上田 大城 義雄(南部避難)_1_全文
| ID | 1170501 |
|---|---|
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 南部避難 |
| 資料名(別名) | 上田_大城 義雄_「日本兵の死体に何百発も弾を撃つ米兵」_1_全文 |
| 資料内容 | 10.10空襲(十・十空襲)は、昭和19年10月10日。空襲前は家族の防空壕掘りを仕事の合い間にやっていた。18年の暮れから10.10空襲(十・十空襲)まで、親せき同士で、各家庭の壕掘りに精を出した。どこの家も同じだった。10.10空襲(十・十空襲)後、空襲警報が発令されると、昼も夜も壕に隠れたが、普段は家で生活していた。 その時分、上田には野砲部隊が駐屯していて、隊名は忘れたが、私の家に将校が1人、上座を自分の宿舎として住んでいた。この人は中尉で、沖縄戦が始まる前までいたが、戦争が激しくなると戦地へ向かって行った。さらに、ムラヤー(公民館)にも兵隊達が14、5名又は20名程度いた。その時分からは、夜間に外出するのは怖かった。部落内での外出者もあまりいなかった。特に、燈火管制が敷かれ、暗夜に灯を点すと、敵に見つかるので厳禁だった。日中は畑仕事をし、警報が鳴ると、畑の近くの木の下や、ススキの中などに隠れた。このようなことが幾度となくあった。 昭和19年の暮れから、米軍は沖縄に上陸するとの情報がドンドン入って来た。私たちは、その情報をもとに、おそかれ、早かれ沖縄に上陸して来るんだと心の準備は出来ていた。私たちだけでなく、字民もみんなそうだったと思う。年を越して、2、3月頃から、もっぱら、その話で持ち切りで、台湾に行くか、沖縄に来るかのどっちかだという説だった。そうこうしている中に、結局4月1日、米軍は沖縄本島上陸を敢行した。その日は、早朝5時半か6時頃から、米艦隊の艦載機が沖縄の上空を飛び廻った。もちろん、豊見城村の上空でも敵機が飛び交っていた。私たちは、家の後方の森に登って海を眺めたら、敵艦が真っ黒くして沖縄を取り巻いている。「ああ、これは疑いなく沖縄に上陸して来る」と察知した。 瀬長島の沖あたりも真っ黒くして、私たちの所からは瀬長島あたりしか見えないが、大変な数だった。私は、門司海運局の那覇支局に勤務していた。ある日、出勤のため、名嘉地まで行ったらバラバラバラバラと職場のあたりを攻撃しているもんだから、今日は仕事に行けないと家に引っ返し、家からは爆撃の様子が見えないので、又、森に若者達と上って爆撃の状況を見た。那覇港あたりに落下される弾が見えた。那覇港の近くの上の丘にある、日本軍高射砲陣地からはボンボン弾を撃っていたが、敵機の数は多く、一列縦隊で降下して那覇港とガジャンビラの高射砲陣地をドンドン攻撃していた。午後からは字高安の橋あたりじゃないかと思われる所を攻撃していた。橋を破壊するつもりだったのだろうか。 私たちはこの時、家の方は危ない、戻ってはいかん、機銃もドンドン撃つので木の下に隠れていた。その後、戦争は激しくなり、6月13日頃には、米軍は真玉橋あたりまで来たのではないだろうか。私たちは、その後2、3日して家を出て、非常食の米、みそ、塩などを家族で手分けして担ぎ、糸満街道沿いに南下した。その時は大雨で、足も抜けない程のどろんこ道となっていた。夜間は敵の照明弾が打ちあげられ、上空でパッとあかりがともり、あたり一面を昼間のように明るく照らす。動いたら見つかってやられるということで、地面に座り込んでじっとしていた。あかりが消えるとまた歩き出すということの繰りかえしだった。やっとのことで夜明け前に名城の部落に着いたが、まだあたりは暗く、人がいるのか、いないのかも知れず、壕も探せる訳もないので、空いている豚小屋があったので、その中に隠れた。豚小屋生活が4、5日続いた。 名城では、敵の攻撃が止んでから、夜、水を汲んで来て、お米を炊いて食べた。そんな折、糸満方面から飛行場守備隊だったのではないかと思われる海軍部隊も退却して来た。ある時、水汲みに行ったら、兵士か民間人か知らないが、弾にやられて井戸水の中に落ちて死んでいた。その死体の側から水を汲んで来てごはんを炊いたこともあった。 私たちが名城で4、5日暮らしているうちに部落はずれの丘の上から、指笛や鉄砲の音が聞こえて来た。私は近くまで米軍が来ていることを察知して、外に出て見たら、案の定丘の上に米兵達がタバコを喫いながらワイワイ何やら大声で話し合っている。昼間だったが、ここで殺されるより逃げたほうが良いと豚小屋を出て、部落の畑の中を通り、束辺名・上里に行った。今の清掃工場のある所だが、そこでも壕が見つからず、再び豚小屋生活をした。一週間程度そこで生活をしたが、米軍が目の前まで、火炎放射器で何もかも焼き尽くしながらやって来た。私たちは「もうこれ以上どこにも逃げる方法はない。ここで殺されるより降参したほうがよいのでは」と家族で相談して、私は食糧を担いできた棒に古風呂敷をくくりつけ、降参旗を上げて、先頭になって出て行った。 米兵たちは、私たちに銃を向けながら、「ここに来い」と手まねきした。私たちは捕虜となり、部落内の広場に集められ、兵士なのか、民間人なのかの検査をされた。私は民間人の部類に入れられ、トラックが通れる道まで、一列縦隊で、米兵が列の前後と中央部の監視をしながら歩かされた。その途中、ちょっとした岩山に横穴があって、日本兵が一人抵抗したのか、射殺されており、2、3名の米兵が死体の頭から足の先まで、何百発という程の弾を撃ち込んでいるのを見て「戦争は絶対にしてはいけないな」と思った。2、3発でいいはずなのに死体に何百発も弾を撃ち込むなんて「戦争とは実に恐いものだ」と実感した。 あのようなことをするのが、戦争というものかと思った。