平良 大城 蒲戸(南部避難) 1 全文

ID1170571
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)平良_大城 蒲戸_「戦時下の区長」_1_全文
資料内容紀元二千六百年祭について
 字平良では紀元2600年(昭和15年)を記念して、部落内のデークガー(井泉)を改修した。私は当時、まだ部落の役員ではなかったので、その詳細まで分からないが、おそらく各世帯が金銭や労力を出し合って対応したと思う。
 デークガーはもともと湧泉に樋を付けた樋川(ヒージャー)で、部落民の生活用水として利用されていた。記念事業ではそのデークガーの前面をコンクリートの壁できれいに覆い、樋口を新たに取りつけた。壁の中心には「二千六百年記念」の文字が彫り込まれた。書は一豊(豊見城第一国民学校)の宜湾朝喜先生の手によるものらしいが、私はこれまで部落内の〈本山〉の長男(教員だった)だとずっと思っていた。各世帯でコンクリートの材料となるバラスを持ち寄ることとなり、一世帯でバーキ(竹製のザル)の幾ら分という具合にそれぞれが岩や石をみずから砕いてきて部落に提供していた。またコンクリートの中には鉄筋は使われず、大和竹が骨組みとして使用されていた。

 村葬について
 字平良出身者の最後の村葬は昭和18年ごろだった。私の親戚にあたる〈前ヌ新門〉の叔父が戦死し、遺骨となって久留米から那覇港に引き揚げてきたのを私と大城〇〇〇さんとで引き取りにいった。私が区長になる前年のことだった。
 村葬は村役場の忠魂碑前の広場で行われ、部落のほとんどの人が参加した。村長をはじめ有志、そして遺族関係者が焼香を行っていた。

 日本軍の駐屯
 最初に部落内に入った部隊は武部隊で次に海軍だった。どの部隊のときだったかはっきりしないが、軍がやってくるという連絡があって、私はサーターヤーから炊き出し用の大きなハチメー(八枚)鍋を手配した覚えがある。武部隊は部落内の瓦葺き家5~6軒に分宿、〈大屋〉の後ろには兵舎も造られ、さっそく部落正面のウーグスクモーの西側に壕を掘り始めた。
 その次に入ってきた海軍の橋本隊、戸成隊。これらも最初は〈門(ジョー)〉や〈前ヌ東新屋〉など数軒の民家に分宿した。橋本隊はウーグスクモーの南斜面に、戸成隊はクンジャモーにそれぞれ壕を掘り始め、駐屯以降穴掘り作業を繰り返す毎日だったが、海軍の壕掘りに関しては地元住民の動員は少なかった。
 以後、区長だった私のところへはさまざまな用件で兵隊らが行き来するようになった。部隊の炊事の手伝いに人を出してくれというので、部落の若い女性らに掛け合って協力をお願いした。また馬車を所有していたため、兵隊が裏山や御嶽周辺で切り出した松の木の運搬作業が私のところへよくまわってきた。部落内には3~4人の馬車ムチャー(馬車持ち)がいたが、ほとんど軍に使われっぱなしだった。

 10.10空襲(十・十空襲)
 そのような時期、那覇の街が大空襲にあった。平良にはこの空襲による被害はなかったが、初めて見る敵機や空襲の物凄さを見て、近々沖縄が戦場になることを実感した。私たちは平良グスクに昇って、那覇が燃えるのを部落に駐屯していた武部隊と一緒に見ていた。
 空襲の後、小禄村の鏡水の人達が知り合いを頼って部落内に避難してきた。やがて部落周辺で畑作業も少しずつ行うようになり、長い期間、部落に滞在する避難民もいた。
 10.10空襲(十・十空襲)の後、私の長男、〈東川端〉、〈前ヌ門前〉の人など部落から五人ぐらいを防衛隊に送り出したとき壮行会を行った。おそらくこれが部落で行った最後の出征見送りだったと思う。

