保栄茂 當銘 政一(山原疎開 大宜味村喜如嘉) 1 全文

ID1170541
作者當銘 政一
作者備考出身地「保栄茂」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目山原疎開(大宜味村喜如嘉)
資料名(別名)保栄茂_當銘 政一_「空腹のやんばる山中放徨記」_1_全文
キーワード一般住民体験談、10.10空襲(十・十空襲)、学童疎開、山原疎開・大宜味村喜如嘉、避難小屋に爆弾投下、宜野座の病院
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.736-753
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
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国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
保栄茂
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容我が家は中隊本部

 私は、字保栄茂■■■番地で父當銘〇〇・母〇〇の長男として昭和11年に生まれた。
 戦争直前の私の家庭は父が防衛隊として出征していたので、祖母と母を中心に私達兄弟姉妹の家族であった。
 建物は昭和12年新築したばかりの40坪程の赤瓦葺のチャーギ屋(イヌマキ材)であった。

 戦争が近づくとたくさんの部隊が本土から続々派遣されてきた。が、ほとんどの部隊が自らは兵舎を築造せずに学校やムラヤー(公民館)、民家の大きな建物等を半ば強制的に使用した。私達の家も球部隊の中隊本部になった。中尉殿が隊長で総勢5、6名の陣容であった。電話も設置されていた。
 朝早くから階級の低い兵隊達が、入れ替わり立ち替わり訪れて来て「申告致します」と大きな声を張り上げる。特に雨の日などビショ濡れのまま軒先で直立不動で申告していた。子供心にも軍国日本の軍律の厳しさを、いやという程知らされた。

 いよいよ戦争の暗雲が、低く垂れこめてくると学校も家庭も、一連の軍事教練と奉仕作業で明け暮れた。
 学校ではサイレンを合図に退避訓練や防火訓練、防空演習、上級生による軍事訓練等で勉強は二の次、三の次となった。
 また、字内では兵隊に行けない病弱の人や老人、婦女子らが飛行場建設や陣地構築の重労働に徴用された。同時に青年団の軍事教練、婦女子の竹槍訓練が実施され、戦争色一色に塗りつぶされた。
 これらの訓練と並行して食糧増産運動、児童生徒へ一坪耕作運動がすすめられる一方、すべての物資の節約が強制された。

 昭和19年10月10日には那覇市への大空襲(10.10空襲(十・十空襲))があり、戦争の恐怖が現実のこととなってきた。軍は勿論のこと民間でも防空壕の構築が各家庭ごとになされる中で、学童疎開や避難対策も急速に進められた。
 国民学校3年生以上を対象とする九州方面への学童集団疎開と母子による北部山林地帯への疎開である。
 私は2年生だったので母達と一緒の北部行きだった。 私の家では母、姉(三女)、長男の私、乳飲み児の弟(四男)の4名が疎開することとなり祖母、弟(二男、三男)と姉(長女)が残留することとなった。

 5日間歩き続ける
 昭和20年3月20日、いよいよ出発の日が来た。うす暗い早朝、残留する皆に見送られて、生まれ育った我が家を後にした。

 1日目
 字内からの疎開者110数名は、引率者の指示のもと一路、安全の地を求めて歩を北へ進めた(西海岸沿いの現国道58号)。目指すは「大宜味村字喜如嘉」である。
 字上田や豊見城村役場を過ぎる頃には夜もすっかり明けた。垣花のウティンダ(落平)ヒージャー(樋川)で手を洗い喉をうるおした。県営鉄道の那覇駅(現在のバスターミナル)に着き、屋根も腰掛けもない小さな荷物列車に乗せられて、快適でない汽車の旅は始まった。何時間位乗っただろうか。嘉手納まで行ったら、もう終点だった。これから先は目的地の喜如嘉まで徒歩だけである。
 母は、道中の必需品やいくらかの衣類を頭に乗せ、四男をおんぶする、その後に三女の姉と私が続く。似たような光景は長い長い列をなして延々と続いた。
 間もなくして比謝橋に着いた。母達は、吉屋チルが詠んだ「恨む比謝橋や……」を口ずさむ。
 読谷山村字喜名まで行くと、北飛行場で防衛隊として軍務に従事していた父達、多数の字出身の方々に迎えられた。
 長い間、会ってない父を見ると疲れもふっ飛ぶ思いだった。父達は、しばらくの間、私達に同道してくれた。やがて天も見えない程、大きな松の木が繁茂する「多幸山」にさしかかる。多幸山には友軍が構築した陣地がたくさんあり、また兵隊達が忙しそうに立ち働いていた。
 恩納村字山田辺りまで行くと、本部半島が遠望できた。同道した防衛隊の一人が、かすかに見える本部半島を指さして「君達が行くところは海の向こうの遠くに見えるあの山々の向こうだ」と教えてくれた、そのときは気も遠くなる思いだった。
 父達と別れて、1日目は仲泊まで歩き、そこのムラヤー(公民館)に宿泊した。こんなに長道を歩いたことはなかったので、とても疲れた。夕食のにぎりを食べるとすぐに寝た。

