長堂 又吉 美恵(南部避難) 1 全文

ID1170621
作者又吉 美恵
作者備考出身地「長堂」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)長堂_又吉 美恵_「戦争体験記」_1_全文
キーワード一般住民体験談、供出、10.10空襲(十・十空襲)、保栄茂グスク、
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.776-791
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
長堂
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容私が生まれ育った長堂は戸数50余戸の小さな集落だった。
 農家が多く、作物は主に、さとうきび、さつま芋、大豆、麦、トマト、キャベツ等だった。
 私が、国民学校6年の12月8日、日本は太平洋戦争に突入した。
 「欲しがりません勝つまでは」という標語もあり、だんだんと物不足になっていた。
 学生服も衣料券で配給制になり、四角いセーラー衿が生地節約の為だったのか、三角衿になっていた。
 1942年(昭和17年)私が国民学校、高等科1年(現在の中1)の時、農家では、さつま芋の軍への供出量も増やされ、食料はますます不足していった。
 食糧増産が叫ばれながら働き手は兵隊にとられ、思うように出来なかった。
 私の伯父は集落の区長をしていた。サツマイモの供出量が少ないと、役人に「闇で横流ししているのではないか」と怒られたようだ。
 また、飛行機や大砲の原料として、鍋や釜、蚊帳のつりひもの丸い金具まで、外して供出させられた。お年寄りの方が、ただ1個、貴重品として持っている金の指輪も、お国のためにと取り上げられた。
 だんだんと肉類も乏しくなってきた。私の家で飼っていた豚1頭を、自分たちで屠殺したことがあった。その頃は、警察に見つかると処罰される。
 解体肉は親戚で分け、塩漬けにしてカメに入れ、土の中に埋めてあった。警察は農家を廻り、闇屠殺がないか調べていたようだ。
 一度、私は豚肉を背負って、那覇の親戚に持たされた。警察は、大人は調べるが子供は調べないとの見込みからだった。

 10.10空襲(十・十空襲)
 1944年(昭和19)私は14歳で、沖縄師範学校の女子部予科1年で学校の寄宿舎にいた。
 学友と共に早朝、軍の陣地構築作業に出発する直前、10月10日の大空襲にあった。
 学校は那覇市大道、現在の栄町市場辺りにあった。空襲警報のサイレンを、作業に出発する前の学校の運動場で聞いた。空を見上げると、首里方面の上空に編隊を組んでいるような機影が見えた。さあ大変と先輩達の誘導で学校の東側に掘られていた防空壕にかけ込んだ。
 私の服装はモンペの上下をはき、破れかけたズック、防空頭布をかぶり、肩から救急袋をかけていた。
 学校の防空壕も生徒や職員で溢れんばかりになっていた。
 学校の防空壕から直接、豊見城の自宅に帰されたのは、夜も大分更けてからだった。学校の寄宿舎も被弾したとのことで、取りあえず自宅にとの学校側の判断だったのだろう。寄宿舎に同郷の四つ先輩の大城〇〇〇さんがいたので、一緒に暗い夜道を歩いて帰った。
 学校の防空壕を出て、現在の三原辺りを通り、真和志、国場を経由して長堂の自宅に着いた。
 その後、また寄宿舎に帰り、1945年(昭和20)の2月中旬まで寄宿舎から軍の陣地構築作業に通った。

 糧秣運び
 1945年四?5月の雨期頃、空襲が多く、毎日防空壕の中にいた。長堂に駐屯していた球部隊に、女子青年が動員され、軍の糧秣運びをさせられた。
 長堂の集落の東側にあったM家の辺りは軍の糧秣集積所になっていた。大人達の話では、米・砂糖・煙草・鰹節・缶詰などらしい。
 私達が糧秣運びに行った時、砂糖の積まれた山に弾が落ち、真っ白い砂糖が周囲に散らばり、地面はまるで雪が降ったように真っ白くなっていた。
 一度は村の少年が集積所の鰹節の山から何本か盗み、兵隊に捕まったことがあった。当時、私の伯父は集落の区長をしていたので、区長共々、部隊の責任者の前に引っ張られたとのことだった。
 藁縄を二重にして糧秣の入った箱にかけ、背中におぶり、集積所から約千メートルほど離れた長嶺城址の近くの軍の壕まで運ぶ。壕への道は、登り坂の細い道。しかも、ぬかるみで滑る。裸足だったので両足の親指を泥の中に差し込み、力を入れて登っていった。
 壕の中では、係の兵隊が私達の労をねぎらって、非常用の乾パンと、バケツに入っていた真っ白い砂糖をつけて食べるようにと出してくれた。

