金良 大城 トミ(南部避難) 1 全文

ID1170601
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)金良_大城 トミ_「いつまでも続く戦争の傷跡」_1_全文
資料内容昭和19年10月10日、ぬけるような青空が続く、そんな日の朝、数多くの敵機が来襲し、那覇大空襲が始まった。沖縄戦の本格的な始まりであった。
 その年の7、8月になると沖縄にも敵機の来襲を想定して、金良、長堂(大字良長)にも軍隊が駐屯する様になっていたし、残っていた60歳以下の大人達は、壕掘りに精を出すという毎日であった。まだのんびりしたものがあったが、10月10日を境に米軍の攻撃は激しくなる一方だった。

 山原へ疎開する人達もいたが、すでに夫は召集され、私は2人の子供をかかえ、豚や山羊を飼育して生計をたてていた。私達には、金銭的余裕などはなかった。

12月頃になると、首里や那覇からの避難民も多くなり、金良のイリムティーモー壕へと生活も移り、朝夕は家へ帰って食事の仕度をして、子供達に食べさせるという毎日になった。しかし、翌年の4月頃、米軍の上陸が始まり、昼間は飛行機よりの爆弾投下、機銃掃射、流撃弾、夕方は艦砲射撃、夜はめくらうちによる迫撃砲と、質量にものをいわせての攻撃が絶えまなく続いた。
 イリムティーモーの壕も軍が使用するとの事で、追い立てられるようにして同じ部落の屋敷内に壕を掘ってあった〈金城小前〉へと移った。その頃になると食糧も底をつく様になった。軍隊の食糧用にといくつかに分けられて、字の現在の公民館前の広場に山積みされていたのが残っており、監視の目をぬすんでは取りに行き、見つかりそうになって、あわてて逃げたものだった。

 そんな生活も長くは続かず、とうとう部落内も危なくなったので、比較的安全な武富、波平(現糸満市)あたりに避難する様にと字から通達があり、同じ壕で一緒に生活していた。四所帯で朝食を済ませ、子供2人には衣服や写真、書類などを分けて持たせた。私は2枚の風呂敷に毛布やわずかな食糧(かつお節、ラード、味噌、米、デンプン)などを包んで首と腰に巻き付けて、9歳になる下の子の手をとって雨の中をとび出した。
 攻撃は止む事なく、飛行機などが見えると、きび畑や木、ソテツの陰にかくれる様にして進み、どうにか夕方近くには武富にたどりついた。しかし、壕はすでに軍隊が入っており、私達の入れる余裕などなかった。どうにか、空屋敷の屋根のついた納屋を見つけて、そこで20日間ほど攻撃を避けたが、そこもだんだん戦火がきびしくなってきて、知念、玉城の方がより安全との事で、そこへ向かった。途中で会った人達から、より危険と聞きすぐ真壁へと変更した。
 真壁へ行く途中、よほど攻撃が激しかったらしく、道の至る所に死体があり、本当に悲惨なものだった。それに攻撃もまだ続いており、空墓を見つけて入ったりしての避難だった。
 真壁へ着いてもやはり空屋敷の納屋のたきぎの上ですわって過ごすという毎日だった。その間の生活はというと、攻撃の弱まる朝夕に芋を掘って来て煮たり、水を汲んだりして済ませ、昼間は毛布をかぶり、ひたすらじっと黙って過ごした。それでも2、3日外に出られない時などは、芋を煮た水や、さとうきびをかじってのどの乾きをうるおすのであった。又、水は沼水や血で染まったような水を平気で飲んだりもした。その頃は梅雨の時期だった。毎日が雨降りで、晴れていたという記憶がない。 そんな真壁での生活も2週間を過ぎたある日、米軍にとりかこまれて、「出てこい、出てこい。」という慣れない日本語が聞こえてきた。皆、おそるおそる棒に白いきれを巻きつけて、日のあたらぬ白い顔を一層白くひきつらせながら出て行った。
 その際に捕虜になったらと色々なうわさがとび、今まで、子供達に大事に持たせてあった写真や衣服をその場に捨ててきた。その日に捕虜になった人達は現在の名城ビーチの近くの広場にあつめられ、雨の中を一晩放置され、翌朝、中頭の越来へと車で移動した。その日に沖縄戦は終りを告げた。

 越来では空屋敷に20名ほど一緒に住んで、衣服と食事は配給で不自由することなく暮らせたが、まだ戦争は続いていた。
 ある日、近くの畑へ野菜を取りに出かけた際に血に飢えた黒人兵に後からくみしかれ、乱暴されそうになったのを、腕にかみついて、かろうじて難をのがれる事ができた。そんな米兵による婦女子暴行事件は、どこの収容所でも耳にするようになり、男の人達による自警団が組織された。
 越来から渡橋名に移り、1年近くをテント生活でおくったのち、各部落を復興する為に部落へ帰された。金良部落の被害は思ったより多く、各家庭で犠牲者の出ていないのは、ほんの2、3所帯くらいだった。

 すでに夫の戦死を知らされていた私達は、戦後の混乱期を子供をかかえて死にもの狂いで生きてきた。
 あれから36年が過ぎようとしているが、現在でもまだその傷跡はいたるところに残っている。
 孫やひ孫達には、同じ思いだけはさせたくない。一昨年の遺骨収集団に加わり、小禄、豊見城、伊良波などをまわったが、つくづくそう感じずにはいられなかった。
 そして、なお一層二度と再びあの様な出来事はおこって欲しくない思いで一杯だった。

(1981年1月寄稿)
キーワード一般住民体験談、
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.766-768
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
金良
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
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始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類36010606市史編集
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編

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