 徴用作業
 10.10空襲(十・十空襲)の前、読谷や仲西飛行場などへの徴用作業に平良部落からも大勢の人達が駆り出されたが、このような村外作業の場合は村役場から通知による連絡があった。主に戸籍係が担当していたという記憶である。字高安の座安〇〇〇さんが直接の係だった。
 通知には派遣対象者の名前と作業先が書かれており、私のもとへ直接届けられた。通知の名簿に載っているのは50歳近い年配の男性が多く、一回につき五?六人が割り当てられていた。平良は小さい部落なので十人とまではいかなかった。
 区長とはいっても私は当時まだ30代、自分より年上の人達に徴用の連絡を行うのは非常に気をつかった。役場からの通知で名前があった旨を説明し、作業に出るよう伝えていた。作業はだいたい一週間から15日ぐらいの期間、現地泊まり込みというのが普通だった。
 またその頃、村内においても伊良波、我那覇、上田、高安などで戦車壕の構築作業が頻繁に行われていたが、これらは連絡を受けた私が、部落内から作業員を選び出しバーキ(竹籠)とショベルを持って現場まで連れて行った。

 供出
 供出は月に2~3回軍から連絡があり〈徳前勝連〉の前で行っていた。供出は順番制や交替制でなく、全世帯からもれなく出してもらった。サツマイモ、野菜などの農作物が主であった。
 部落の書記と一緒に、各世帯が所有する畑の規模などを考慮して、上から指示のあった供出の全体量を割り当てていた。困るほどの量を割り当てすることはなかったと思うが、それでも割り当てした数量を出せない家もあった。
 あるとき軍から馬に与えるから大豆を多めに出すようにと言われたことがあった。しかし当時大豆はどの家もなかなか量を出してくれなかった。「区長ならどの家が多く作っているか分かるだろう」と、再度軍から問いただされたときには断るわけにもいかず、非常に困った思いをしたこともあった。

 山原疎開へ
 山原疎開は役場から話があった。しかし、どの家も乗り気ではなく、疎開へは行かせたくないようだった。
 「区長は自分の家族からは出さないで、他所に疎開するように言うのか」と言う人もいて、まず私から2人の男の子をこの疎開に参加させることにした。結局字から十数名が行くこととなった。その一団に食糧品を持たそうと部落共同で芋を掘り、砂糖も味噌も準備して〈南勝連〉で荷造りをし、山原行きのトラックに託して送った。しかし送り先の大宜味の国民学校が空襲にあったらしく、これらの荷物は結局疎開団の手には届かなかったと、あとで聞いた。

 新垣へコメを運搬
 沖縄戦が始まってしばらく経ったころ、字高嶺の〈前ヌ下〉にいた網谷少尉からウーグスクモーの壕にある砲弾をユダマ(平良丘陵山頂部分)の壕まで移し運ぶため部落民を集めるよう命令があった。私は各壕を回り、若い男女ばかり数十名をかき集めた。どの家族がどの壕に避難しているかは区長だからだいたいは知っていた。
 ときどき照明弾が上がる中を運搬作業は夜を徹して行われた。弾薬運びが終わった後、網谷少尉が引き続いて作業に参加した全員を〈新川端〉の畑に集めてそこで竹槍訓練を指導したこともあった。
 5月末ごろのことであった。役場からだったか軍からだったかははっきりしないが、人夫動員の連絡があり、私はまた部落民の避難していた壕をまわって人を集めた。当時、部落内に残っていたのは女が多く、男は50歳近くの年輩か、16歳から下の若者しかいなかった。私はそのなかから女を中心に若い男女十名ぐらいを引き連れて夕方、字豊見城に出向いていった。
 字豊見城の部落入り口にあった陸軍の壕に到着するとここから軍のコメを真壁村新垣へ運搬せよとの言い付けであった。コメは3人一組で運んだ。まず2人で米俵一俵を棒に吊るして担ぎ、疲れたらもう1人と交替した。この行為を何度も繰り返しながら目的地まで担ぐのであった。
 豊見城から新垣までは県道(現県道7号線)を通って行った。米俵は一俵の目方が100斤(60キログラム)ほどあり、重さが肩にずっしりと食い込んだ。しかも夜間、ただでさえ遠い距離がとてつもなく長く感じられた。南山周辺に差しかかったときのこと、字渡橋名から動員された人達だったが、艦砲で1人がやられたらしく「自分たちはこのまま部落に戻るので伝えてほしい」と私たちに言い残してその場を引き揚げていった。運んできたコメはそのまま道沿いに除けて置いてあったが、私たちが新垣に届けて帰るころには無くなっていた。
 新垣に着くと、無人の屋敷に既にコメが山積みされていて、そこにコメを積み置くと、私たちはさっさともと来た道のりを部落へと戻っていった。重さに耐えながら必死の思いで届けた軍のコメだったが、新垣では兵隊や係がとくに待ち受けているというわけでもなく「ご苦労」の労いの言葉さえなかった。
 平良の部落民のコメ運びはこの1回きりで、幸いケガ人はなかった。

