座安 大城 貞(南部避難) 1 全文

ID1170521
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)座安_大城 貞_「私の戦争体験談」_1_全文
資料内容10.10空襲(十・十空襲)の時は私達の家族は伊良波の裏山の壕に逃げた。壕での食生活は、主食がイモ、おにぎりもあることはあったが裕福な家庭か、田んぼを持っている家庭しか食べれなかった。ほとんどはおイモだった。油味噌をつけて食べた。油味噌はたくさん作って甕に保存してあった。夕方になると、自分の畑から急いでイモを掘ってくる人もいたが、空襲が激しくなってからはそれもできなくなった。水はおうちから水筒や水がめに入れて運んだ。

 私の家からは主人が防衛隊に召集を受けて入隊した。初めは読谷方面の部隊にいて、時々面会に行った。戦争が激しくなってからはどうなったかは知らないが、アメリカ軍の上陸後、読谷方面の飛行場も爆撃を受け部隊もちりちりになり、ようやく座安に帰ることができ、その後は家族と一緒に行動した。そしていよいよ裏山の壕も危なくなり、ヘーカタ(南部)の方に逃げ、喜屋武までたどり着いた。たぶん6月4日ごろだと思うが座安を夜のうちに出発し翁長部落をへて糸満の名城、小波蔵にたどり着いた。そして一泊して喜屋武に到着した。6月6日だったと思う。食事は1日一食ぐらいは取れたと思う。イモかおにぎり。水も飲んだ。喜屋武ではさまよっているうちに、偶然にも立派な壕が見つかり、そこに捕虜になるまで隠れていた。その壕は人の屋敷内にあった。家は艦砲か爆弾で木っ端微塵になっていた。家主は逃げたのか爆風で吹き飛ばされたのかいなかった。壕の中は立派で堅固に作られていて広々としていた。上下二段になっていた。私の家族親戚や知人達20人ほど入れた。大豆も甕の中に少々残っていた。
 しかしそこで主人が海上からの機銃掃射で胸を撃たれ即死した。6月8日の事だ。アメリカ軍の攻撃が間を置いたりする時間を見計らって壕の外へ水くみなどで出入りしていたが、運悪く入り口にいた主人がやられた。恐らく機銃の乱射で流れ弾に当たったと思う。主人の戦死はすごく悲しい出来事だった。一時は何が起こったかも分からなかった。ただなすすべもなく呆然としていた。

 6月も半ば過ぎだった。アメリカ兵に発見されて「デテコイ、デテコイ」と言われたので私達は恐る恐る手を頭上に挙げて壕から出た。いよいよ殺されるのかと思いながら手を高く挙げて出た。初めて見るアメリカ兵にびっくりし、みんな無言だった。他の多くの捕虜達と一緒に喜屋武沖の軍艦に乗せられた。海に投げ捨てられるのかと思えば情けなくも悲しくもなったが、涙は出なかった。その時の気持ちは今でも思い出すこともある。船はどこを走っているのか分からなかったが、北谷の海岸に上陸させられた。船ではアメリカ兵がチョコやガムをあげよったが、私達は毒が入っていると思って食べなかったのでアメリカ兵は自ら食べて見せた。

 最初は安谷屋に連れて行かれ、つぎに中川へと移送された。六ヶ月ぐらいいた。収容所では男はいろいろと仕事をさせられた。女は軍の洗濯だった。食事は軍からの配給の缶詰とかがいろいろあり、戦が終ったあとの心の安らぎもあったのでおいしく食べた。

 中川からは字渡橋名の収容所に帰ってきた。多くの豊見城村民がいて、みんな良く生き延びたなあと、感無量だった。

(1997年12月聞き取り)
キーワード一般住民体験談、10.10空襲(十・十空襲)、伊良波の裏山の壕、防衛隊
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.731-732
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
座安
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類36010606市史編集
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編

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