 2日目
 2日目も1日中、歩き続けた。進んでも進んでも、なかなか近くにならない本部半島。
 左に海、右に山林、そして小さな段々畑、ちょっとでも足を踏みはずすと、ふもとまで転がり落ちそうである。かずらも植えられたまま首も折らずに天空をさして、つっ立っている。はじめて見る、やんばるの風景である。
 母達は「やんばるぬ旅や哀わりやー至極、見るかたやねらん海と山と」と口々にくりかえす。
 恩納村は、とてもとても長い村だった。字名をたずねると、ここでも、次でも、そのまた次でも恩納村○○、恩納村△△との返事が返ってくる。歩いても歩いても恩納村だった。その日も恩納村のある字に泊まったが、2泊目からは疲労で宿泊地名はおぼえきれない。

 3日目
 3日目に、やっと名護に辿り着いた。海側に大きな松並木のきれいな七曲がりを過ぎるとセメント瓦葺の2階建の家並みが美しい名護の街だった。その日の昼食は、名護のあるお宮の鳥居の下で食べた。
 足首やふしぶしが痛い。いや身体全体が痛い。一度休むと、もう二度と動きたくなかった。が、引率の出発の合図には逆らえず、名護の街を後に羽地ターブックヮを北上した。
 「名護からや羽地……」という歌のとおりだね、と母達は前後の人と話す。その日は羽地村のある字に泊まった。

 4日目
 明けて4日目(3月23日)忘れもしない、この日から米軍による本格的な沖縄戦は開始された。敵のグラマン戦闘機の来襲する中を道端の木陰に身をかくしながらの避難行となった。敵機には追われる。全身疲れ果てて、足首も赤くはれて痛い。泣くにも泣けない厳しい旅は未だ道の半ば、行列について行くだけで精一杯である。
 落伍してはならない、とくり返し自分に言い聞かせながら列の後にくっついて行った。
 やがて、大きな湖が見えてきた。その向こうに軒並みが美しい集落があった。大宜味村字塩屋である。
 ところが、その塩屋まで行くことが、また大変だった。その当時は塩屋橋がなかったので、塩屋の家並みを目前にしながら、あの塩屋内海を大回りした。およそ半日近くを費やした。その晩は塩屋の次あたりの字で泊まった。

 5日目
 明けて5日目、この日も敵機は朝から天空に舞っていた。このあたりからは集落も、まばらで次の集落まで長時間かかった。谷間に川をはさんで人家が点在し、山村の感じを深くさせる。
 我が家を出発して歩き歩き続けて5日目である。この日、昼も大分過ぎて、やっとのことで字喜如嘉に辿り着いた。表現のしようもない程、疲れ果てた。
 集会所で一休みし、喜如嘉の方(多分区長さん)のお話を聞いて後、案内されて避難小屋に向かった。
 「七滝」のそばの急な坂道を木の根っこにつかまりながら登って行った。島尻の平坦地から来た私には、とても道とは思われないような道だった。小さな細い山道を一列に並んで登り、降りして数時間、全員無事に避難小屋に着いた。
 避難小屋は喜如嘉の集落から、更に4、5キロメートル程の山奥にあった。小屋は丸太を組合せ、竹の葉で屋根をふき、壁をし、竹をあんだ床でできていた。喜如嘉の人達の奉仕作業で造られたものである。心の中で感謝した。歩き続けて5日間、やっと安全の地に辿り着いたのだ。赤くはれて痛い足を長く伸ばし、安心して寝入った。目を覚ましたら翌日の昼過ぎだった。引率の二人の方は1、2泊して帰って行かれた。

