金良 大見謝 英子(南部避難) 1 全文
| ID | 1170611 |
|---|---|
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 南部避難 |
| 資料名(別名) | 金良_大見謝 英子_「一高女合格の喜びが…」_1_全文 |
| 資料内容 | 戦前の様子 私は豊見城村字金良■■■番地、屋号〈四男新地〉の長女として昭和6年に出生した。小学校4年生までは豊見城第一尋常小学校(現在の長嶺小学校)に通っていたが太平洋戦争の勃発した昭和16年以降から豊見城第一国民学校へと校名が変更されている。 戦前の校舎は瓦葺きの長屋で西側にはトイレがあり、東側の山の上のほうには天皇陛下の写真を安置した奉安殿があって、その近くを通るときには皆、最敬礼をして通った。当時、天皇誕生日は「天長節」と呼ばれていたが、その天長節や入学式、卒業式の日などには日の丸を掲げ、天皇陛下の写真の前で校長先生が教育勅語を読み、国歌、君が代を歌った。 戦前の学校では「天皇陛下を神として仰ぐよう」教えられた。まさに当時の日本は天皇制国家の真っ只中であった。 太平洋戦争に召集された父と兄 私の父、大城〇〇〇は10.10空襲(十・十空襲)(昭和19年)のおよそ2年前、海軍航空隊主計兵として召集され台湾へ出征した。それ以後、残された母・〇〇〇は14歳の私を筆頭に4歳になる末娘まで5人の子供たちを抱えての忙しい毎日を送ることとなった。 父の出征前日、夜から立て続けに子供たちが風邪で高熱を出したため、母は結局父の見送りに行くことができなかった。出征当日、残念の言葉を繰り返しながら母は目にいっぱいの涙を浮かべ自宅から三重グスクの方角に向かい武運長久を祈っていた。妻子に見送られることなく那覇港から出征していったその父も台湾でマラリヤに罹り、昭和20年11月30日に戦病死した。 長男である兄、〇〇〇もその後昭和20年開南中学3年在学中(当時16歳)に学徒通信隊、いわゆる鉄血勤皇隊員として召集され沖縄戦に参加、戦死公報では同年6月20日、本島南部の真壁方面で戦死したことになっているが遺骨のひとかけらも私達遺族には残されてはいない。 沖縄戦開始までの部落内の状況 昭和19年の夏頃になると、日本軍の武部隊、山部隊が大挙、本島南部に駐留してきた。それらの部隊は山を切り開き、あちらこちらの森の上などに仮兵舎を造営、山腹や森の下などにも防空壕やたこ壷壕を掘り始めた。私達の金良部落には暁(あかつき)部隊という陸軍の部隊が駐屯していたが、進駐時期や部隊の展開状況など詳しいことはよく覚えていない。しかしそのころから私達、女子も含め働ける民間人はほとんど壕掘り作業等に駆り出され、字内の山野は急速に賑わいを見せ始めた。私達が壕掘りを行った場所は字長堂山垣原の山腹一帯。現在、墓地団地になっているあたりで、ツルハシやスコップでクチャ(土壌の名称)を掘り進める作業や、掘り出した土を運んだりと男女関係なく軍へ協力したものだった。その他に金良と東風平村外間との境界付近の「新地森(ミージモー)」でも壕掘り作業が行われたと記憶している。 日本の兵隊たちは、日中は壕掘りなどで汗を流し、その疲れを癒すために月夜の晩ともなれば自分の故郷を思い出すのか、お国の民謡やあるいは流行歌を唄って夜を過ごしていた。今思うと「嵐の前のー」とでも言おうか、あの月夜に流れた歌声がまるで夢のような心地で今に蘇ってくる。 10.10空襲(十・十空襲)(昭和19年10月10日) 昭和19年10月10日朝7時前、私達家族はいつものように朝食を済ませていた。しばらくすると青く澄み渡った秋空に、南の方角から北に向けて黒い飛行機がたくさん飛んで行った。やがて那覇の上空でドカン、ドカンと大きな音が鳴り始め、敵による大空襲であることがわかった。 