高嶺 大城 菊(南部避難)1 全文

ID1170551
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)高嶺_大城 菊_「戦争と食料難」_1_全文
資料内容現在の豊見城中学校に村役場と隣り合って、村立女子青年学校があった。私は卒業間近だったが、戦時下で、男の人たちが軍隊に召集されて少ないため、はじめてではあるが、女の子を雇ってみたいからという役場からの話があって、先生に推薦されて、そこで仕事をすることになった。

 10.10空襲(十・十空襲)の時、私はいつものように、朝7時半ごろ家を出た。その途中で、空襲警報が発令された。那覇の上空を見上げたら、飛行機がたくさん飛んでいた。最初は、友軍かなあと思った。そしたら火を吐いているし、またサイレンの鳴り方もかわっていた。しょっちゅう鳴り続いていたから、ひきかえして、平良部落を通って、〈前ヌ上高良〉にはいった。そこのお母さんと抱きあって、2人ともぶるぶるふるえていた。「うちもみんな学校に行ったよ、どうしようか」と言っていた。しばらくして爆音がやんだので、自分の家に帰った。家族は、みんな非常袋を持って壕にいた。

 私の家には日本軍がいた。字内にも5~6軒ぐらいに日本軍がいた。部落内には兵隊が多かった。〈前ヌ下毛〉には、中隊長がいた。私のところには見習い士官3人と当番兵3人がいた。大きな家には、将校等の身分の方が泊まっていたと思う。
 ンマイー(馬場)には幕舎があった。幕舎は、武部隊だったと思う。朝は起床ラッパが鳴った。その後、台湾に移るときに、家の後ろに大きな壕を掘ってあるから、「ぼくたちが行ったら使ってもいいよ」と言われた。

 畑には、芋や野菜がいっぱいあったけど、取りに行くのが簡単ではなかった。10.10空襲(十・十空襲)以後からひどくなって、山羊やにわとりは全部兵隊にかっぱらわれた。あとはもうなんでもかんでもとられた。
 食糧難だった。当番兵が、くわず芋をさと芋と思って、炊事当番に料理させて食べさせ、あわをふいたという話もあった。

 空襲がひどくなったのが3月23日からであった。お彼岸の時で、春分の日だ。当時は何もかも手作りだった。うちでも豆腐や餅とかいろいろ作って、お彼岸をやろうとしたとき、また空襲が来て、すぐうしろの壕に避難して彼岸もできなかった。この壕は親戚や知人等約30名ぐらい入っていた。
 10.10空襲(十・十空襲)の後、家にいる人は、壕掘りで土運搬をさせられていた。

 米軍の上陸のことは、どこから情報がはいったかはよくわからないが、うちの父と伯父さんが情報を聞いてきてから、字で一番先に南部に避難することになった。4月のはじめのことだった。両親、伯父さん、妹など8人。各自非常袋に鰹節、米、みそ、貯金通帳等重要書類はほとんど持って行った。
 最初は賀数入口の家ですごしていた。そこから、与座、大里に行った。大里で、首里からおりて来た兵隊で、両足のない負傷兵を見た。兵隊はいっぱいいたけど、この兵隊はとくにケガがひどかったから印象に残っている。
 そこから新垣、真栄平へ行った。やっと壕を見つけて入ると、友軍に「ここは軍が使うから出なさい」といわれた。兵隊にはさからえないからその壕を出た。あとは、道をさまよい、他のグループがはいっている壕に、無理にお願いして入れてもらった。
 もう幾日ぐらい、壕に入っていたかおぼえていない。途中まで、〈下毛〉のおばあさん達もいっしょだった。毎日このまま道をさ迷っていては大変という事で、父と伯父さんが妹と私に、「軍で働くようにしなさい。もしかしたら助かるかもしれない」と言った。私たちは妹と2人山部隊へ行くことになった。軍の壕で負傷兵の手当てをしたり、水くみに行ったりした。壕の生活では、負傷兵の5~6人しか覚えていない。1人はとても重傷だった。そこで〈下毛〉の〇〇〇さんに会った。〇〇〇さんは正看護婦として働いていた。

 食べ物は、小さなおにぎりがあったけど、食べたらトイレに行かないといけない。だからあまり食べなかった。 毎朝、みんなの水筒を集めて、井戸に水をくみに行った。ある朝、水くみに行った時に、字平良の大城さんという人に会った。その人は食糧班の仕事をしていた。その人から私と妹の事を聞いた父は、伯父さんと一緒に私に会いに来たそうだが、水くみの時間は決まっていなかったから会えなかった。

 たぶん私の家族と親戚は7人いっしょだったと思う。5人が一緒のところに弾があたって死に、母と連れの少年2人だけが奇跡的に生き残った。5人の死体をひと所に葬ったそうである。母はその場所を覚えていて、戦後、それぞれの身内をそこに案内して、遺骨を収集することができた。
 昭和20年6月22日。真栄平壕を出るという時、重傷の兵隊がいた。その人が「自分は助からないが、あなたたちは、民間人なんだから、モンペに着替えて出ていけば大丈夫だ」また「必ず昼出て行きなさい。夜は絶対出て行くなよ」と言ったので、その通りにしたら助かった。壕から出た時、みんな色も真っ青で、栄養不良で、みんな生理もとまっていた。
 それまでは軍服を着ていた。鉄かぶとも持っていた。 壕を出たのは妹と他の2人の4人だった。〇〇〇さんは、国頭突破という事で、兵隊もいっしょに壕を出たという事をあとで聞いた。それっきり帰らなかった。壕を出た時、私が持っていたのは非常袋だけ。中にアルバムと手榴弾が入っていた。