 防空壕
 長堂には区民用の大きな防空壕が掘られていた。場所は現在の集落の北側にある森の中。そこに、あの頃、ムラヤー(公民館)があり、壕の入り口はムラヤーの隣からで南北に貫通していた。
 壕の片側は通路になり、両側は親戚どうし、隣り合って寝起きしていた。横穴も掘られ、そこは区長の事務室として使われていた。
 昭和20年4月1日、北谷の浜から上陸した米軍は、昼は空襲、夜は艦砲射撃と烈しく弾を撃ち込んできた。夜は照明弾が撃ち上げられ、真昼のように明るくなる時もあった。
 壕の中は狭く、自由に動けないので大変だった。村中の多くの人達が1ヵ所で暮らすので皆、大変だったと思う。
 昼は壕の中で、持ち込んだ玄米を搗いた。一升瓶の空瓶に玄米を入れ、青竹で長い時間、搗いて白米にしていた。また、夜になると壕から出て、近くの親戚の家で米を洗い、雑木林の中で御飯を炊いた。石を3個並べてかまどを作った。貯えの薪も燃やし尽くし、最後は親戚のM家の壁板を剥ぎ取って薪の代りに使っていた。
 夕方、御飯を炊く煙が立ち昇る頃、よく敵のトンボ(偵察機)が来た。上空にトンボの爆音が聞こえたかと思うと無線で知らせたのか、艦砲が烈しく飛んで来た。夕食を炊きながら艦砲弾に当り、亡くなった方もいた。親戚のお姉さんも夕飯の準備中に亡くなった。近くに弾が落ち始めると続いて何発か来るので、御飯が半煮えでも、ほったらかして、防空壕に逃げ込んだ。炊き出しもみんな命がけだった。
 一番辛い思いをしたのは妊婦、病人、老人、子供ではなかっただろうか。

 名もなき児
 又吉の義姉は避難している保栄茂城の亀甲墓の中で出産したようだ。
 大雨の降り続く6月の初旬。米軍が首里から南部に攻め寄せて来た頃だ。
 義姉は、3歳の女の子を連れ、臨月の身を墓の中で産気づいたのだろう。赤ちゃんが生まれ、産後の処理もできたのか、知る由もない。義姉は生まれた赤ちゃんに飲ます母乳も出たのだろうか。またお乳をふくませるゆとりもあったのだろうか。
 義姉は、戦死した。義兄も、三歳の子も、どこで倒れたのか分からない。
 戦後、知人からその事を聞いた姑が保栄茂城の亀甲墓に探しに行った。義姉が避難していたという墓地の石垣の隅に赤ちゃんの遺骨があった。遺骨がくるまれた着物の模様から姑はすぐ分かったよと言っていた。
 この赤ちゃんは弾丸飛び交う戦場の墓の中で生まれ、名前もつけられず、戸籍にも載せられていない。
 私は次の歌に万感の思いを込めた。

  亀甲墓に生れし名もなき幼な児よ
    やがて迎へむ平和の杜に

 平和の礎が出来た時、戦死した両親と一緒に刻まれた。

 焼けた長堂
 4月12日。私は伯父・伯母と一緒に長堂の区民用の防空壕に避難していた。その日は、朝から烈しい空襲で、集落が1日で焼けてしまい、死者、負傷者も数人出た。
 夕方敵機が去ってから、隣の人達と一緒に、防空壕から出て焼け跡を見に行った。壕の近くの小高いところから眺めた集落は一面、ほんとうに黒焼けになっている。鼻をつく異様な匂い。焼け野原になった屋敷跡のあちこちに、まだ白い煙が燻っている。M家の山羊小屋あたりには、山羊が2、3匹黒焦げになり転がっていた。
 集落の人達が、憩いの場所にしていた森のきれいな松林も1本残らず焼き尽くされている。
 あまりの変り様に14歳の私は恐ろしくて身震いがした。
 伯父の話では、敵機は集落に油のような物をかけて焼いたようだとのこと。でも辛うじて焼かれずに残った家が2軒あった。集落の西側の端にあるN家と北側の小高い所にあるM家。N家は51年過ぎた今でも、昔のまま残っている。
 足が不自由だった父方の祖母は、家から逃げ出せず黒焦げになっていたようだ。敵機が去って後、夕方から祖母の遺体は伯父たちの手によって石油をかけられ、火葬にされた。
 爆弾の破片で重傷を負ったA家のおばさんが防空壕に運び込まれた。医者や看護婦もいなければ薬もない。薬の代りに使えるものはアンダマース(豚のラードに塩を混ぜたもの)だけ。どこをやられたのか見なかったが、壕の中に寝かされたまま「うーんうーん」と昼夜、唸り続けていた。村の人達がけが人の側に寄って言葉をかけ、励ましていた。2、3日経ったら傷口が化膿し、うじ虫もわいていたとのこと。あの時は、励ましの言葉をかけてやるしかなかったのだろう。あとはそのまま力尽きていったのではないかと思う。また、私が親戚から聞いた話だが、区民用の壕の近くにあった小さな防空壕では、男の人達が2人、直撃弾を受け、壕もろとも吹き飛んだとのこと。千切れた肉片が竹薮の竹や木の枝に引っかかって、おそろしくて、まともに見られなかったと言っていた。
 明日の命は分からない戦争中だから、どうせ死ぬのならば、けがをして苦しむより、ひと思いに死にたいといつも願っていた。