 機銃掃射と食糧難
 避難小屋に着いたので、もう安心していられると思った。が、むしろ、この日から空腹と毎日襲い来る敵機の機銃掃射に、おびえる苦しい避難生活ははじまった。
 3月も末だというのに山中の夜はまだ寒い。着物も寝具もなにもない。寒さを防ぐためにズックや地下タビ等の履物がある人はそれを履いて寝た。家を発つ前に先に送った食糧や衣類は、いつまで経っても届かなかった。
 はじめの頃は僅かながらも、お米の配給もあったが、間もなく、それもなくなり食糧事情は日に日に悪化していった。一食に子供の挙ほどの小さいにぎり一個だけである。副食も間食もなにもない。ただただ、我慢して時間が過ぎ去るのを待つだけである。敵機の飛来が、とだえた時など空腹をおさえて山の頂上に登って島尻の方向を眺めたりもしたが、視界の限り山、また山で山脈の連続だけである。
 山中には猪も悽息しているとのことだがお腹をすかした人間の前には一度も姿を現わさなかった。たとえ現れたとしても私達にはとても手におえなかったであろう。
 空腹をこらえることも大変つらかったが、更につらかったことは便をすることだった。僅かの固形物を排泄するために数十分もの時間を費やした。食べる物もないのだから排泄するものもないのである。

 ハブもうようよ
 夜になると竹床の下をホロホロ、ガサガサと音をたてて通るものがある。初めの頃は、こんな山奥にもネズミがなんと多いことよ、と思っていたが間もなくして、それはネズミではないことがわかった。
 ある雨あがりの月夜のことだった。用たしに外に出ようとして戸を開けた。すると大小数匹のハブが月光に照らされて、あちこちをはっているではないか。「あっハブだ」思わず叫んで急いで戸をしめた。この場面を見てからは竹床の下で音がするたびに背筋が氷る思いだった。

 艦砲射撃の音
 空襲も日増しに激化してグラマン戦闘機は毎日機銃の雨を降らした。機銃音が近づいて来ると大木の根元に伏して、一枚のうすっぺらの毛布を皆で引っぱり合いして被り、ブルブルふるえていた。また、B29重爆撃機が重苦しい鈍い爆音をたてて頭上を通過するときは生命も縮まる思いだった。
 一体、敵軍はこの山中に私達が、ひそんでいることを知っていたのだろうか。朝早くから日没まで全くのめくら射ちである。子供心にも敵軍の鉄量の豊富なのには驚かされた。機銃掃射の激化で日中は避難小屋を離れて近くの大木の下に隠れて過ごすようになった。耳をすますと南の島尻の方向から、村祭りの太鼓を早打ちするような音が聞こえてくる。毎日打ち鳴らされる、太鼓音を不思議に思っていたが、島尻の激戦地から逃げのびて来た方の話で、それは島尻方面へ敵艦船から撃ち込まれる艦砲射撃の音だと知らされた。
 それ以後、この音がするたびに胸が痛んだ。祖母や姉弟達は大丈夫だろうか。新しいチャーギ屋は大丈夫だろうか。機銃掃射と空腹に苦しめられながらも、小さい胸は安まる時はなかった。
 食糧事情は一層悪化し我慢も限度を越した。このままでは餓死以外ないと悟った母達は、ついに誰からともなく喜如嘉の農作物に手を出すようになった。
 夜になると3、4名づつ組んで集落近くまで行き、作物を失敬して来ては生命をつないだ。喜如嘉の方々も、疎開者の立場をよく理解してくださり、なかには芋の取(掘)り方を親切に教えてくれる方もあった。
 こうして私達は、芋や青い大豆、にんにく、人参等によって死から免れた。
 しかし、そのようなある晩、母はいつものように地元の方の畑にはいり、六尺棒のようなものでもって追われた、と言って血色も失せて帰って来たことがあった。

 神の導きにより生命助かる
 私は、信心深い方ではない。が、あの時に神の加護があったからこそ、現在の自分があると思う。避難生活中に不思議で珍しいことを体験した。
 ある日避難小屋の近くに爆弾が2発投下された。私達は、いつもは避難小屋から僅か3、40メートル程離れた大木の下で日中を過ごしていた。が、その日に限って私は、どうしてもいつもの近い場所には行きたくなく、皆んなを引っぱって遠くの谷底に避難した。
 お昼前、果して爆弾は投下された。もの凄い大きな炸裂音とともに樹木が大きくゆれ、パチパチッと木の葉を焦がすと轟音がした。
 初めてのことに、恐る恐る爆発音の方へ近づいてみた。赤土が付近一帯に生々しく飛び散り、大きな穴が二つ出来ていた。避難小屋がいくつも吹き飛ばされ、また傾いていた。
 近くにいた人達の中には負傷した人もいた。私達は、遠くに行っていて生命拾いした。

