真玉橋 金城 フミ(南部避難) 1 全文

ID1170661
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)真玉橋_金城 フミ_「夫と子ども二人も戦死」_1_全文
資料内容戦争が始まる以前は、食糧供出の毎日だった。字真玉橋に武部隊が駐屯してあとからは、字内の子どもたちも学校へは行ったり、行かなかったりの状態である。私達もイモや野菜をつくって、軍に供出していた。

 夫は沖縄戦が始まる前に、35歳で召集された。それ以前の昭和17年頃にも、海南島に1年間出稼ぎに行っていたこともあった。夫が召集されたのは小禄赤嶺にあった煉瓦造りの学校(當間国民学校)で、海軍部隊への召集だった。現在の高良小学校の近くで電話線づくりに従事しているとのことだった。夫婦には4人の子どもがいたが、いちばん末の子は夫が召集されてから生まれた。戦争で4人のうち2人の子は亡くなって…、主人も亡くなったので現在は私と子ども2人の3名だ。

 長女は避難先のクニシ・メーザト(国吉・真栄里)で亡くなった。ちょうど馬小屋に隠れていたときのことであった。突然艦砲が落ちてきた次の瞬間、私と向かい合わせで座っていた娘(長女)が「母ちゃん、私の手が…」と泣き叫ぶ。娘をよく見ると、手だけでなく足も切断されていた。娘は泣きながら水をくれと欲しがったが、水を飲ませると出血がひどくなると聞いていたので飲まさなかった。しかし間もなく娘は息を引き取った。その馬小屋の後ろ側の畑に泣く泣く娘を埋めたが、死ぬんだったら飲ませておけばよかったと今でもすごく後悔している。そのとき娘は7歳だった。葬った場所の目印に石を置いてあったので、戦後すぐに遺骨を取りに行った。当時は甕もなかったので骨は缶詰箱に入れて持ち帰った。もう1人、三女は真玉橋で死亡した。

 10.10空襲(十・十空襲)の時は、垣花の方向で飛行機が飛んでいるのを見た夫が、これは敵の空襲だから、早く準備して子どもたちを連れて避難しなさいと私に言った。そのとき私は便所に行きたくてしょうがないものだからそのことを夫に告げると、「いくさだというのに真っ先に便所に行く人がいるか」と叱られてしまった。私は子ども達をおんぶして集落の上のほうの壕へ避難した。その時自分は、ちょうど4番目の子を身ごもっており大きいお腹をしていた。その子は昭和19年12月18日に生まれ、少しするとすぐに沖縄は戦争がはじまった。

 戦争も激しくなったある日、私達親子は最初憲兵隊壕に入っていたが、子ども達が泣くので、仕方なく〈下新屋敷〉の後ろ側の個人壕に入っていた。その壕の近くに艦砲が落ち、上から土がポロポロ落ちてくるので危険を感じ憲兵隊壕に戻ることにした。その時〈〇〇〇〉の姉さんがお腹をやられ助けてくれと言っていたが、自分は赤ちゃんを抱え、さらに幼い子どもたちを連れていたので、すぐに助けることはできなかった。
 憲兵隊壕へ急いで戻り、まず子ども達をあずけるために母をさがした。壕は住民らがひしめき合い、暗くて奥まで見えない状態である。壕の入り口付近にいた人に尋ねると母は奥にいると言った。さっそく母らに〈〇〇〇〉の姉さんがケガをしたことを伝え、自分と母、〈西門〉のオジー達でその場所から担いできたが、〈〇〇〇〉の姉さんはすでに亡くなっていた。