 陣地構築作業
 1944年(昭和19年)5月18日からは、師範学校女子部でも、授業は1日おきになり、軍の陣地構築作業に狩り出されていった。
 陣地構築作業には、制服にモンペをはき、校章、名札をつけて行った。持ち物は救急袋に入れた弁当だけだった。
 私達の作業は小禄飛行場で、作業は排水溝掘り。ガジャンビラ(那覇港の南側の高台)の高射砲の台座への土運び。識名や与儀の台座作りにも行った。
 那覇市の栄町辺りにあった学校の寄宿舎から作業現場まで、5・6キロメートルの道をいつも歩いて通っていた。
 ガジャンビラでの土運び作業は、小さな笊に入れられた土を、相対して2列に並んだ私達が、軍歌をうたいながら次から次へと台座に運び上げていった。軍歌をうたわせたのは士気を鼓舞するためだった。
 陣地構築作業の手伝いと、1日越しの授業を続けているうちに、10月10日の大空襲があり、那覇の街は壊滅してしまった。だんだんと戦況も厳しくなり、とうとう私達、予科の1、2年生で本島内に帰れる者は、開校の通知があるまで帰宅するようにとの学校からの通達があった。それは1945年2月13日だった。
 学校の恩師や先輩達は、3月には従軍看護婦として動員され、師範の生徒と教師で師範生が108名、一高女生が95名、教師が16名の計219名が戦死、「ひめゆりの塔」に祀られている。

 南下
 米軍が首里まで攻めて来た頃。長堂の防空壕から南の方に下がることになったのは5月31日だった。
 雨あがりの夕方、救急袋と防空頭巾、着替えや非常食の入った非常袋を背負い、裸足で壕を出た。伯父がもっこに食糧を担ぎ、病気の叔母は、モンペの上下に防空頭巾をかぶり、杖を持ち、私が手を引いた。村の人達と一緒に現在の良長園の近くまで登ってきた。子供ながらにも、もう村に帰れないかもしれないと思い、敵が近づいて来たということを実感した。
 遠く首里方面を見ると、識名辺りに白い煙の渦がいくつも見える。タッタッタッタと機関銃らしい音も聞こえてきた。誰かが、敵は近くまで来ている急げ!と言っている。道はぬかるみ、夕方の空は雨雲がたれこめていた。現在の良長園の前から畑の中を横切り饒波川を越えて、平良に近い畑の中を横切った時。丸みをおびて収穫前になっている辣韮(らっきょう)畑を踏みつぶして通ったのは今でも鮮明に覚えている。
 その夜は、保栄茂城の東側にある大きな亀甲墓の中に親戚中の人達が避難した。
 その頃、艦砲弾は、那覇方面から南の与座岳の陣地辺りに多く打ち込まれるようだった。家族と一緒にいた私は、「女子青年は隣の亀甲墓の中に集まれ」との連絡を受け、7、8人くらい、一緒の墓の中に避難していた。
 鉄カブトと手榴弾を兵隊から渡されたのはその時だった。墓の中で坐ったまま仮眠をとっている時も、鉄甲はかぶり続けていた。手榴弾は敵兵が近づいたら信管を抜き、1、2、3と投げるようにと教えられた。
 14歳の私も、大和撫子(やまとなでしこ)として絶対犬死はしない。敵兵を殺してから自分は死ぬんだと心の中で誓った。亀甲墓の中では、女子青年の人達と一緒に肩を寄せ合って坐ったまま寝ていた。頭にかぶっていた私の鉄甲の紐がはずれたのか、墓の中の大きな骨入れに落としてしまった。骨入れから取るのが気味わるく、先輩に取ってもらった。
 時々誰かが音頭をとり、軍歌をうたったりした。

