翁長 大城 敏子(南部避難) 1 全文

ID1170531
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)翁長_大城 敏子_「今でも夢に出る戦争」_1_全文
資料内容10.10空襲(十・十空襲)の時、字翁長に弾が落ちたりすることはなかった。ちょうどその日、私は小禄の飛行場に出かけるところであった。場所は現在の高良線(バス路線)が通っている道路の左側一帯で、以前、金網が張られていたところである。当時、その金網のずっと奥のほうには森があって、その下側の畑から土を取り出し飛行場の滑走路を造る作業に徴用として駆り出されていたのである。徴用のときは「翁長の誰々は何日に来なさい」という具合に、連絡があって呼ばれた。その時期、親が忙しかったので家族からは私が参加した。
作業現場に行くと、内地の兵隊さんが点呼した。当時のウチナー(沖縄)の女性の名前は、カメとかウシとかが多くて、「カメが何名、ウシが何名」などと点呼された。「あなた方はこんな名前なの?」とその兵隊さん達に笑われた。

 このような感じで、何日か徴用に駆り出され、その日も弁当を作り、朝食を済ませ、小禄に向かうためちょうど家を出ようとした矢先のことだった。「ボンッ、ボーン」と大きな音がして何だろうと思い、今の老人ホームのある高台(チンチャンモー)に登って音のする方角を見てみたらそれが10.10空襲(十・十空襲)であった。
 煙がたくさんあがっていたが、当時まだ16歳だった私はそれを見ても「あれが空襲なんだ」という程度にしか受け止めていなかった。そして翌日になれば、また小禄へ作業にいけるとしか考えていなかった。空襲のようすは、具志、高良だけでなく、那覇方面、山形屋のデパートがある辺りまでその高台からは望むことができた。

 沖縄戦が始まって以降も私達は翁長にとどまっていた。戦争がだいぶ激しくなったある日、字の区長から、新垣・真栄平というところへ米を運搬してきてくれ、という命令があった。若い男の人たちがほとんど防衛隊に取られたあとで人手も少なかったし、命令だったんで運搬作業を引き受けた。

 集合場所は豊見城集落入口のカーブのところ、「ジブサン(医師・宜保成晴氏の愛称)」の大きな門中墓の手前で現在の山羊料理店の道向いあたりであった。そこに日本軍の壕があった。壕の中にはお米がたくさん積まれていた。私達は、集まった女の子4名でそのお米を棒で担ぎ、真栄平へと運んだ。しかし、やっとの思いで真栄平まで運んだものの、なぜか受け取りの係はいなかった。難儀して運んできたのに誰もおらずどうしようか困ったが、しょうがないのでお米をその場所へ放り投げそのまま私達は帰ってきた。その作業は夜出かけ、家に戻った頃にはすでに夜が明けていた。字渡橋名の方が一緒に行ってくれたときも大変だった。真栄平へ行く途中、私達はその周辺で艦砲の攻撃を受けたことがあった。何がなんだか分からなくなった私達はとっさに近くの溝に飛び込んだり、地べたに伏せたりしたが、そのときの艦砲で亡くなった方もいた。

 戦争がいよいよ激しくなったので私達家族も島尻方面へと避難することにした。しかし、ほんとうは私は避難したくなかった。島尻には隠れる壕もないだろうし、岩陰や樹の下などにもぐり込むしかないと思っていたから字から逃げないつもりだったのだ。同じ死ぬなら部落で死にたいと思い、そう周りに話したらだいぶ叱られて、それで仕方なく字から離れたのであった。

 島尻では避難民や兵隊がごっちゃごちゃになっていた。避難の途中、私は黄燐弾による火傷を負い大ケガをした。黄燐弾は飛行機から落とされ私達のいる辺り一面を焼いた。逃げ道がどこにあるかさえ分からなくなるほど周囲から火が出、私は燃え盛っているところへ逃げこんでしまったのだ。そのとき火が着ているモンペに燃え移って足にやけどを負った。今でもその傷痕は残っている。
 考えてみると、私はこのケガのおかげで、それ以降夜出歩くことができなくなったことによって生き残れたのかもしれないと思うときがある。元気な人のなかには、夜動き出したりして、自分の部落に戻ろうとしたところを敵にやられたという人も多いと聞くからだ。アメリカ兵らは、自分達が野営している陣地の周辺に線のようなものを引っ張り、それに引っ掛かると合図が鳴って、そこに機関銃を乱射した。夜出歩いてこのような罠に引っ掛かって死んだ人も多いのである。

 戦争中は小さな子どもたちを抱える母親などがとくにたいへんだったと思う。捕虜となった私達が名城のカーブ辺りを歩いていたら道ばたに女の人が亡くなっているのを目撃した。その人は着ている服が焼けたのか爆風によるものなのか知らないが、裸同然の状態で身体もまるで焼けた山羊のように真っ黒くなっていた。その女の人の子供だと思われる三歳ぐらいの女の子が、亡くなったその女性の身体にしがみついたり、乗ったりしていた。きっと母子であったのだろう。亡くなった人のおっぱいに吸いついたりするその子の姿を見てほんとうにチムグルシかった(心苦しかった)。

