平良 大城 ヨシ子(南部避難) 1 全文
| ID | 1170581 |
|---|---|
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 南部避難 |
| 資料名(別名) | 平良_大城 ヨシ子_「私の体験は戦後夢にまで」_1_全文 |
| 資料内容 | 私が国民学校の頃、大嶺の航空隊に学校代表で慰問に行ったことがあった。「白ウサギ」の劇や遊戯などを披露し、私も同じ学級の五人と「空の勇士」という劇に出演した。このとき拍手や指笛の喝采を受け、感激で胸がいっぱいだった。 昭和19年、字に武部隊が来て、大きな家や公民館を接収した。私の家も六畳二間とアサギ、馬小屋、倉庫、風呂場などすべてが軍に使われることとなり、屋敷内の一角では部隊の炊事も行われるようになった。その頃、部落の女の人が自殺をし、沖縄の習慣で山に葬られたこともあった。 昭和19年9月頃、武部隊が別のところへ移動して後、今度は海軍がやってきて私の家はまた炊事場となった。駐屯した海軍の土田さんは娘さんなど親子の写った写真を肌身離さず持っていて、それをよく私たちに見せてくれた。 山部隊もその頃字にやってきた。我が家の馬小屋には山部隊の軍馬も二頭つながれ、馬当番の松永、後藤、上地、それに獣医の宮河さんらがよく馬の世話のため家にきた。 昭和19年10月10日の空襲のとき、家にいた谷口さんはそれをみて「友軍の演習だ」と言っていたが、それは米軍機であった。そのとき、機銃掃射があって戸成隊長は、朝風呂の途中でふんどし一本の姿であった。破片が飛んできてみんな逃げた。 平良グスクにのぼって辺りを見渡すと、那覇は煙が立ちこめ、与根の海は二重三重に船が島を取り囲んでいた。その頃の私たちは飛行場や長堂などに動員され壕から出る土運びや海軍の炊事を手伝ったりしていた。私はいつも親しい友達3人で作業や炊事の手伝いなどをしていたため兵隊さん達からは「三羽がらす」などと呼ばれていた。家にはよく陸軍、海軍の兵隊らが集まった。歌の好きな野瀬さんが得意ののどを披露するなど楽しいひとときもあった。 そのほか私は、海軍炊事兵の谷口さんに、ご飯の残りをくださいともらっては、それを4個のおにぎりにし、陸軍の松永さんら4人にそうっと渡すこともあった。海軍の食事が米のご飯だったのに対し、陸軍はイモ飯しが中心でその落差はたいへんなものだった。そのとき私たちは先祖の墓に15名ほどが避難していた。那覇からも私を頼って知人2人がやってきた。 私たちの門中墓の横には山部隊仁位隊の軍馬がつながれていた。あるとき、海軍の服を着けた人が馬のところに向かって行くのでそっと隠れて後をつけていったが見失ってしまった。途中、陸軍の兵隊に出くわしたので、怪しい人を見かけたと、そのことを話したら、「それは大変だ、今日は高嶺から平良へ弾薬を運んでいる」と言っていた。その夜、残りの弾薬を置いてあった高嶺の屋敷が爆破された。あれはスパイだったのか。 部落にいるときには海軍部隊の壕で炊事を手伝わされたりしていた。日を追うごとに砲撃が激しくなり軍の壕で寝泊まりするように言われたが、私はお願いをして家に帰ることを許してもらった。 ある日、隣組の1組の婦人たちが部落内で馬の草刈りをしていたので私もそれに加わっていた。そのとき、私がケガをする夢を見たと成田さんが話した。草刈りを終え、家に炊事のため戻ってみると、なんと、私の家は焼け、離れの風呂場だけが残っていた。夢は正夢だったのか、私はそのとき瓦礫の中で大きな釘を踏んでしまい、右足にケガを負った。 その3日後、今度は松永さんが「やられた」と叫びながら駆け込んできた。「誰が」と聞くと、松永さんは指を3本立てて見せるだけで言葉がなかなか出てこない。やっと口に出た人の名は、あの親しかった宮河さん、後藤さん、上地さんの3人だった。 あるとき、首里から松永さんが手榴弾を持って帰ってきた。私はこれがあれば死ねると思い、「ちょっと見せて」と言って手榴弾を奪おうとした。しかしすぐに松永さんに「何をするバカヤロー」と怒られ、逆に「生きてくれ」と諭された。 その日の夜に、私たちは南部へと出発した。白い道には無残な遺体が多数横たわっていた。しばらくしてある一軒家で戸成隊に遭遇した。戸成隊の兵隊たちは南へ退がろうとする私たちとは逆方向に向かおうとしていた。「これ以上は進めないよ」と私が言うと、「これは命令なんだ」と出発していった。 私達は足の向くまま、なるだけ木の生い茂る山の方向に向かった。いつの間に数人の字保栄茂の人達も私たちに着いてきた。やっと古いお墓を見つけ、中に避難することができた。中には先客の荷物が置かれていた。その日は墓の中で夜を明かした。すると翌朝、拳銃を持った兵隊が墓にやってきて「今から負傷兵を連れてくるのでお前たちは出て行け」と言った。私はとっさに「私も兵隊です」と部隊名と隊長名を言うとその兵隊は去っていった。