 慶良間の海を埋め尽くした敵艦
 私達女子青年が保栄茂の亀甲墓に避難して一緒に行動している6月の初めだったと思う。
 夕方、艦砲が少なくなり始めた頃、女子青年の先輩に連れられ、保栄茂城の高い所にある松林に登って行った。木の間隠れに見える慶良間の海。まるで敵艦だけで海が埋め尽くされている。初めて見る敵艦、あまりの数の多さに驚き、生唾を飲みこんだ。敵艦は、慶良間の島に対して斜めに視界一ぱいに黒い巨体を横たえて並んでいる。私達は取り囲まれているんだということを実感した。近くにいた兵隊から、危ないから早く亀甲墓に戻るようにと言われた。兵隊は先輩の幾人かに拳銃の撃ち方を教えていたようだ。
 保栄茂城の亀甲墓に軍服を着た学徒兵が臀部をけがし、うずくまっていた。一中生だったが、どうなっただろうか。
 私達の親戚が保栄茂城の墓を後にしたのはすぐだった。南の喜屋武方面に逃げよう、浜伝いに山原に向かって避難しようということになった。親戚の人達は20余名、大雨が降り続いている日の夕方、亀甲墓を出た。
 長い壕暮らしで疲労しきった伯母の手を引き兼城方面へ向かった。病気の伯母は防空頭巾をかぶり、杖をつき、歩くだけでも、とても苦しそうだった。
 私はいもくず・黒糖・鰹節などの入った非常袋を背負い、救急袋を担いでいた。頭には鉄甲、腰には手榴弾を下げ、裸足だ。髪はオカッパで伸び放題、顔も体も2ヵ月位汚れっぱなし。
 伯父はカーキ色の国民服を着て、もっこに入れた少しの食糧と衣類などを担いでいた。
 糸満市の賀数入口の路上で伯母が「もう歩けない。私をここにおいてくれ」と大雨の泥道の端に坐ってしまった。「あなた方2人は先に逃げてくれ」と喘ぐように言う。伯父はもっこを担いだまま、「もう少し頑張って歩けば安全な所があるから」と励ました。雨は休みなく降りつづいている。
 私達が歩いている郡道の賀数辺りは南への避難民がずっと続いていた。小さな荷物を持っている者、子供の手を引いている者など、みんな無言で歩き続けている。道路のわきには、土砂や泥水を被った死体があちこちに見られた。軍服の人、民間人らしい人、丸刈り頭の中が泥と砂だらけの死体も見える。もう怖くて見ないようにした。だんだんと日も暮れ、私達はただ黙々と前を行く民間人の後につづいた。現在の兼城小学校の前を通っていた時、移動するらしい兵隊も黙ったまま。聞こえるのは、遠くに落ちる弾の炸裂音と兵隊達の靴音だけ。早足で隊列を組んで歩いていた兵隊達の靴音が、なぜか異様に聞こえた。多分、自分達と一緒に兵隊も敵に追われているのだという思いがあったと思う。

 新垣
 私の家族3人がやっと、ある民家に入ることが出来たころ、日はとっぷり暮れていた。道路から見える明りをたよりに入ったのだが、そこの家で長堂のN家の家族に会った。他の大勢の人達と一緒に薪を焚いて濡れた衣服を乾かしていた。
 家主は避難したのか空家になっていた。N家の家族にお願いして、私達も中に入れてもらった。N家の家族はおばさん母子3人とCおばさんの家族3人だった。焚火の前に寄り、暖まりながら伯父は保栄茂の亀甲墓から一緒に出た親戚の人達の行先を尋ねたが、誰にも会わなかったと答えた。
 雨に濡れた体も乾かぬうちに、近くの家に艦砲弾が落ちた。すぐ荷物を持ち、逃げた。外は暗闇で、時々揚がってくる照明弾の明りをたよりに、知らない所をただ前の人について歩いた。畑・森・林の中をさまよううちに、喉も渇いてきた。水を探して歩いていると誰かが、ここの地名は新垣で、もう少し歩いて前に行けば畑のそばに井戸があると教えてくれた。
 水を探しに行くという人達と一緒に後についていき、やっと水を飲むことができた。
 とにかく休むところを探そうということで、しばらく歩き、雑木林を見つけた。林の中には先客の避難民がいるのか、話し声が聞こえていた。林の中の小さな岩蔭に休みながら、持っていた非常袋の中から雨に濡れた黒砂糖を出して食べ、飢えをしのいだ。
 腹一ぱい水を飲み、黒砂糖も食べ、うとうとしている時、日本軍の兵隊が4、5人林の中に入り込んで来た。兵隊になんと言われたか覚えていないが、私達伯父、伯母3人は、すぐそこから出た。どの方向か分からないが、喜屋武を目指した。見知らぬ土地で塒(ねぐら)を探す小鳥のように、命を繋ぐ場所を探し歩いた。
 夜の闇の中を民間人らしき人も兵隊も安全な場所を探して行きつ戻りつ、右、左と行き交っていた。