 しばらくして、私達は憲兵隊壕を出て、さらに〈二男徳金城〉の上のほうにある兵隊の掘った壕に入っていた。しかしその一帯も飛行機から爆弾が頻繁に落とされるので、危険だと感じた母が、知念森の壕は深くて安全だからといい、そこへ避難することにした。しかし知念森へ向かおうとする途中、艦砲が飛んできて、祖母がやられ、また私達はもといた壕へ引き返した。祖母は自分の死に際にもかかわらず末娘を抱いて、「トシコよー、ヘルヘルヘル」とひざをゆすりながら亡くなった。まだ生まれたばかりの赤ん坊であった孫のトシ子の身をずっと案じていたのだろう。〈伊佐小〉の人が穴を掘って埋めてくれた。
 三女も真玉橋で亡くなった。私は三女の亡骸を自分の屋敷に埋葬した。

 私達は真玉橋から武富を経てスンジャ・カナグスク(潮平・兼城)へ向かった。いつ頃、部落を出たのか日付すら覚えていない。幼い子ども達を連れて避難したので大変苦労した。イチジ・クファングァ(糸洲・小波蔵)の山中にたどり着き、〈伊佐小〉のお父さんが少し休もうというので近くにあった大きな岩陰で休息をとった。すぐ近くに艦砲が落ちたあとがあって水溜まりになっていた。そこで私たちは手足を洗い、米を洗って炊いて食べた。一息ついた私はあることを考えていた。ここまで荷物を抱え子どもをおんぶし、さらにもう一人の子の手を引いて避難するあまりの辛さに、親子ともどもここで艦砲でやられたらどんなにか楽だろうと思っていた。

 しばらく経ってからのこと、いつの間にか私達の周りで「デテコイ」と米兵の大声がする。なんと私たちが身を寄せたこの岩のすぐ上のほうには米兵の射撃陣地があったのである。私たちは岩下に身をすくめた。私の隣のおばあさんが、何やら着替えを始めている。どうせ死ぬなら一番上等な着物を着ておこうと言っていた。やがて一人の黒人兵が「デテコイ」と言いながら近くに寄ってきた。初めてみた黒人兵は歯だけ真っ白で恐ろしかった。そのとき私はもう死ぬんだ、殺されるのだ、と思った。私達は持ってきた荷物を何も持たず岩陰から出ていった。海のほうを振り返ると糸満の海は敵の軍艦でいっぱいだった。
 私達はついに米兵に捕らえられた。6月頃のことであった。私は髪を結び、子どもをおぶって何も持たずに出てきて、そのまま歩きながら糸満街道に出た。米兵が戦車から降りて私達を待っていた。きっと戦車にひき殺されるものと思い、歩くのを戸惑っていると、向こうから近寄ってきてポケットからチョコレートをとり出して私の娘に与えようとした。そうしたら一緒の列にいた別の人がそのチョコレートを横から取り上げ自分の子へあげようとした。するとその米兵が取り返してまた私の子に与えてくれた。
 私たちはそこからスンジャ・カナグスク(潮平・兼城)の畑へ連れて行かれた。そこには大勢の人がいた。糸満を歩いているとき、タンスから着物がたくさん投げ出されているのをみたが、誰一人それを取る者はいなかった。どうせ死ぬのだから、着の身着のままで構わないと皆覚悟していたのだろう。
 スンジャ・カナグスクに着くと、おにぎりが皆に1個ずつ配給された。スンジャ・カナグスクの前の港に船と戦車がやって来た。私たちはその戦車(水陸両用戦車)に乗せられ、戦車ともども海上の軍艦に乗せられた。どこに連れていかれるのか全く見当がつかなかった。しかしきっとこれから捨てにいくのだろうと思っていた。すると船は中部の海岸に着き、私たちはそこから中城村安谷屋に連れていかれた。