 壕を出て、家へ向かって歩いているうち、米兵2、3人と会った。はじめて見るアメリカーだから、とてもびっくりした。きび畑にはいって座りこんでいたら、お菓子とか煙草とか、いろいろな物をくれた。「いや」と言ったら、自分が食べて見せたので、わたしたちも食べたけど、煙草は手を横にふって断わった。その時、持っていた手榴弾は、アメリカ兵がよそ見しているすきに遠くに投げ捨てた。
 戦前の写真も持っていた。米兵が何とか言っていたが、わからない。しばらくしてアメリカ兵は去っていった。

 みんなで「家へ帰ろう」という事で、東風平から高嶺に向かっていく南山グスクの所に来たが、橋が壊されて渡れないもんだから、また方向変換した。歩いて行ったら、あちこちの壕から出た避難民が、列をくんでいくので、わたしたちもその人たちの列に入って歩いて行ったら、そこは具志頭だった。戦前の「なかま病院」が残っていたので、その広場に行った。

 若い者たちは、そこで治療の手伝いをさせられた。ここでは、当時の村長さん(瀬長清さん)の家族といっしょになった。忘れられないのは村長さんの娘さんの貞先生が、お産間近になった時、「産婆はいないか」と周囲に尋ねても、誰も出て来ない。仕方なくお母さんが、産婆のかわりにお産させた。わたしたちは、手伝って、お湯をわかしたり、鰹節の汁をつくってあげて、2日ぐらいその病院にいた。その病院は、戦前のちゃんとした病院だった。

 2日ぐらいしてから、佐敷と玉城に移った。佐敷が先だったか玉城が先だったか覚えていない。さらに2日ぐらいたって、知念に行ったら字平良の大城〇〇〇さんの家族がいた。
 玉城、佐敷の事務所には、避難して来た人の名簿があったから、妹と2人で調べてみたが、名簿に家族の名前がないので、お願いして「山原に行こう」という事になって船に乗せてもらった。

 船には馬天港からのった。いっぱいの人がいた。(その人達は)希望して行ったのか送られて行ったのかはわからないけど、わたしたち2人は希望して行った。
 着いたのは夕暮れだった。着いた所は大浦崎でナガサキ、ナガハマという地名だった。二見に2泊ぐらいした。そこには字上田のおばあさんで知っている人がいた。そこからまた久志大川にいった。大川には豊見城の人がいっぱいいた。字平良のおばあさんもいた。
 そこで、妹が何日後だったかはっきりしないが「汀間に、戦前ミシン部にいた知人がいる。行ってみよう」というから行った。汀間で、その知人が「あなたたちの伯母さんは、羽地田井等にいる。家族みんないるよ」と言ったので、すぐ行こうとしたら、昼はCPやMPがいて通さないと言ったので、すきを見てそこにいった。MPには見つからなかった。途中、山奥で敗残兵にあって、持っていたおにぎりをあげたりした。二人がたったその日、母は二人をたずねて来たらしい。平良のおばあさんから二人の事を聞いて、よく日、山をこえて羽地に戻って来た。南部で別れた後、はじめての再会だった。母だけでも生きていて良かったとつくづく思った。
 久志大川から羽地田井等まで3時間か4時間くらいかかった。羽地田井等にさしかかった時、作業をしていた従姉にあったので、いっしょに伯母さんの所に行った。そこには島尻でばらばらになった人たちがにげて来ていた。

 伯母さんたちは最初大宜味に避難していたが、戦争がおわったのでそこに来ていた。みんないっぱいいた。茅ぶき屋も三軒ぐらいあったが入れなくて、うちの伯母さん達は馬小屋に床をしいて住んでいた。
 そこは食べ物がなくて、伯母さんは蘇鉄の実を食べすぎて、お腹をこわしてずっと寝ていた。伯母さんは私達を見て、「こんな危ない事をして!もう絶対帰さないからね。久志においてある荷物は捨てなさい」と言った。

 米はなかったが、メリケン粉はあったので、ヒラヤーチーして食べた。従姉の夫で松田〇〇〇さんは田井等収容所の班長で、従姉の〇〇〇姉さんはミシン部の仕事に行っていたため、伯母さんの世話をする人がいないので、私は残ることになって、母と妹は先に帰った。伯母さんは、羽地・田井等で亡くなった。

 私が島尻にもどったのは昭和20年12月で、一番最後だった。座安の収容所に入った。そこは座安小学校内にあった。母と妹は先にきていた。
 座安の収容所は今のプレハブみたいなもので出来ていた。役場のような色々な仕事をしていた。配給所があって、母は衣類ワタサー。妹はミシン部に働いていた。病院もあったし、郵便局もあった。瀬長清さんが村長で亀次郎さんが総務部長だった。私は色々と言いつけられた事をしていた。
 字の人は伊良波の収容所に多かった。伊良波の収容所はテントだったと聞いている。

 食べ物や衣類はみんな配給だった。ラシャとかいう服もあったし、「クロンボウ服」など仕立て直して着ていた。米軍の靴も業者に女性用に作り直してもらってはいていた。各部落に班長がいて、芋掘り作業などみんなでやって、とれたものは配給した。

 自分の家に帰れたのはたぶん、21年の5月か6月頃だった。二世帯いっしょの規格ハウスに入った。

(1996年9月聞き取り)
キーワード一般住民体験談、10.10空襲(十・十空襲)、収容所、出産
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.753-749
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
高嶺
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類36010606市史編集
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編

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