 至近弾
 私の家族がN家の家族と一緒に糸洲・小波蔵あたりを喜屋武方面への道を探して歩いている時だった。
 突然、ドカーンという爆弾の炸裂音。轟音と共に伯母と、道端に伏せる。最後だ! 土煙りが立ち込め、前は見えない。傍の伯母の体が少し動いた。助かったと直感した。石の砕ける異様な匂いで苦しく、伯母と二人近くの木の茂みに寄った。伯父も大丈夫のようだ。とにかく早くここから逃げようと急いだ。近くでN家のおじさんが子供や妻の名を呼び続けているのを後に聞きながら一生けんめい逃げた。
 あの轟音を聞いた瞬間、もうだめだと思った。私の家族3人、運が強かったのか無傷だった。長堂の防空壕に入っていた時から願いはひと思いに死ぬことだと思っていたが、いつしか両の足は安全地帯を目指して歩いていた。
 至近弾が落ちた場所は、糸洲か小波蔵かはっきり分からないが、石が砕ける匂いがきつく、胸が苦しかった。N家のおじさんが呼び続けていた、奥さんのCおばさんと子供さんが亡くなったと後で聞いた。

 祖国の勝利を信じて
 千切れたさとうきび
 逃れ逃れて6月の中旬ごろ、入っていた喜屋武の壕は、海沿いのあだんの木の繁みの中にあった小さな自然壕だった。壕には糸満の上原という家族と新垣集落から一緒に逃げてきたN家の家族、その他24、5人くらいだった。水は自然壕の上からしたたり落ちる滴を、飯盒の蓋に貯めて飲んだり、近くの井戸に汲みに行ったりした。
 昼中は壕にひそみ、夕方からは砲弾に当って、千切れたさとうきびを近くの畑から探してかじったりした。非常袋の中から雨に濡れて湿っていた鰹節も出してかじっていたが、余計に喉が乾いた。

 新しいモンペの死体
 いつもより静かな夕方。壕を出て近くにあった大川といわれている共同井戸に飲み水を汲みに行った。井戸は畑の中の窪地にあり、石段を幾つか降りて行った。そこには大勢の避難民が集まっていた。
 私が飯盒を片手に持って井戸に降りた瞬間、轟音と共に砲弾が近くで炸裂した。次々響く砲弾の炸裂音を背に、すかさず身をかわし、倒れた死体の上を跨ぎ、壕に逃げ込んだ。
 あの時、私が跨いできた女の人の死体は、真新しい絣のモンペを着ていた。私は、なぜか今でもあの情景が忘れられない。あの人はどこのどなただったかと…。
 戦後、お骨は遺族のもとに帰ったかしらと思い出す時がある。

 初めて聞いた米兵の声
 幾日か経った早朝、壕から伯母を外に連れ出した。見上げると久しぶりに見る青空。きっと友軍の飛行機が私達を助けに来るよと、衰弱した伯母を励ました。しかし、願いは叶わず、私達が入っている壕の近くに砲弾が落ちた。「ゴゴオーン」と大音響。「ウオーッ」最後。皆抱き合って伏せた。岩の砕ける匂いで息も詰まりそう。気がついたら、壕の中の人達は大丈夫のようだ。
 砲弾が壕の近くに落ちた日の夜から危険を感じたのか、多くの人達が黙って壕から出て行ってしまった。でも、私達は衰弱している伯母を連れて動くことはできない。死ぬ時は一緒と暗黙の了解だった。
 やがて、壕の上辺りで話しているのか、米兵の声が聞こえてきた。初めて聞く米兵の声。じきに殺されるのだと思い、息をころして壕の奥に寄っていった。
 波の音に混ざって、日本語で降伏を呼びかける声も聞こえてくる。
 米軍に見つかったら、若い女性はいたずらされて八つ裂きにされると聞かされていた。