金良、長堂など周辺への爆弾投下はなかったので、私達は避難していた防空壕の入り口近くから恐る恐る那覇の上空あたりを眺めていた。大空襲だったにもかかわらず那覇の騒ぎとは裏腹に私達の部落をはじめ近郊の農村地では比較的安全で静かだったようである。しかし、その日は那覇港一帯の船舶が沈没すると同時に、港湾近くに積み上げてあった軍需物資も焼失、建物もことごとく破壊され、那覇市の都市機能は壊滅的な打撃を受けたようである。 10.10空襲(十・十空襲)は迫りくる沖縄戦を暗示するかのように大きな被害をもたらし、軍はもちろん住民に与えた衝撃は計り知れない。その日以降から沖縄は戦々恐々の社会へと突入していった。 疎開 昭和19年あたりから住民に対し疎開が勧められるようになった。本土疎開の場合は宮崎や熊本、そして大分方面に、沖縄本島内なら北部方面が疎開地として割り当てられた。 私達家族は相談の結果、北部疎開を決めたが、親類の中でどうしても疎開に行く組と行かない組との二手に分かれてしまった。疎開しない組の主な理由は山原方面は食糧が乏しいだろうとの憶測がたぶん働いたからである。私達、〈四男新地〉は母と子供4人(次男・昂、三男・勲、次女・和子、三女・節子)の計5人が大宜味村喜如嘉に疎開した。兄で長男の〇〇〇は、このとき学徒通信隊として軍に召集されていて字にはおらず、長女である私はちょうど県立第一高等女学校に合格を決めていた矢先だったのでその入学式に参加したい一心で疎開を思い止まっていた。母や周囲の人達からは、このような状況下で入学式はありえないと疎開行きを説得されたが私は頑として聞き入れず「入学式が済んだらすぐに(山原へ)向かうから」と逆に心配する母らを説き伏せ部落内に止まり、同じく疎開することを希望しなかった母方の祖父母である徳おじいカマルーおばあ夫婦の元へ身を寄せた。母たち疎開組は親類20人位で叔父の知人の軍のトラックで大宜味村喜如嘉に出発した。昭和20年3月初め頃である。 疎開せず村内に止まった私たち 母たちが北部疎開で故郷をあとにした直後、兄・孝捷が突然帰ってきた。昭和20年2月末頃、字豊見城にあった海軍部隊の通信隊へ召集され、一時的な帰宅であった。次の命令があるまで待機しておくようにとのことらしく、その間、兄は私とともに〇〇〇おじいのところで過ごしていた。その後、津嘉山にいた学友が迎えに来て再度部隊へと出て行った。軍や役場などから特に召集の通知や伝令があるわけでもなく学校の級友どうしで連絡を取り合い、あるいは誘い合って軍に合流していったようだ。そのときの所属部隊や場所など詳しくは分からない。家を出る際、私は兄に鰹節と黒糖を持たせた。「自分は生きて帰れないはずだからおまえだけは必ず母さんに会うんだよ」との兄の言葉に涙をこぼす私の姿を見て、家に駐留していた日本兵が「なぜ泣くか。学校で何を教わったんだ。この戦争は勝つんだから泣くな」と大声で叱りとばした。「豊見城の通信隊に所属しているから」との言葉を残し、兄は出発。この2回目の出発以後、私達兄妹の再会は二度と叶わなかった。私も結局、一高女の入学式など当時の時局では行われるはずはなく、以後、母や兄弟たちと離れ、激戦地の南部で恐ろしい戦争の実態を体験することとなる。 昭和20年4月1日、米軍は沖縄本島にいよいよ上陸。村内および島尻一帯にまだ敵の姿はなかったが、部落内のミージモーには日本軍の陣地があってそこから那覇沖に展開している米軍に対し、砲撃があったようだ。私達はその間、ほとんど防空壕での穴蔵暮らしだった。敵が攻撃を開始しない明け方のわずかな時間を利用しての食事づくりを大急ぎで行い、昼間は砲撃や偵察機を避けて壕にこもりっきりの生活だった。ちょうどその頃公民館の近くに大きな松の木の森があったが、砲撃で飛ばされ手足のなくなった日本兵の遺体が木の枝にかかっており、大勢の部落の人達が代わる代わる見にかけつけていた。穴蔵暮らしにもかかわらずどこから噂を聞いたのか子供達も興味ぶかげに集まっていた。