私たちは、トラックで伊良波に運ばれた。そこで、若い者は、負傷や病気で死んだ人や栄養失調で亡くなった人たちを埋めるための穴掘りをさせられた。死んだ人を担架で担いで来て、その穴に何かをころがすように入れて、穴が一杯になると埋めた。私は穴掘りだけだった。 死人を見ても、恐いとは一切感じなかった。殺害された跡を見ると血がまっ赤にとび散っている。死人を穴に投げ込むのを見ても、かわいそうだなとは思ったが、それ以上感情は湧かなかった。戦争でいろんなことを体験して来たからにちがいない。 自分の身の危険だけを考え、死人なんか恐いという感じはしなかった。伊良波に一週間ばかりいて、それから真玉橋近くの、今の家畜試験場あたりの広場に連れていかれ、そこでも一人一人身元調査を受けた。誰も軍と関わりなしと言った。私は学校を卒業して、家にいたと説明し「民間人だ」と返事した。ここで2、3日過ごした後、石川に連れて行かれた。私の家族は私と別々になり、先に石川へ連れて行かれたらしいが、私はその事を全然知らず、後になって知った。石川で私たち若者は労働班として集団テントに入れられて、毎日米軍の楚辺(読谷)の港とか、民間の家を造るためといって、焼け残った民家を壊して材料を集めさせられた。ある時は瓦ぶきのすばらしい家だったが、トラックにチェーンをかけて引っ張らせ、1時間ぐらいで全部解体したこともあった。 その材料をトラックで運んで来て石川の部落内に住民の避難小屋を建てていた。周辺地域の残っている住宅を壊して造った。夜などは、夜間作業といって楚辺まで連れて行かれて、食糧置場の缶詰などの積みかえなどをさせられたが、その時分から「戦果」という盗みが始まった。 私たちは他の収容地域よりよかった。石川に収容本部があり、米軍の本部もそこにあったので、食べ物などは他に比べてよかった。衣服も不自由しなかった。石川でも、よく戦果(米軍の物品をかすめ取ること)を挙げた。石川に来たのはおそらく6月の下旬だったから、だいたい五ヵ月ばかりいて、その後伊良波に再度連れて来られた。伊良波で私たちは生まれて初めてクリスマスというものを知った。港などに停泊している米軍艦から盛んに、ブーブー、バーバーと汽笛を鳴らす音が聞こえるので、「これはおかしい、米軍が騒いでいるが何ごとだろうか」と聞いたら、クリスマスだと言う。あの時、クリスマスという言葉を初めて耳にした。その頃から、昼間そっと、上田の部落を見に行くことが出来た。私も自分の家がどうなっているか見に行ったが、ほとんどの家が焼失していた。伊良波から上田に帰ることを許された時、バンザイを叫びたい程だった。部落の人達は、焼失を免れた数軒に分散して、入れてもらい共同生活をしながら、茅を刈りたり、材料を集めたりして、材料が集まった所からみんな協力して家を建てた。その後、軍からトゥーバイフォーやテントなどの配給があったが、わずかの数で、みんなに行きわたる程の物ではなかった。全家庭の家が建つまで、みんな力を合わせて再建に努めた。 区民に対して、食糧の配給も行われるようになった。分配はムラヤーで、区役員が配った。ほとんどが缶づめ類で、標示は英文。中味は何なのか誰もわからない。適当に配られた缶を開けたら、おいしくない物が入っていたり、六ポンド缶をもらって開けてみるとトマトジュースが入っており、これだけ飲まされたという人も出た。 配給の時は、ムラヤーの軒下に下げてある酸素ボンベを鐘代わりに叩き、字民を集めたけれども、中味が何なのかわからない。もらった人達も期待と不安の入り混じった表情だった。あとは慣れて来て、だいたいの感じで、中味がわかるようになっていた。私も書記をしたが、配給の時は喜ばれたり、叱られたりで困った。米やメリケン粉などは袋に入っていて誰でもすぐわかったが、缶づめは大変だった。 米軍からの配給物資がとだえると、食糧問題に苦労した。他の地域は田んぼがあり、米を作っていたが、上田には田がない。主食は芋ばかりで、米は買って食べていた。そこで、ほとんどの区民が畑を掘り起こし、田を作り、稲を育てるのに一生懸命になった。どの家庭も米を食べるんだと精を出したが、数年後に砂糖きびの値段が非常によくなったもんだから、田んぼでは飯は喰えんと土を戻し、畑にしてきび作をした。せっかく苦労して作った田んぼをもとの畑にした。 (1996年8月聞き取り) |
| キーワード | 一般住民体験談、10.10空襲(十・十空襲)、伊良波収容所、戦果、配給物資 |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.721-725 |
| 出典1リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
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| 出典2リンク | |
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| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 上田 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
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| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類3 | 6010606市史編集 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類4 | 豊見城村史第6巻戦争編 |