 捕虜になった日
 壕の入口から「デテコイ、デテコイ」と片言の日本語で呼ぶ米兵の声。壕の奥に入っていた私は、伯母にしがみついた。しかし、伯父に「仕方がないよ、早く出よう」と言われ、伯父が先に、両手を上げて壕を出た。何も持つことも出来ず着のみ着のままのはだし。初めて見る鬼畜米(英)兵の赤い顔と青い眼。おそろしくてまともに見られない。米兵は壕の入口の両側に立って、私達に銃をつきつけ、前の人に続けという意味か、銃先を動かして合図をする。私はうつむいたまま伯母を支え、米兵が銃で指す方向に歩いた。とにかく、どこかで殺されるんだと思った。
 長堂の壕の中で暮らしている頃、米軍に捕まったら、女はいたずらされて八つ裂きにされるという話を聞いていた。運命の日、ただおそろしくて伯父の後に続いた。捕虜になった日も6月の何日だったか、覚えていない。
 米軍は降伏を呼びかけても壕から出て来ない時、火炎放射器で焼き払っていたようだ。
 私達が連行されたところは小高い丘の上、そこでも、長堂のN家のおばさん達と一緒になった。伯母さんは太股をケガし、足を引きずっていた。女の子一人は背に負い、一人は手を引いて立っていた。
 近くには米兵ばかりで避難民の姿は見えないので、他の人達はどこかで殺されたのだろうと思った。
 米兵は私達に水を飲むように勧めている。水は濃い緑色の野戦用の水缶に入っていた。やがて殺されるという緊張感からなのか、喉はからからに乾いていたはずだが、私達は拒んで飲まなかった。
 まもなく2トントラックがきて、私達6人は乗せられ、トラックは走り出した。みんな黙っている。
 その頃から私は捕虜になったことを後悔した。車上から、爆撃や砲弾で変形した岩肌が白く見える。車は焼き尽くされた村の近くを通っている。私達の他に避難民は1人も見えない。やがてひき裂かれるという恐怖と自分達ばかりが生き残って捕まっているのだという無念さから、死ぬのは今だと直感した。疾走しているこの車から飛び降りよう。私は今まで掴んでいた伯母の体から手を離し、走る車の右手に寄ろうとした。すかさず伯母が私の腰を両手で掴んだ。「何をするの」私は立てない。車の右手を見ると、初めて見る黒人兵の一団。走る車に向かって大勢立って見ている。あまりの黒さとおそろしさに隙を見て、飛び降りようとしていた私の心も萎んでしまった。伯母は泣いて訴えている。殺される時は三人一緒だ。「時を待て!」と。私の腰をしっかりと掴んでいた。多分、車は喜屋武の雑木林を抜け、現在の国道331号線を伊良波に向かって走っていたと思う。

 生まれ変わって
 私達6人を乗せたトラックは、いつの間にか避難民が大勢いる所に着いた。そこは伊良波の避難民収容所だった。私達は、そこでトラックから降ろされた。まず、大勢の人とテント小屋を見てびっくり。私達より他に大勢の人々が生きている。太陽も照り輝いている。やがて水も飲める。捕虜になったのは私達ばかりではなかった。ほんとうに生きていて良かった。とにかく天地がひっくり返ったようなと言い表わせばよいのか分からない。ほんとうに生まれ変わったような気持だった。
 私達は2ヵ月ぶりに晴天の下を堂々と歩き、係の人から割当てられたテント小屋に入った。
 伯母も腹一ぱい水を飲み、体を横たえていた。夕方はおにぎりも1個ずつ配られ、缶詰の配給もあった。
 保栄茂城の墓の中で、兵隊から貰った鉄カブトと手榴弾は、どこでどうしたのか全く覚えていない。
 あれほど強く「犬死には絶対しない」と誓った決心もここ伊良波に来て、ほんとうに生きていて良かったという思いに変わった。

 伯母の死
 伊良波の収容所から、野嵩の収容所に移された翌日で、私は早朝、テント小屋から1キロメートルくらい離れた診療所に伯母の様子を見に行った。仰天した。伯母が息絶えたまま冷たくなっているのだ。おばさんと呼び、かけ寄って、冷たくなった頬を撫でてやった。目は開いたまま天を見つめている。指でこすってやった。まさか、こんなになるとは。顔にかける何もない。毛布もなくボロになったモンペだけ。とにかく、早く伯父に知らせようとかけ足でテント小屋にいった。伯父と2人で診療所にもどってみると、伯母の遺体が見つからない。泣いても喚いても、取り合ってくれる人はいない。伯父が杖をついて、あちこち尋ねたが、どこかに運び去られたらしいのだが、それがどこやらわからない。診療所といっても、収容所で、テントが張られ、土の上に軍用寝台が置かれているだけだった。
 弾丸飛び交う戦場を3人でさ迷いながら、やっとここまで生きて来たのに。
 腹一ぱい水が飲めたら、どこで死んでもいいと言っていた伯母。戦争も終り、水も自由に飲めるようになって命終るとは…。50歳だった。1人ぼっちの私を10歳から育ててくれた伯母。捕虜になった日、私が走る車から飛び降り自殺をしようとした時、私を必死に抱きしめて離さず、私の命を救ってくれた伯母。ほんとうに無念だった。
 あの頃、診療所には、戦場で衰弱した子供や年寄り、けが人が大勢運び込まれていた。
 どこの誰か名前も分からないまま、息が絶えると担架に担いで大きな穴に投げ込んでいたと、後で聞いた。
 伯母の死を思う時、同じ死ぬのなら、自分の側に置いておけばよかった。診療所に預けたのが悪かった。と後悔した。