その頃あたりから避難民が頻繁に部落内を通行するようになった。字長堂と金良付近はたぶん南部方面への通り道になっていたのだと思う。艦砲射撃の合間をぬって多くの人々が私達の部落内を抜け、南へと流れて行った。私たちはたまに壕から出ては話しかけ情報を聞いたりした。そのときに米軍の沖縄本島上陸も知った。 私達親類の部落居残り組は実家の隣にあった叔父の家の横に、自分たちで防空壕を掘りそこで避難生活を送っていた。当時は各家庭ごとに避難用の防空壕がそれぞれの屋敷近くなどに用意されていた。しかし、その壕が砲撃でやられて使えなくなったため、そのまま親類約20名は残っていた叔父の家に身を寄せることとなった。そのような5月末頃のある日、真夜中の2時過ぎ頃だったと思うが、雑魚寝(ざこね)している私達のその家は突然迫撃砲の直撃を受けた。私の隣りで寝ていたおばあちゃんは即死。私も眉間に破片を受け負傷、目が見えない状況に陥った。それ以外にも5~6人が怪我をした。一高女で使う予定だった救急袋を肌身離さず持っていたので、私の顔面の手当ては〇〇〇おじいたちが応急処置してくれた。 敵が首里・与那原方面まで迫っているとの噂も出ていた矢先だったので、早いうちにケガ人を連れ出し金良から出ようということになった。字平良にある親戚の壕に入れるかどうかを砲撃の合間をぬって〇〇〇叔父が下見をし、入れてもらえるということになり、そこへ移動することとなった。 金良の壕を引き払う前に〇〇〇おじいと他の大人たち2、3人で相談をし、飼っていた豚をつぶすこととなった。油をとってラードにし、塩を多めに入れて一斗壷に詰め庭端に穴を掘って埋めた。6月1日、肉をラフテー煮にして持てるだけ持って、一路今の豊見城団地の下、字平良の親類〇〇〇叔母さんの壕に向かった。 平良まで私は親戚の叔母におんぶされ避難した。壕に到着して2時間ほど経ってから、〇〇〇おじいに〇〇〇おばあ、いとこ2人と私、そのほかにお年寄り2名の計7名を残し、他の元気な人達はさらに島尻方面へと避難していった。私はまだ目が見えない重症の状態だったのでとどまざるを得ない状況だった。最初いた平良の人達も日が経つにつれ壕を脱出していった。壕には一週間ほどいただろうか。ラフテー煮や芋クズ、カンメンポー(非常食糧)などを多少携帯していたので特にそこで食べ物に不自由していたという記憶はない。結局この壕に最後まで残ったのは怪我で動けない私と祖父母、そしていとこの〇〇〇さん、〇〇〇さんの5人であったが、壕に移って4、5日ぐらい経つと私の視力も回復し、ようやく物が見えるようになった。引っ切りなしに他所から逃げ込んでくる人達の情報で、敵がもう間近まで迫っているということを聞いて、私達もついにこの壕を脱出することとなった。 祖父母の死 平良の壕を出たのは6月7日、夜も明けぬ未明ごろだった。私は祖父と手をつないで先になり、続いて従姉妹たちは祖母と連れ立ってそれぞれ少し距離をおき壕を出て行った。小満芒種で雨続きの時期であったので祖父は手に雨傘をもっていた。部落内の道はあちらこちらにくぼみがあって、そこに雨水が溜まり歩くのにも一苦労である。平良から高嶺へと差しかかろうとしばらく歩いていると、後ろの方でパーンという大きな音がした。なかなか祖母らの姿が見えないので、心配して後方をうかがっていると、祖母と一緒だった従姉妹が驚いた表情で「おばあが転んでやられたみたい」と息を切らして駆け寄ってきた。祖父は「おばあを起こしてくるからここから動かないように」と私たちを待たせ、祖母のいる場所へと歩いていった。そして祖父がその場所へ駆け寄った頃と同時にまた炸裂音がした。どれほど時間が経過しただろうか、たぶんほんの数分間であっただろうと思うが、私達にはとても長い時間に感じられた。祖父母はいっこうに戻ってこない。私達は急に心細くなってその場で泣き出してしまった。