高嶺 大城 清善(南部避難) 1 全文

ID1170561
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)高嶺_大城 清善_「住民より先に逃げた兵隊」_1_全文
資料内容昭和19年ごろから日本軍は沖縄に駐屯した。最初に字にやってきたのは武部隊で、壕掘りから始まった。その場所はぼくの家のすぐ真上だったので、屋敷の中まで土が入ってくることもあった。現在の豊見城団地にはかなり大きな壕があって武部隊が台湾へ移ったあと、今度は山部隊(山3480)が駐屯した。今の松岡医院のある辺りから北分譲自治会にかけての場所だった。

 戦争が始まった昭和16年12月、ぼくは小学6年生だった。その頃の教育は鬼畜米英という反米思想一色で、英語も使えず、さらに敵性語の言葉もだめということで、ストライクやアウトなどの野球用語も別に言い変えて使っていた。19年前半までは伝わってくる戦況も勝ちいくさばかりで「ヒヤない」盛り上がっていた時期だったから、壕掘りをやっていても、あまり苦労だとは感じなかった。

 このころ、集落前の轟川の水を軍が使うということで、手伝ったことがあった。下流(今の大丸土木がある近くのカーブ)辺りまで、川の両サイドの石垣を崩して拡張した。水はけを良くするという目的だったのだろう。作業は部落民総出で行われ、ぼく達はバラスワヤー(砕石)をさせられた。軍に対する最初の協力だった。

 昭和19年の10.10空襲(十・十空襲)は突飛な出来事だった。この時期、ぼくらはユダマムイ(現在、村の水道タンクがある所)で壕掘り作業の最中だった。空襲の際、敵機が墜落するのも目撃した。13機ぐらい落ちたと記憶している。このとき、ぼくは既に小学校を卒業しており、この年の4月頃からは仲西のほうに徴用で出かけたりもしていた。その後は小禄飛行場にも行った。
 小禄飛行場周辺には対空高射砲などが装備されていた。高射砲というのは、砲身が長く、弾が遠くまで飛ぶように出来ていたが、10.10空襲(十・十空襲)の時にはあまり効果はなかったようだ。一方、高射機関銃のほうは命中率が高かった。その高射機関銃は、ぼくらが小禄飛行場の基地設営に参加した時に作業中だった装備で、あのとき少しでも協力していて良かったという気持ちを抱いたことがある。

 学校卒業後は、ほとんど徴用であちらこちらに駆り出される毎日だったが、ちょうど徴用のない日に、家の芋掘りに出かけた時、日本軍の飛行機が与根の干潟に撃ち落とされるのを高台の畑から目撃したことがあった。あとで聞くところによると、米軍のB24が雲の上を飛んでいるのを知らずに、偵察から戻った日本機が小禄飛行場に降りようとしたところを撃ち落とされたのだと聞いた。そのときの飛行兵は泳いで与根にあがったらしい。また、ぼくらがガジャンビラの高射砲陣地に作業に出かけた時のこと、お昼時間にものすごい音がした。雷でも落ちたのかとびっくりして、音がした方向をみると那覇港のど真ん中に大きな爆弾が落とされ爆発した瞬間だった。空を見上げると一機の米軍機がずっと上空を飛んでいた。港内には日本の軍艦が停泊していたが幸いあたらなかった。敵機を見たのは10.10空襲(十・十空襲)以来このときが2回目だった。それから間もなくして、周辺の高射砲がドンドンと大きな砲音を鳴らし応戦したがその敵機を撃ち落とすことはできなかった。

 昭和20年3月下旬、いよいよ敵の沖縄上陸が間近となった。敵が具志頭港川に上陸するという情報もながれた。しかし日本軍は壕の中に大砲を備えつけていたので、移動も簡単にはできなかった。日本軍が、50センチぐらいの大砲を壕の外に引っ張り出しては、与根方向にむかって10発ぐらい撃ち込んだあと、壕の中に逃げ込むのをみたことがある。しかし米軍のお返しは何十倍とかえってきた。