 部落脱出
 5月も末に近づくと、部落前を通る県道は南へ下がろうとする大勢の避難民などで夜にはいっぱいになった。そのような時期、玉城方面に避難するようにと村役場から連絡が入った。私は各壕をまわってそれを伝達した。さっそく身軽な世帯からつぎつぎと部落を脱出していった。6月に入るすぐ手前のことであった。
 ほとんどの人達が部落を出ていったが、〈南ヌ東勝連〉の屋敷には部落内に残って死んでもいいという年寄りなどが集まっていた。
 私の家族は子供が多かったため、食べ物などの準備や身支度のため出発に手間取っていた。そうしたら東風平の上田原付近で敵の進攻に遭遇し、逆戻りしてきたという人達が部落に帰ってきた。明日あたりにも部落へ迫ってくるらしいとのことである。それを聞いて私たちはヘーカタ(南部方面)へ避難することにした。たまたま一緒に行動した〈前ヌ東勝連〉の嫁が字波平の出身だったのでとりあえずそこへ向かうことに決め、隣近所4世帯で部落を発つことにした。

 南へ避難
 私たちが出発するときには雨が降っていた。武富部落のハツドーキヤーに立ち寄ると、中にはすでに防衛隊が数名入っており、武富には隠れる壕はもうないと言っていた。私たちはそのまま隣りの波平部落へと進み、部落内のハツドーキヤーの前にある瓦葺きの家でとりあえず休息をとることにした。抱えてきた荷物を降ろし、家の中でムシロを敷きはじめようとしたちょうどそのときだった。突然、艦砲が「バーン」と飛んで来て間近で炸裂したのである。
 私はとっさにすぐ隣にいた〇〇(息子)の身体をつかまえて外へと飛び出した。そしてすぐに家の中に戻り、まだ5歳だった長女〇〇と母を連れ出そうとしたが、母は鼻や手に大ケガをしていた。このときの爆発で4世帯のなかから一度に13名が亡くなった。私も六男、七男の2人の男の子を亡くした。
 悲しむ暇もなく急いでこの屋敷を離れ、ケガ人の手当のため〈東前ヌ勝連〉嫁の実家である〈新西門〉に駆けつけた。すでにその馬屋には字饒波の人達が避難をしていた。
 翌早朝、〈新西門〉のお祖父さんが壕を出て家の様子を見にやってきた。「昨日の晩、ハツドーキヤーの前で子供2人を亡くした」と話すと「葬ってきてあげよう」と言ってくれたので2人で現場へと出掛けた。
 家の中あちこちに13名がばらばらに倒れていた。前ヌ東勝連の〇〇〇〇だけは手がピクピクと小刻みに動きまだ息があったが、目ン玉二つが飛び出ていてどうにもならない状態だった。「〇〇〇〇ヨー、サッタルバーイ(やられたのか)」と呼びかけたが返事もなにもなかった。埋葬するにも2人では手が足りないので、私はとりあえず年寄りたちを字阿波根の墓に避難させ、誰か手を貸してもらえる者を呼びに平良部落へと戻った。たまたま〈南勝連〉の青年が部落に残っていたので、理由を説明し、埋葬するのを手伝ってもらった。13名はその瓦葺き家の前の畑に世帯ごとに埋葬した。
 それから私たちは、阿波根のフチヤマ壕という日本軍の掘った壕へ移動した。そこに着いてみると平良の人たちが大勢避難していた。
 知り合いもたくさんいたし、隠れるのに都合のよさそうな壕だったので「ずっとここにいよう」とお互いで決めていたが、しばらくして壕の近くに米軍がやってきたという情報が入り、壕から脱出する者が続出した。仕方なく私たちも、壕を出て糸満へと向かい、さらにそこから海岸沿いに名城へとたどり着いた。
 名城では身を隠す適当な場所が見つからず、やむなく大きな樹の下に隠れることにした。私たち家族のほかにも大勢の人達がこの大木の蔭に寄り添うように固まっていた。
 しかし娘がしょっちゅう場所を移ろうと泣いてせかすものだから、そこから少し離れた大きな岩の下に落ち着くことにした。するとこれまで私たちのいた大きな樹のあたりに艦砲が炸裂し、そこらへんにいた大勢の人達がやられてしまったのだった。
 私たちが次に移ったところは、岩の下といっても全員が隠れ込む広さがあるわけでもなかった。ショベルなどの道具も持っていなかったので、せめて木の枝葉で前を覆う程度のことしかできなかった。同じ岩の裏側には保栄茂の人達が立派な穴を掘り、身を隠していた。羨ましがっていたその矢先のことである。今度はこの人たちのすぐ目の前に直撃弾が落ち、小さな子が亡くなったようであった。
 私たちは続けざまに九死に一生を得、本当に運のよさをつくづく感じたのだった。

