった。

(1998年9月聞き取り)

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