みんなは泣くに泣けない表情だった。私はこのときの勇気と機転がどこから湧き出たのか、今でも不思議である。 やがて1歳になるいとこがあまりのひもじさに泣き出した。仕方なくその子を抱いて墓の外に出ようとした瞬間であった。目の前に見える松の木に子供の手がいきなり飛んできた。すぐ近くで砲弾が炸裂したのである。私は「アキサミヨー」と叫んだ。抱っこしていたいとこが「うーっ」と唸るので、よくみるといとこの首にも破片が刺さっていた。私も気が動転して気が付くと右手に破片のかすった傷が赤く残っていた。そのとき墓の外に出ていたふたりの人と、入り口のほうに荷物を取りに行こうとした3人の人がやられ、墓の入口はそれらの人達の死体がまるでふさぐように折り重なっていた。本当にあっと言う間の出来事だった。亡骸は胸や足をもぎ取られ無惨な姿であった。6名が亡くなった。このとき一緒にいた保栄茂出身の母親は一人娘を失い半狂乱の状態だった。その日、もう部落に帰ろうと皆で決意、亡くなった娘も一緒に連れて行くといって私から帯を借り、その遺骸をおぶった母親の姿が痛ましかった。 私たちは豊見城村に戻る途中、糸満で捕虜となった。村内字伊良波で一夜を過ごしさらに翌日は越来に移された。越来では一軒の家に約40名が押し込められた。 私は越来から嘉間原にあった病院に通い、当時そこで通訳として働いていた字出身のハワイ帰りの人について雑用係として働いていた。そこでは米軍の軍医3人と沖縄出身の大宜味先生、それに看護婦らが忙しくしていた。病院のすぐ下側には本部があり、横にはPW収容所もあった。その頃、収容所内のほとんどの人が栄養失調症であった。さらに病院の横には墓地が造られ、毎日、新しい墓標がどんどん立っていった。墓地には穴掘り人が5人ほどいて、1つの穴に4~5人同時に埋葬していた。身内がいる場合にはその身内が穴を掘り埋葬していた。私も越来の収容所内で祖母と叔母を亡くした。栄養失調だった。 昭和20年12月、いよいよ豊見城村に帰ることになったが、着いたのは自分たちの部落ではなく座安、渡橋名であった。私も母や兄弟達と無事戻れたことを喜び合った。収容所生活を送っていたとき、渡橋名にあった学校の舞台の下で不発弾が爆発し、9人の男の子が亡くなった事故もあった。私の弟も2人、そのときの事故で亡くなった。せっかく戦場を生き延びたのにと悔やまれてならない。 私たちは収容所から平良に通っては、家を建てたり、芋掘りをしたりと共同作業に精を出した。私の屋敷内にもツーバイフォーが2軒建てられ、そこに親戚など数世帯が寄り添って生活をはじめた。この頃、近くのトドゥルチガー(轟井)には米軍の水あげの兵隊らが駐屯していたので、なるだけみんな固まって家を建てるようにしていた。 そんなある日、みんなで公民館を建て、作業を終え家に帰ったときのことである。ドスンと大きな音がするので行ってみると今建てたばかりの公民館の屋根がつぶれた音であった。たまたまその中に3人が下敷きになったが、幸い全員這い出してきて無事だった。それくらい、当時の建物は急ごしらえで、しかも材料も貧弱な状況であった。 平良部落はこの沖縄戦で全滅11戸、家族から犠牲者を出した世帯が50戸、そのほとんどが親や子供を失った。犠牲者の出なかった無事な世帯は3戸だけである。 部落の周囲に散らばっていた遺骨を集め、海の見える部落の高い場所に「万孕の塔」を建立し、年2回(旧暦3月と8月)部落で弔っていたが、その後は中央納骨堂に転骨された。 私は、我が家にいた日本兵で後藤さんの夢を見たことがある。「生きているあなたがうらやましい。私を北海道へ帰してくれ」という夢であった。どうすればよいか分からず、重箱をお供えして祈った。3日後、後藤さんのお礼の言葉を夢で聞いた。 (2001年 寄稿) |
| キーワード | 一般住民体験談、日本軍慰問、10.10空襲(十・十空襲)、山部隊仁位隊、日本軍による壕追い出し、越来の収容所、収容所で亡くなった人の埋葬、渡橋名で不発弾爆発事故、轟井(トドゥルチガー・トゥドゥルチガー) |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.760-764 |
| 出典1リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 平良 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
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| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類3 | 6010606市史編集 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類4 | 豊見城村史第6巻戦争編 |