祖父からあずかった傘もその場に放り投げ泣きじゃくりながらその場所へ行ってみようと逆に歩きだしたら、道から溢れんばかりの大勢の人達が荷物を担いで逃げるようにやってきた。「途中で地雷にやられたおじいとおばあがいたよ」というその人達の言葉に戻ろうとすると、「敵がそこまで来ている。早く前に進みなさい」と半ば叱責にも似たような口調で行く手を遮られた。結局、照明弾が炸裂し、間近に迫った敵に追われ混乱した状況のなか祖父母の最期も確認できないまま、私たちは死に物狂いで避難をせかす人々の一団とともに、南部へと歩きだした。泣きながら、後ろ髪を引かれながらの子供3人だけの逃避行となった。 激戦地を彷徨 私たちは見知らぬ大勢の人々とともに兼城を抜け、報得橋付近までたどり着いた。照明弾が上がるたび地面にひれ伏しながらの移動であった。橋は破壊されていたので、川底を歩いて渡らなければならない。子供を肩に乗せ、顔を水の中に沈ませ息も絶え絶えに渡る母親など皆必死の形相であった。報得川を渡り、さらに南へと前進する。近くの人に聞くと敵は国吉・真栄里付近に来ているという。頼る身寄りもない女の子だけ3人、行く当てもなく、ただ周囲の避難民と行動をともにするだけの移動である。私たちは壕なども捜し出せないので昼間は適当な樹や岩蔭などに身を寄せ、夜、周囲の畑からとってきたさとうきびをかじり、飢えをしのいでいた。「もういつ死んでもいい」という自暴自棄の心境。他の避難民も「どうせいずれ死ぬんだから」ということを口々に言っているので死ぬことへの恐怖心がまるで麻痺しているかのようだった。国吉・真栄里には6月13日ごろまで滞在した。その後、私たちの一団は真壁方面へと移動を開始、その後を付いていくように真夜中私達も歩みを始めた。その頃の南部の夜の道は大勢の避難民でごった返しの状態である。狭い道は足の踏み場もないほどに逃げ惑う人々の行列で溢れていた。そんな状態のなか、「3人とも絶対離れないように」と互いに言い聞かせながら伊敷付近を通過していたら、ふいに照明弾が炸裂、身を隠そうと混乱するさなか、〇〇〇さんが私達とはぐれてしまったのである。周囲を見渡しても暗くて捜し出せず、結局、それ以降、〇〇〇さんと2人だけで行動することとなった。 真壁での出来事 真壁村でいとこの〇〇〇さんとはぐれた私達2人が次に出逢ったのは、手足を大ケガした日本兵だった。屋根を焼かれ周りの壁だけを残した一軒家にたどり着いた私達にそこにいたこの兵隊は「すみません、水をもらえませんか」と虫の息で嘆願した。私達は近くから一升瓶をもってきて、やっとの思いで井戸を捜し当て、水を汲んでその兵隊へ与えた。暗闇の中で慌てていたこともあり、瓶いっぱいに汲んだはずの水が兵隊に差し出したときにはほとんど僅かな量となっていた。その兵隊に一升瓶を渡しその場を立ち去った。 6月18日ごろ、伊敷部落のある壕に辿りついたが、大勢の人で満杯状態。壕の中に入れなかった私たちはやむなく入口付近の木陰に身を隠していた。するとしばらく経ってから付近に艦砲が炸裂。とっさに身を隠したが破片が私の左頭部に当たった。自分で応急手当をした。 捕虜に 6月21日、午前。伊敷部落で、私は頭部に大ケガを負いながらもなお戦場を彷徨い歩いていた。隠れる壕も見つからず、仕方なく日本軍が放置した戦車の下にもぐり、〇〇〇さんと2人で身を潜めていたら、遠くから人の歩く靴の音がした。日本軍か米兵か分からない。2人とも息を殺し、ドキドキしながら気配を消していた。しばらくして今度はすぐ近くで人の歩く音がした。足が6本、3人の米兵だとすぐに分かった。息を止めその場から立ち去るのを祈った。その時は見つからずに済んだが、午後になって今度はカービン銃を担いだ3人の米兵が携帯用のマイクで何やらしゃべっている。「戦争は終わった。殺さないから、手を挙げて出て来い、何もしない。避難民は皆出てきている。