 10.10空襲(十・十空襲)から上陸までの間に、部落内で亡くなったのは、ハワイに行っておられる〇〇〇さんの家族である。高嶺で空襲でやられた家は2~3軒くらいだが、残りのほとんどの家屋は進撃してきた米軍に焼かれ、戦争がおわった時点で残った建物はたったの3カ所ぐらいであった。
 高嶺には高射砲の装備はなかったが、金城〇〇〇さんの家の後ろの山と、今の団地辺りに機関銃部隊が陣地を構えていた。でも小さいから力はなく、近くに飛来してきたときだけ撃っていた。しかしやればやるだけ、米軍のお返しは何十倍ときた。結局、米軍は北谷方面から上陸したが、ぼくらは食糧や砲弾運搬などに駆り出されていたからそれ以後の情報はほとんど分からならかった。

 長男だった兄が防衛隊へ召集されたのは昭和19年6月頃である。兄は昭和2年生まれだった。

 一番想い出に残っているのは防衛隊に出征する前日のことだ。ぼくらはこの6月頃には、現在の豊見城団地C棟の後ろ側、豊見城小学校の敷地辺りに避難していた。首里がほとんど米軍に制圧されて、日本軍が南へ退却する頃のことだ。兄は親のところで一泊してのち、「米軍がここまで来たら戦争は負けいくさだから、どこにも行くな」と言って高嶺を出発した。ただ島尻に行くということだけを告げ、それっきりどこで亡くなったかも分からない。

 兵隊が豊見城にまで後退してきたのもこの5月末頃からだった。包帯マチャーやびっこをひいた負傷兵、その次には食糧をかついだ者などが見られるようになった。そのころから字民のほとんどは既に集落を脱出し始めていたが、ぼくらの家族は一番最後まで残っていた。近くにいた山部隊の兵隊らの姿も既になかった。ぼくらといっしょの壕にいた長男おじさん、二男おじさんの家族もぼくらより一晩先に壕を脱出した。

 現在の豊見城小学校の後方に、ハルマーイのチジと呼ばれる松林の高台があった。ここは琉球藩時代、農作物の作付け状況を見回ったといわれる場所で、ぼくはそこから米軍がやってくるのをしばらく待っていた。米軍のいくさはどういうふうにするのだろう、という好奇心からきたものだ。やがて米軍が溝原、金良辺りから進撃してくる様子が見えた。それから急いで戻ってみると、壕内にはぼくの家族だけが残っていたのである。

 そのあと、ぼくらは阿波根へと避難した。そこで日本軍がつくった壕に入ったが、慌てて逃げ出したため、食糧を持ってないことに気づき、今までいた壕へ食べ物を取りに戻ることにした。父と2人、その夜、壕に戻ると、ぼくらがいた壕の周辺には既に米軍がたくさん陣取っていて近寄ることが出来なかった。仕方なくその場を引き返したが、途中、日本軍が投げ棄ててあった米俵を見つけ、親子で担いで阿波根の壕で開けてみるとそれは玄米であった。このままでは食べれないということで、阿波根のムートゥヤー(宗家)まで行って一升瓶を取ってきて、その一升瓶で米をついた。

 ムートゥヤーの近くで、先に壕を出た長男おじさん、二男おじさんの家族と父が再会することができた。このとき、ぼくらの家族は両親に、姉の子、兄弟6人の10人。これにおじさんたちの家族と合流して、21名の集団であった。その後すぐに、ほかにいい壕があるからということで私達はその壕に移った。6月1日から2、3日にかけてのことである。そこではなんとか米も炊いて食べることができた。

 阿波根では日本軍の姿は見かけなかった。2~3日しているうちに、またパラパラ銃撃の音が近づいてきた。ぼくらの隠れていた壕は南向きの急斜面にあったので、そう簡単に見つかるものではなかったが、パラパラという銃声が近くまで聞こえるものだから、ぼくが外に出てみてみると、米軍は翁長までやってきていた。ぼくは「マタ、ウママディ、チョールムンナ(もう、ここまでやって来たのか)」と叫んでしまった。ここには長らくはいれないということになった。雨降り続きだったため、避難する際は、日本軍が置いていった毛布で小さい子を巻いて阿波根の壕から脱出した。

 ぼくらはそこから国吉へと向かった。しかしそこも壕に入りきれないくらい避難民で一杯だった。周辺には血だらけの死骸がごろごろと横たわっていた。やむを得ず民家に身を寄せることにした。古い大きな木のある広い屋敷の民家だったが、家の中には入りきれないので木の下で暮らしていた。