 野嵩のくらし
 野嵩の収容所にいた時、伯父は避難中の疲労と、伯母を亡くした心労とで寝込んでしまった。赤土の上に竹の葉を敷いただけのテント小屋に、転がされたように毎日横たわっていた。テント1つに4世帯くらい暮らしていたと思う。
 配給される缶詰を水でうすめて伯父と分けて食べた。
 テントの外に石を3つ並べてかまどを作った。米軍の鉄かぶとや缶詰の空缶は鍋の代りや食器の代りになった。近くの薮からとった青竹は上等なお箸だ。マッチはなかったので、近くから貰い火をしていた。薪は枯れ枝を集めて使った。
 テント小屋の近くに大きな共同井戸があった。避難民は、そこで飲み水を汲んだり、洗い物をしたりしていた。
 私はその井戸で2ヵ月半ぶりに水浴びをすることが出来た。井戸の上には松の木が2、3本残っており、太陽がきらきらと輝いていた。野嵩で会った知人から服を借りて着替えることができた。しかし、石鹸やタオルなどはなかった。
 永い間の壕暮らしのため衣服にも頭にも、毛ジラミがわいていた。作業からの帰途、収容所の入口で米兵が私達の頭に白い粉をかけていた。その白い粉は毛ジラミ退治のためのDDTという薬だった。

 戦果アギヤー
 野嵩の収容所で働ける者は全員作業に出るようにと班長から言われた。伯父は寝たきりだったので私が行った。働かない人には配給の缶詰も減らされる。
 私が行かされたのは、芋掘り作業だった。4、50人の大人達がトラックに乗り、収容所外に出て芋畑を探し、掘りに行った。掘ってきた芋は収容された人達に配給されていた。
 その頃、「戦果」という言葉をよく聞かれた。
 作業に行った時、戦争で焼け残った民家や防空壕の中から衣・食・住に必要な物を探す。また、米軍の物資集積所から盗んで来たりすることを「戦果を揚げる」と言っていた。
 芋掘り作業から帰る時、いろんな生活用品を探してくる大人達を羨ましく思っていた。私も次には何か戦果を揚げて帰り、伯父を喜ばそうと思った。
 ある日の芋掘り作業の時、近くの焼け残った民家から茶色っぽいお碗を4、5個探し、喜んで帰ったことが私の戦果第1号だった。
 また、米軍の塵捨て場から缶詰を拾ったこともある。作業に来た大勢の大人達と一緒に、砂糖に群がる蟻のように缶詰を取り合った。
 芋畑に埋められた味噌カメを探し、中の味噌を、探した人から分けて貰ったこともあった。
 米軍の塵捨て場で見つけた缶詰の中に当時、「レーション」といわれていたのがあった。
 その缶はマグカップほどの大きさで、濃緑色だった。中身は、クラッカー・チーズや粉コーヒー・砂糖などで、伯父はこの缶詰を持ち帰ると、とても喜んで食べてくれた。
 私が初めてチョコレートを口にしたのも、野嵩の作業場だった。甘みに飢えていたため、ほんとうに「命(ヌチ)ぐすい」だった。
 大きな戦果を揚げたのは、船の荷揚げ作業に行った時、着ている上衣のポケット(米軍から支給された古着の軍服)にイワシの缶詰2個を隠して持ち帰った。大人達が持っている油の缶は目立ち過ぎたのか、下船の時米兵に取り上げられていた。私のはポケットが広く深かったため気付かなかったのかもしれない。
 大人はいろいろな品物をうまく隠して持ち帰り、テントの中で戦果の自慢話をしていた。14歳の私には、イワシ缶二つがやっとだった。
 男の人達がグループで米軍の物資集積所に忍び込み、捕まった人、射殺された人もいたようである。
 うまく沢山盗み出し、闇売りして大稼ぎした人もいたとのこと。そんな男性は「戦果アギヤー」と言われ、嫁のなり手も多かったと聞いた。
 命を繋ぐために盗まなければ食べられなかった時代。盗むことを戦果といい、正当化していた収容所時代。戦争のため、米軍の塵捨て場から缶詰を探して食べた私達だった。