 捕虜に
 しばらくして前方から米軍が「デテコイ、デテコイ」と言って近づいてきた。もうどこにも逃げ場はなく一瞬途方に暮れていると、つぎつぎと周囲の人達があちらこちらから這い出てくる。私たちも恐る恐る出て行くと初めて間近に見た上半身裸の大きな米兵にさらに度肝を抜かれた。
 外に出て道に目をやると数え切れない人数の人たちが糸満方面に向かって歩いていた。米兵からとくに迫害を受けている様子もない。このまま部落に戻れるのではないかと思った私は「家に帰ろう」と家族に切り出して、そのまま行列の波に加わった。そして懐かしい我が家を頭に浮かべながら歩みを進めた。
 しかし糸満に到着するとそこで行列は止められ、何がなんだか分からぬうちに私たちは男と女に分けられてトラックで伊良波へと連れていかれた。そこでも女子供と男たちは別々に収容された。
 伊良波に着くと、ハワイ帰りの〈辻ヌ前〉の婿(津嘉山の人)が米兵の通訳をしていて、荷物をひとまとめに置くようになどと指示をしていた。
 翌日さらに女たちは野嵩のほうへ、私は具志川のトゥルーガマーへと送られた。着いたその日も、またその翌日も一切食べ物を口にすることができずとにかくひもじい思いをした。

 収容所生活
 具志川トゥルガマーに移された私はさらにそこから安谷屋、コザ前原と転々とした。
 ある日、越来に叔父がいるという噂を聞き、そこを訪ねていくと、山原疎開に送っていた私の二人の息子達がどうやら安慶田のほうに来ているらしいと、叔父が教えてくれた。さっそく安慶田に出掛け、息子たちと再会し、コザに連れて戻った。野嵩に送られた家族はそこから古知屋にまた移されたという。
 生き残った家族全員が再会を果たすのは豊見城に戻ってからだったが、そのときの嬉しさはたとえようのないものであった。

(1999年10月聞き取り)
キーワード一般住民体験談、区長、供出、10.10空襲(十・十空襲)、山原疎開、紀元二千六百年、紀元2600年、デークガー、村葬、忠魂碑前の広場、武部隊、海軍橋本隊・戸成隊、ウーグスクモー、クンジャモー、
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.754-760
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
平良
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類36010606市史編集
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編

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