 ある真夜中に目が覚めた。物音一つしない静寂の中、はるか南のかなたから人の名を呼ぶ声が響いてきた。その声は三声、同じ声量で同じ人の名を呼び続けて闇の中に消えた。声の主もはっきりしており、また多くの人が聞いている。不思議な声だった。戦争が終って故郷に帰ってから聞いたことだが、幻の声の主は、その時敵弾によって亡くなられたとのことだった。
 不思議なことといえば、あれ程うようよいたハブだが咬まれた人が一人もいなかったことも珍しいことだった。医者もいない、血清もなにもない非常時とハブは知っていたのだろうか。お年寄り達は、ハブは神の使いものとかいって畏れるが、あるいはそうだったのだろうか。

 敵兵避難小屋に現れる
 あれ程、激しかった機銃掃射もいつしかやみ、平穏な日々が続く。そんなある日、突然大勢の敵兵が避難小屋にやって来た。
 友軍兵士より一回りも二回りも身体が大きく、ヒィジャー目(青い目)の赤ら顔、口をモグモグ動かし、ペラペラ言葉を交わし、余裕のある態度で笑顔さえ浮かべている。
 私達は、初めて見る敵兵に怖さのあまり、小屋の隅の方で小さくなってふるえていた。敵兵達は、ポケットからアメ玉などを取り出して盛んに勧めるが私達は、毒入りと思い、彼らが見ない間に床下に捨てた。敵兵達は、1時間ばかりいただろうか、陽もまだ高い中に早々と引きあげていった。
 その夕方、母達大人が集まって協議した。その結果、全員避難小屋を去ることを決めた。もうこの避難小屋まで敵兵が来た。このまま、ここに留まっていると近日中に再び来て、その時こそ本当に捕虜にされるだろう。
 1日とて猶予できない。また島尻は戦争も終わって平和になっているかも知れない、という祈りにも似た気持ちと故郷へ帰りたい、という帰巣本能に支えられて南下することにした。決まったら「善は急げ」とその翌日、長く住みなれた避難小屋を後にした。南を指して文字通り、登ったり下りたりの細い山道を2日間も歩きとおした。夜はワラビの中で家族4名スクラムを組んで寝た。
 そして、やっと海が見える谷間の集落に辿り着いた。そこは東村字有銘というところだった。

 死体と同居
 有銘は多くの避難民や本隊から離散した友軍の兵隊達であふれていた。小さいカヤぶきの家が半分程空いていたので早速入ることにした。多くの人達であふれているのに空いているのは珍しい、と思ったが理由は直ぐにわかった。時々異様な臭いがするので調べてみたら押入れの下の方に半ば白骨化した死体があった。
 食糧事情は喜如嘉よりも更に悪かった。キャベツを収穫した後の虫食いの固い下葉が段々畑に残っているのを見つけ、水たきして食べた。また、たまには海水をくんできて水でうすめて沸とうさせて飲んだりもした。
 しかし、海岸線は敵軍のトラックが通ったりする、とのことで海水さえも毎日は飲めなかった。
 有銘に来てから雨の日が続いた。小満芒種(梅雨期)である。雨の日には死体からの異臭が特にひどかった。

 友軍が避難民に威嚇発砲
 東村の川田や平良には食糧があるとの噂を聞いたので、ある日母の後について川田、平良に行った。そこは一度敵軍が進攻して来て引きあげた所だったので、まだ畑には農作物が残っていた。ところが、その農作物を取ることは大変なことだった。というのは本隊から離散した友軍の兵隊達があちこちにかくれていて自分達の食糧を確保するために、避難民をけ散らす目的で威嚇発砲するのだ。敵軍も怖いが友軍も怖い存在になっていることを知らされた。
 雨期が過ぎるとまた南下した。海岸線はさけて山道を選んだ。途中にオオシッタイという小さい山里があったが、そこには寄らずに通過した。道中、道端の草むらに友軍の兵隊の行き倒れがあったので脇見をせずに急ぎ足で通り過ぎた。
 その日の夕方、久志村福地又に着いた。ここも有銘と同様、木の下まで人達があふれていた。どの家も軒下まで一杯だったので道端の大きな松の木の下に宿った。道は昼夜を問わず行き交う人の足音が絶えなかった。
 数日を松の木の下で過ごした後、隣の三原に移った。が、ここも何にもなかった。
 アカバナー(仏桑花)を生垣にした屋敷があったので、その梢をつもうとしたら主が出て来て「君らが、これをつんでいったら私達は今後食糧が無くなったら何を食べるのか」と言われたと母が語った。
 「汀間当節」の汀間や安部、嘉陽、兼下あたりまで食糧を求めて歩き回った。
 三原にも長くはおらず汀間を経て瀬嵩に移った。が、南下できるのもここまでであった。敵軍はこの先の二見、大浦まで来ているという。もう、これ以上南下することもできない。食糧も無い「万事休す」とは、このような状況を言うのであろう。
 福地又や三原、この瀬嵩までの間に字出身の避難者の中から多くの犠牲者が出た。とりわけ体力の弱い幼児や年輩の方が餓えが原因で亡くなられた。
 私達は、わずかの食糧を求めて近くの山野を歩き回った。そして、他人が取り残していった小さいソテツを十って食べた。幸い、中毒もなにもしなかった。少しでも生き延びるために瀬嵩?汀間?三原間を何回か後退、前進をくり返した。
 この頃からは避難民の中には我慢も限度を越し、これ以上の逃避生活に耐え得ないとして自ら進んで、投降する人達も続出した。
 人々は、有りったけの財産を肩や背にかつぎ子供の手を引き投降、またなお逃避する者等路上にあふれた。