 2~3日すると、砲撃が激しくなり、ケガ人もたくさん出たので、急遽その場所をとび出すこととなった。しかし行くあてもない。真壁の近くだと言っていたが、ぼくらは近くのきび畑の中へと逃げこんだ。弾が飛び交い、米軍の戦車は火を吹き出しながら進撃してくる。急いで壕を掘ったが、なにしろ人力だし、わずかな期間ではたいした壕も掘れない。それから大急ぎで福地辺りまで逃げた。しかし、ここもぜんぜん隠れる場所がなく再度引き返した。真栄里を降り、現在の国道331号を通って糸満までたどり着いた。この頃は米軍の戦闘部隊も通りすぎたあとなので、辺りは案外静かだった。そこからさらに糸満小学校の裏側の高い所に移り、そこで1泊した。12日の晩のことだ。印象に残っているのは、このとき1人の子が「ヤーサンドー(ひもじいよう)」と泣き出し、そのとき兼城方面から機銃射撃された。幸い、みんな横になって寝ていたから、ケガ人は出なかった。
 6月13日、ぼくらは工事中の報得橋を渡り、潮平の下側に差しかかったところで威嚇射撃の米軍に挟まれ、ついに捕まった。時間は早朝6時頃。字高嶺の家を出て12~3日目のことだった。

 そこからぼくらは潮平の収容所に連れて行かれた。父が軽いケガをしたくらいで、それ以外の21名は皆元気だった。収容所はケガ人が多く、包帯を巻いている人たちがたくさんいた。同じ字の人がいないかとさがしたが、会えたのは〈徳東り〉のお母さん1人だけだった。
 そこから、ぼくらは水陸両用舟艇に乗せられて、北谷海岸まで行き、そこから中城の安谷屋収容所に移された。
 安谷屋は裕福な部落にみえた。大きな家が残っていたので、ぼくらの家族を含め7世帯が一緒に入った。その家は被害が少なかったうえ、庭に食べ物を詰めたかめが埋めてあったのでそれを取りだして食べた。安谷屋にいる時、1歳6ヵ月になる弟が亡くなった。栄養失調による死亡だった。
 収容所では、ぼくは衛生班、父は倉庫係をした。ぼくらより2日あとに安谷屋にやって来た人たちの話だが、ぼくらが国吉を出たその日に、国吉付近でバクナー中将が戦死したそうだ。そのバクナー中将が殺された腹いせなのかどうか知らないが、米軍はこのとき、そこにいた人全部を集め、男女に分け、男は全部殺したということを聞かされた。赤ん坊も、おしめを外して男だと確認してあとに。
 それから、金武のギンバルという所へ移された。そこで姉の二女で1歳になる姪が亡くなった。母親の母乳が出ないための栄養失調だった。
 金武には2ヵ月ぐらいいた。昭和20年11月に渡橋名の収容所へ帰ることができ、そこで3~4カ月ぐらい生活した。字の人たちにも再会することができた。ぼくらは、規格家を建設する人と、食糧班とに分けて作業していた。

 昭和21年6月頃ようやく字に戻った。高嶺は字内に規格屋を11棟つくり、2~3世帯がそのなかでいっしょに暮らした。小さな家で狭かったが、これが戦後の字のスタートだった。その後、それぞれの住宅を共同作業でつくっていった。衣類も食糧もすべて配給だった。配給は、たしか昭和24年頃まで続いたと思う。

(1996年9月聞き取り)
キーワード一般住民体験談、武部隊、山部隊(山3480)、野球用語禁止、壕掘り、轟川(トゥドゥルチガー)、ユダマムイ(ユダマグスク)、10.10空襲(十・十空襲)、徴用、与根に墜落した飛行機、ガジャンビラの高射砲陣地、高嶺で戦後残った屋敷は3軒ほど、兄が防衛隊へ、負傷兵、ハルマーイのチジ、阿波根・国吉・真壁・真栄里・糸満・報得橋・潮平、潮平の収容所・北谷海岸・中城安谷屋収容所・金武ギンバル・渡橋名
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.749-754
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
高嶺
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類36010606市史編集
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編

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