 久志小へ
 野嵩のテント暮らしに馴れ始めた頃、宜野座村古知屋の収容所に移された。伊良波から野嵩と三ヵ所目である。
 古知屋から伯父の知人を頼りに久志小に移った。
 古知屋から浜伝いに伯父と2人で歩いて行った。缶詰の空缶の鍋や少しの荷物があった。
 久志小の友人の紹介で松浜屋という屋号の比嘉さんという方の家、母家の裏座で3畳ほどの部屋に住まわせてもらった。
 久志小の集落は、戦争の被害が少なかったのかたくさんの家が残っていた。でも、那覇や島尻からの避難民が大勢入りこんでいて、どこの家も一ぱいだった。比嘉さんの家族は6・7名で、台所と二番座を使い、一番座は、避難民の二世帯に使わせていた。
 永い間の壕暮らし、テント暮らしから本物の家に入れてもらい、黄金の御殿のように思えた。
 裏側の山から吹きおろす風が身に沁み、飲み水にしている川の水も冷たくなり、晩秋の候になった。
 寒さを凌ぐため、伯父は知人から藁を分けてもらい、藁ぶとんを編んでくれた。それが伯父と二人の唯一の防寒具だった。
 私達が生きていることを聞いた今帰仁の伯母が尋ねてきたのはその頃で、古い着物や米などを貰い、とても助かった。

 暖かい豆腐半丁
 久志小で迎えた正月の日。比嘉の奥さんから豆腐半丁を頂いたことがある。
 「今日は正月だよ、伯父さんと2人これで正月しなさい」と山原訛りで渡された。予想もしない豆腐。嬉しくて夢のよう。皿にのせられた豆腐を手で触ると、やわらかく、まだ暖かい作りたて。奥さんの暖かい心が込められた忘れることのできない味だった。
 久志小でも食糧の配給は乏しく、私の頭の中は、いつも食べ物のことばかり。
 天気の良い日は浜に出て、砂の中から小指の先ほどの貝を拾いに行った。また、浜に打ち寄せられた「ほんだわら」を採ってゆで、配給される缶詰と混ぜて食べた。
 民家の垣根に植えられた桑の新芽も伸びるのも待たず、次々と摘み尽くされていた。
 野原のよもぎやいもづるも見つからない。

 PW
 野嵩の収容所で初めて衣服の配給があった。米軍の古着で、ズボンと上衣をそのまま着た。
 軍服の上衣の背に白いペンキで「PW」と横に大きく書かれたのを着ている人もいた。その「PW」が捕虜の意味だと分かったのは随分後になってからだった。

 長堂に帰って
 久志小から渡橋名のテント小屋に移ったのは1946年の初夏だったと思う。
 糸満高校の3年に編入試験を受けて入った。学校はテント小屋と、かまぼこ型のコンセット教室だった。机は代用の物があったが、教科書やノートはない。米軍の使用した紙の裏をノート代りに使った。鉛筆は配給があったのか覚えていないが、使っていた。
 その年の秋ごろ長堂の規格ハウス(茅葺の屋根)に引越した。
 戦争中、村が焼け野原になってから、約1年半ぶりの長堂だった。
 焼け後の屋敷に家が建てられ、バナナの木が育ち、緑の葉が風にそよいでいるのを見て胸が熱くなった。
 長堂の家から、糸満高校に通い、48年3月に卒業した。その年の11月に結婚し、一鍬ひとくわ、戦後の復興に向けて励んだ。

 棒地雷の事故
 ある夜のこと。
 「おい、火事だぞ!」
という夫の声に飛び起きた。集落の東側だと言いながら夫は外に飛び出して行った。東側には、私の伯父の家がある。缶詰の空缶で作ったバケツを持ち、かけ出した。
 火事は伯父の家の隣、〇〇〇さん宅。みるみるうちに真っ赤な炎を上げていく。私が伯父の家の井戸から、釣瓶で水を汲み上げてい時、どかーんという大音響。持っている釣瓶(つるべ)を離し井戸の端に伏せる。何が起こったのか分からない。
 消火に集まっていた隣近所の人達は大騒動、再爆発をおそれ、火事場から離れた。
 その日は昭和23年12月14日の夜明けだった。火元の〇〇〇さん宅は全焼。
 〇〇〇さん。隣の〇〇〇のおばあさん。消火に来ていた〇〇〇のおじさんの3名が死亡した。
 当時は、消防車も救急車もない時代。井戸や近くの池からバケツリレーで消火に当たった。
 爆発物が棒地雷だったということは後日聞いた。火元の〇〇〇さんは棒地雷だとは知らずに、破風屋根の天井桁として使っていたとのことである。
 〇〇〇さんは沖縄戦、〇〇〇のおじさんは、比島からの引揚げ、どちらもこの戦争から運よく生還し、さあ、これから家族一緒に平和にと、暮らし始めた矢先の事故だった。
 爆発事故は他にもあった。子供達が遊びの途中不発弾が爆発し、当時小学生だった親戚の男の子が亡くなった。この事故は、1946年の夏ごろ、久志小から渡橋名のテント小屋に移った頃だったと思う。
 また、長堂に帰って後、メチルアルコールを使って自家製の酒を作って飲み、中毒死した人もいた。

(1997年1月寄稿)

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