 無事捕虜になる
 そんな中、幾日もたたないある日、瀬嵩の海浜近くのお宮の境内にひそんでいるところを敵兵達が数台の大型トラックで進攻して来て捕虜された。心身ともに疲れ果てて喜如嘉の避難小屋で、初めて見た時のような敵兵に対する恐怖心はなかった。付近の野原に教えきれない程、沢山のテントがはられて、そこに収容された。
 食糧も毎日配給される。こんなことであったなら、もっと早くに捕虜になればよかった。何もひもじい思いをしながら山中を逃げ回ることはなかったのだ。と、本当に思った。間もなく浜辺に学校も開設された。
 7月頃と思ったが、新しい3年生である。生徒は砂浜に並び、先生方は護岸に立って指導していた。学校といっても教科書もなにもない。ただ集まっては2、3時間位歌を歌って終わるだけである。
 ややしたある日、米軍の将校が学校に訪ねて来て「戦争は終りました。日本は敗けました」と告げて帰った。
 テント小屋に帰って母に敗戦のことを話したら母はすごく悲しんでいた。

 家族と再会
 その日暮らしの捕虜生活をしていたら、ある日突然叔母(母の妹)が訪ねて来た。
 叔母は捕虜されて金武村中川で収容されているとのことだった。私達は、叔母の思いがけない訪問に涙を流して、お互いの無事再会を喜び合った。そして、言語に絶する島尻の激戦の様子や祖母(母の母)が足を負傷して宜野座の病院に入院していること、また自分らの祖母達家族も宜野座村古知屋の開墾地で収容されていることも知らされた。
 家族との再会、合流したい一心で往来が自由でないなか、夕食後に瀬嵩をぬけ出して夜どおし歩き続けて夜が白々と明ける頃、古知屋に着き弟らと再会した。戦争という大きな悪魔に苦しめられた長い長い間の再会だった。二人の弟たちは、元気だったが祖母は島尻の激戦地で子や孫を失い、全身に汗し苦労して新築したチャーギ屋は焼かれて疲労は極に達していた。その上、栄養失調で手足は大きくふくれ、病院に収容されていた。視力もすっかり衰えて声を確かめてから相手が誰か、やっとわかるほどだった。
 再会できたのも束の間の喜びで十数日後に永眠した。 祖母や二人の弟達が収容されている建物は、建物とはとても思えないようなものだった。捕虜された大人の男達が、近くの山野から丸太をきり出してきて、柱のない合掌型を地面に置いただけの、さながら有史以前の先人達の住居のようだった。
 父は、屋嘉の軍人捕虜収容所に元気でいることは知ったが、しかし姉(長女)と再会したのはあの地上戦争から30年も過ぎた、つい最近のことである。あまりにも変わり果てた姿との対面であった。長姉は、敵軍からの弾雨の中を追われ追われて南下した末、字名城で岩陰に身をひそめているところを近くに爆弾が落下して、その爆風で岩が崩れ落ち、押しつぶされたとのことである。
 敗戦直後の人力だけの時代には崩れ落ちた岩をどうすることもできず、そのままとなっていたが33回忌を迎える数年前、重機で岩を払いのけて収骨し祖先のもとへ案内してあげた。
 僅か16歳、あまりにもあまりにも短か過ぎた人生が、ふびんでふびんでならない。

(1999年5月寄稿)

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