 安谷屋には1カ月くらいいたと思う。そこにはどこから来たのか分からないくらい大勢の人が集まっていた。瓦葺きの家もあった。そこで私は人の悲鳴を聞いた。近くにいた人がいうには、「子どもが母親を罰しているんだよ。子どもは、母親に自分も行くから連れていってとせがんだそうだが、その母親は子どもを置き去りにしてきたらしい」と。その人はケガをしていて、そこで死んだ。近くの畑へ穴を掘って埋めた。
 1カ月後、私たちはそこから山原のスーキ・カンナ(惣慶・漢那)に連れていかれた。山小屋が作られていて、そこで生活していたら、私の親たちが私たちを連れにやってきた。親たちは知念森から山原へ避難し、スーキ・カンナの近くに避難していたらしい。私たちは親たちと一緒に宜野座病院近くの部落に移った。自分達はそこの豚小屋で暮らすようになった。ここでも死ぬ人がいっぱいいた。
 下の娘はやせ細って髪も真っ赤で色も真っ黒であった。6斤缶にお粥を炊いてあげたが、口を閉めて全然受け付けなかった。食糧も乏しく、夜、他人の畑へイモ掘りに子どもをおぶって出かけたこともあった。しかしこのとき宜野座病院の明かりがこうこうと輝いているのを見て子どもが珍しがってアハハと笑うので、ここに泥棒がいるよと知らせているようなものだからと引き返したこともあった。

 やがて、村に帰れると知らされ、イモを3個持って渡橋名に帰ってきた。到着してすぐにそこでイモを炊いて食べた。
 収容所は、二豊(現在の座安小学校)の周辺であった。私たちの入った渡橋名の収容所はカズラ畑の上にテントが張られており、そこで生活をはじめた。1つのテントには10家族くらい入っていた。イモもたくさん食べられるようになり、やがて乳もでるようになった。子どもも元気を取り戻し歩き回れるようになった。私達はこの頃から収容所と字真玉橋の間を行き来し薪取りやイモを掘りに行ったりしていた。私も子どもをおんぶしながら出かけたりした。あるとき、伊良波付近で黒人兵が私の子に「ヘイ、ベイビー」と声をかけたが、子どもは初めて見る黒人にビックリして気絶してしまい、一緒にいた人達の手で息を吹き返したこともあった。

 真玉橋への帰還が許され私たちはついに念願の字に帰ってきた。最初、部落ではテントを張り、共同生活をしていた。この頃は、国場、真和志の人も真玉橋周辺で暮らしており一緒に生活していた。

 夫の思い出は、今でも鮮明に覚えている。小禄の當間国民学校に召集された夫は、召集された仲間と2人で自宅に戻ってきたこともあったし、暇をみつけては2、3度自宅に立ち寄ってくれた。そして隊へ戻る時「では、行くよ」と言って出ていく夫に私はとっても寂しい気持ちだった。それ以来、夫とは逢えずじまいである。
 夫の召集仲間から聞かされた話がある。あるとき同じ召集された仲間が病気のため隊から自宅へ帰され、その家へ夫が見舞いに行ったとき、夫は「自分は国のために働くが、残された妻はかわいそうだ。4人の子どもをどうして育てていくのか」と泣きながら話していたという。私には全然涙も見せず、一言も弱音を吐かなかった夫。結局、いちばん末の子は一度もだっこをされたこともなかった。

 終戦直後は野菜やイモをつくり、それを売って生活していたが大変苦労した。イモが安かったときは、イモクズを擂すって売ったが、そのイモクズも売れないときなどは、町に出て果物や砂糖を仕入れて頭に乗せ、行商をして生活を支えた。子どもの面倒は当時幼稚園生だった上の子が、帰ってくると下の子(満1才)の面倒を見てくれた。1歳になる末娘はよく親の仕事ぶりを見て同じようにイモクズを水でといて家中散らかしていた。この頃、私はほとんどイモしか食べていなかったのでお腹がふくれ、道を歩いていても妊娠しているのではないかと皆が振り返ってみるほどであった。
 戦争で夫と2人の子を亡くした。戦後は2人の子どもを女手ひとつで育てるためたいへん苦労した。

(1996年3月聞き取り)
キーワード一般住民体験談、供出、10.10空襲(十・十空襲)
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.797-802
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
真玉橋
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類36010606市史編集
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編

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