嘉数 比嘉 カメ子(南部避難) 1 全文

ID1170641
作者比嘉 カメ子
作者備考出身地「嘉数」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)嘉数_比嘉 カメ子_「重傷者に与えられない水」_1_全文
キーワード一般住民体験談、供出、10.10空襲(十・十空襲)
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.793-795
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
嘉数
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容私の家の裏手には日本軍の炊事場があり、庭には米等の糧秣が山積みされていた。10.10空襲(十・十空襲)後は、私の家にも軍隊が14、5名ぐらいいた。私達親子2人は従兄の家に移り住み、自分の家にはたまに戻って、掃除したりしていた。この従兄の家のアサギにも日本兵の伍長が1人で投宿していた。米軍が上陸してからは、この兵隊達は、特攻隊に行くと言っていた。

 戦争も押し迫った頃からは、出征の時の見送りはなかった。部落の入り口までも見送らなかった。敵潜水艦を警戒して、出征は秘密だった。

 10.10空襲(十・十空襲)の時は字内はなんともなかった。那覇市民の方々が根差部に避難して来た。私の家には問屋業を営んでいたという3名家族が避難して来た。しばらくして家が焼け残った者は市内に帰っていった。

 軍の壕掘りや陣地構築は、幼な子を抱えている私にはできなかったが、家の裏手の炊事場での手伝いはよくやった。また軍には芋とか野菜を供出した。

 米軍の上陸後の進行状況は兵隊さんが話してくれた。首里が激戦地であったようだ。
 米軍は首里を越えて、古波蔵方面まで押し寄せて来たので早めに避難するように言われた。米軍が通過できないように真玉橋は破壊された。私はいつも、雑嚢に衣類や少々の食糧を入れておいていたので、持てるだけの荷を頭にのせて南部に避難した。南部の方が安全ということで・・。先ずは保栄茂に行き、ここで一夜を過ごし、ここから阿波根を通り国吉、真栄里まで行った。阿波根ではアメリカ兵に小銃で撃たれた。近くにあったソテツの根っこに隠れて難を逃れた。そしてさらに伊敷に向かい、夜になると物陰にひそんでいた。艦砲が近くに落ち、土をかぶった。遠くに落ちた時には破片がファラ、ファラと落ちて来た。
 国吉は激戦だった。米兵だったが、肩から首にかけてもぎ取られた死体があった。又、屋根の下に隠れていた時に油脂焼夷弾が屋根に落ちユラユラ燃えながらタレ落ちて来た。それから別の場所では、友軍の兵隊が足を引きちぎられ、地面を這いずりまわって真っ黒になり、人間とは思えない有様だった。出血がひどく、しきりに「水をくれ、水をくれ」と苦しんでいたが、水をやるとすぐに死んでしまうと思い与えなかった。今考えてみると、あんなに苦しんで死んでいくのだったら水を与えておけばよかったと後悔している。
 しばらく逃避行をしているうちに、摩文仁あたりで私は左肩に負傷した。そして無性に水が飲みたくなった。同じ様に負傷して軍を離れていた親戚に、一滴でも飲んではいけないと言われ、口をすすぐだけのつもりで水を口に含んだが、我慢できずにほんの少しだけゴクッと飲み込んでしまった。すると、見る見る出血がひどくなったので全部吐き出した。この時、初めて水を飲んでいけない事を実感した。
 その後、私は近くのどこかの海岸沿いのアダン葉の中に身を隠していたが、日本兵に見つかり追い出された。私達は、前にも東にも西にも行けず、逃げ場を失って摩文仁の浜で捕虜になった。親戚の兵隊が自殺用に持っていた手榴弾を土中に埋め、兄の兵隊姿の写真や男ものを持っていると殺されると聞かされていたので、それも全部捨てた。

 捕虜になって伊良波に集められ、翌日、私達民間人はヤンバル(山原)へ、軍人、防衛隊はトラックでどこかへ連れていかれた。私は、ケガをしていたので宜野座の軍病院へ連れていかれた。その後、福山、スーキ・カンナ(惣慶・漢那)と転々した。正月頃に村に帰ってからは伊良波の東側の収容所に入った。
 字民の人達は、米軍から配給された資材で住居を造り生活していた。男手のある世帯によっては、廃材捨て場から材木を探し出したり、山から木材を切り出したりして個人の家を造っていた。

 戦後3年目頃から、食糧は自給できる分とあわせて、アメリカ軍からの配給(メリケン粉、トウモロコシ粉、缶詰等)でまかなった。また畑を開いて野菜作りも始まっていた。それほど食べ物に不自由はしなかった。米はほとんど無かった。たんぼを開き米作りをしている人もいた。昭和22年には2番目の子を出産した。その時、夫が知念村から買ってきた米を食べる事が出来た。お産した人と子供だけがなんとか口にする事が出来た。
 生まれた赤ちゃんには、1メートル巾の生地の配給があったのでこの布で服を作り着せた。一般の人達には軍払い下げの軍服があり、これで上着やスカートを工夫して作った。ふとん替わりに軍物資を入れてあったカシガー(麻袋)を何枚かつないで利用した。戦後5、6年も経つと豆腐や野菜を作って生活の足しにした。

(1996年9月聞き取り)

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