早く出て来い」と繰り返し呼びかけていた。戦車の下からは捕虜になって出て来た避難民の集団も見える。どうしようかといとこと2人思案していたら、近くにいた米兵に見つかってしまった。出てくるようにと手招きする米兵に覚悟を決め、私たち2人は戦車の下から這いずり出て来た。「どうせ殺されるんだ」と決めつけていた私たちには初めて間近に見る背の高い青い目の米兵はよけいに恐ろしく感じた。捕虜となった私たちは大勢の人達とともに広場に連れて行かれ、片言の通訳が「何もしない」となだめる言葉をすごく緊張した面持ちで聞いていた。伊敷で受けた私の頭部の傷を米兵が手当してくれた。ケガをした箇所の髪を切り、破片を摘出した後、包帯も巻いてくれた。衛生兵の親切なこの行為にいつの間にか感動の気持ちが込み上げてくる。それと同時に戦場を逃げまわっていた時には感じなかった頭の傷の痛みが疼き始めたのも不思議だった。 収容所へ 伊敷から男女に分けてトラックに乗せられた私達は豊見城村座安に連れて行かれた。収容所となっていた二豊(現在の座安小学校)の校内には米軍の野戦用テントがあちらこちらに設営され、大勢の住民が集められていた。そこで1泊だけして翌6月22日には宜野湾の野嵩へと移され、8月6日頃まで過ごした。野嵩の収容所で私達は沖縄戦終結の情報を耳にした。逃避行の疲れや頭のケガの痛み、捕虜もいつかは殺されると噂が立っていた矢先の日本軍の敗北の報は一時期、私達を放心状態に陥れた。私達はさらにそこから古知屋(現在の宜野座村松田)へと収容された。これまでの収容所とは異なり、金良や長堂部落など生き残った同郷の人達も多く、たくさんの情報も得られるようになった。顔や身体に傷を負っているが、元気でいるーという私のことも口伝えで周辺に広まっていたらしく、同じく久志(現在の名護市)で捕虜となっていた母があちこち消息を尋ね廻っていたこともあって、やっと親子の対面が叶った。私の噂を聞き付け、古知屋を訪れた母とのほぼ1年ぶりの再会。母は泣いて喜んだ。大宜味村喜如嘉に疎開した母たちは久志で捕虜となったものの、捕まる際の混乱で一緒にいた弟たちと離れ離れになり、一時期、弟は久志の孤児院に収容されていたという。たまたま親戚が孤児院にいた弟を確認、そのことを母に伝えて引き取り、家族は合流を果たしたという。私は母に連れられて古知屋から久志の収容所へと移った。 しばらく久志で生活をした後昭和20年12月の初めごろ、私たち家族は故郷豊見城村へ帰村した。 (1996年10月寄稿) |
| キーワード | 一般住民体験談、10.10空襲(十・十空襲)、兄が鉄血勤皇隊員(開南中)、暁(あかつき)部隊、新地森(ミージモー)、山原疎開 大宜味村喜如嘉、 |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
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| 総体3 | |
| 出典1 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.768-776 |
| 出典1リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 金良 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
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| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類3 | 6010606市史編集 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類4 | 豊見城村史第6巻戦争編 |