 私達は、現在の「ひめゆりの塔」のある西側までたどり着いた。私は足のケガをしていて歩くのもほんとに大変だった。

 そんなとき、私達がいる後ろ側から突然アメリカ兵が「デテコーイ」と叫びながら近づいてきて、指笛を「ピー」と吹いて上半身裸のままで前進してきた。その姿に仰天した私達は足をひきずりながらその場所から必死になって飛び出した。いつの間に現在の名城付近の大きな道路(現在の国道331号)に出ていた。そうしたら今度は糸満方向から戦車がやってきて、民家のほうに向かって火炎放射器で火を吹きはじめた。これに見つかったら大変だと、私達は石垣の隅に隠れて見ていたが、その場所から戦車までの距離は、戦車に乗っているアメリカ兵の顔が確認できるほど近かっため恐怖感は頂点に達していた。この戦車が通り過ぎてから、私達はまた道路に出て真栄里方面へと逃げた。そして現在の老人ホーム偕成園の後方の岩山に身を潜めていた。戦場をさまよった疲れがどっと出たのか夕方からそこでぐったり休んでいたら、翌日、アメリカ兵に周辺を囲まれ私達はとうとう捕虜となった。

 そのとき捕まったのは私と祖母の2人であった。私達は伊良波の収容所へ送られた。ケガをしていた私は収容所内のテントへ、ケガのなかった祖母は外へと、それぞれ収容所内でも場所を分けられることとなった。テントは全員にはあたらなかったと思う。

 私は、さらに祖母と収容所内で別々に分けられた翌日、今度は久志の病院へ移された。一方の祖母はそこからコザ島袋の収容所に送られたという。祖母は当時73歳でトゥシビーを迎える年齢であった。周囲から身寄りが急にいなくなったのと戦場をさまよった疲れが一気に出たのだろうか、その後祖母は島袋の収容先で亡くなったという。

 私は久志の病院を退院してのち、いとこを探しに辺野古へ行くことにした。私と同い年のいとこは、捕虜で連行されるときの車も私と一緒で、ともに伊良波に収容された。しかしいとこは大ケガを負っており、収容所に着いてから後は消息がつかめなくなっていた。当時、重傷の人々は辺野古の病院へ移送されているとの話を聞いていたので、私はそこをたずねることとしたのだ。病院におけるアメリカ兵は夕方5時くらいまでしか診察しなかったので、その時間を過ぎてからの病院への出入りはけっこう自由であった。私は辺野古の病院でいとこを見つけだすことができた。いとこは銃弾でお尻をやられたらしく、見た目にも重傷だった。これはのちに弟たちから聞いた話だが、4、5人兄弟で一番年上だったいとこは、防衛隊で家を空けた父親の代わりに母親とともに、家族みんなを引き連れ島尻をさまよい真栄里の壕に隠れていたという。やがてアメリカ兵に囲まれ投降を呼び掛けられたがそれに応じなかったため、壕の前にガス弾を投げ込まれ、それが燃え出したのだという。きっと中の人間をあぶりだそうとしたのだろう。そうしたら、勇敢にもそのいとこがバケツを抱えそれを消そうと壕の入り口に飛び出した。水をかけて壕の奥に戻ろうとしたところをアメリカ兵に銃撃されたのだという。それがお尻にあたったのだ。傷口は小さかったが弾が取り出せず結局、そこが腐って、いとこは1カ月後に亡くなった。私は、2回お見舞いに行ったが、2回目にはどうしようもない状態だった。

 私のケガは軽症だったけど、重傷の人達は大変だったと思う。せっかく捕虜となりイクサ(戦火)から免れても収容先で亡くなる人はたくさんいた。助かった人のなかにはケガの後遺症がずっと残っている人もいる。それで戦後も生活をしてきた。こういった人達にとって戦争というのはいつまでも終わらないはずだ。

 私は戦後しばらくは、名城方面へ行くのが恐くて、できるだけそこに出かけるのを避けた。用事があって仕方なく出掛ける場合などは、いつも「キーブルダチャー」して(鳥肌が立って)体が震えた。当時のその一帯での地獄のような光景を思い出すからだ。今はだいぶ年数が経ってそのようなことは少しなくなったが、当時は死体が折り重なり、まさにこの世の光景ではなかった。現在の県立南部病院を過ぎて名城部落に向かう手前のカーブあたりにかけてである。道ばたには、眠ったように死んでいる人もいれば、死体が膨らんでヒージャーグヮー(山羊)を焼いたみたいに真っ黒くなっているのもいた。

 今でもときどき戦争のことは夢に出てくる。

(1996年3月聞き取り)
キーワード一般住民体験談、10.10空襲(十・十空襲)、徴用、小禄飛行場、高台(チンチャンモー)、ジブサン(医師・宜保成晴氏)、食料運搬、やけど・火傷、伊良波収容所、久志の病院、辺野古の病院、夢に出る
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.732-736
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
翁長
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類36010606市史編集
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編

PageTop