上田 大城 見教(南部避難・宜野座福山収容所)_1_全文

ID1170491
作者大城 見教
作者備考出身地「上田」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)上田_大城 見教_「宜野座福山収容所の医療事情」_1_全文
キーワード一般住民体験談、10.10空襲(十・十空襲)、宜野座福山収容所、伊良波収容所
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.716-721
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
上田
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容昭和19年になると私達第二豊見城国民学校の校舎も友軍の兵舎になった。私は11歳の4年生になっていたが、各字の村屋(今の公民館)が分教場の教室として使われるようになり、私達のクラスは勢理客先生と一緒に字宜保の村屋で勉強するようになった。字上田にも球部隊の兵隊が駐留してナカシジモーにも防空壕を掘っていた。兵隊達も夕方の明るいうちに壕掘り作業は終わり、そこから出た土を戦車防壁壕をする所にトロッコで運んでいた。学校から帰ってきてはトロッコに乗って遊んだりもした。それ以前からB29が1万メートル上空をゆっくりと機体を太陽に反射させながら南から北へ飛んで偵察していた。

 昭和19年10月10日は朝早くから、小禄飛行場の真上に、いくつもの高射砲の音が聞こえ、こんなに朝早くから、友軍の演習とは不思議だなあと思っていた。兄盛進は県立二中の2年生で、大きな天水タンクの上にあがって、今日はどうも変だと頭をかしげている時、役場の空襲警報のサイレンが鳴った。私は友軍のナカシジモウの防空壕に避難した。防空壕は友軍のトラックも入るくらい大きく掘られていて、下は20センチくらい水が溜まっていて立って避難していた。父や母兄家族が、どういうふうにどこへ避難したかは分からなかった。
 午後からは豊見城村はなんでもないことが分かり、防空壕もナカシジモウから東の地形も高くなっている小さい壕に移された。私達は壕の入り口から、航空母艦から飛び立ってきたグラマンが、那覇市上空から急降下して爆弾投下するのを見ていた。朝早くから夕方まで那覇市と小禄飛行場は大空襲に見舞われた。
 10.10空襲(十・十空襲)以前は、私達の門の両側の石畳の上に、約2メートルの高さの板箱に入った弾丸が置かれ、その上を天幕でおおって、昼夜歩哨兵が双眼鏡を持って守っていた。新門モーでは防空壕が二つ掘られ、そこへ私達の門の両側へ置かれていた弾を四人の兵隊さんが天秤棒でかついで運んだ。

 10.10空襲(十・十空襲)後戦争というものが身近に感じられるようになった。私達のうしろの細長い山に、出入り口が南北に貫通する防空壕掘りがはじまり、右と左に横穴も掘られた。完成して間もなく、グラマン機の空襲もはじまり、新門小(ミージョーグヮー)私達家族、徳新門小(トクミージョーグヮー)、新徳新門小(ミートゥクミージョーグヮー)、五男新門小(五男ミートクジョーグヮー)等親戚がその壕に入り、避難した。字上田に第1号の艦砲がおちたのはナカシジモーから300メートル離れた今の農協あたり友軍の防空壕があったところである。夕方戦車が大きな音をたてて動きだしたら、瀬長島と慶良間の間にいたアメリカの軍艦の電波探知機が察知して、艦砲をうったのだろう。それは一発だけだった。
 部落内にも艦砲が落ちるようになり、最初にその破片に当たって負傷したのが、〈〇〇〇〇〇〉叔父さんである。担架がなく、戸板に寝かせて〈新門小〉の門を入った所に運ばれてきて、うめき声をあげていた。伊良波毛の上空には、米軍のトンボが低空飛行で友軍の陣地を偵察し、昼間はグラマン機が爆弾投下や機銃掃射、夜は艦砲で昼夜攻撃していた。

 県立二中だった〇〇〇兄さんは、首里から南部へ撤退する時、家族へ会いにきた。陸軍の帽子に日よけのついたのをかぶり、上下も軍服を着、ゲートル(脚絆)をまいて、16歳だというのに、立派な陸軍の兵隊さんになっていた。
 私達はお父さんと母秀子の3名で、三番座で出迎え、兄は3メートルくらい離れた所に立って話すと父は「負け戦だから行かずに、お父さん達と行動を一緒にしなさい」と言ったが、「そうはいかない」と言う。「山羊汁があるので食べて行きなさい」と言ったが、「それもよい」と言って帰っていった。立派な軍服を着て立派な兵隊になっての最後の別れとなった。

 戦況も激しくなり、親戚も防空壕に避難する毎日となった。ある日防空壕の真上に艦砲の砲弾が落ちたが、人身の被害はなかった。四男〇〇〇叔父さんが艦砲砲弾で吹き飛ばされ穴のあいている所を、スコップで埋めなおした。ある日コツンと防空壕の中でゆれるようなかすかな音が感じられ、夕方になって上がってみると100メートル程しか離れていない所に爆弾が投下されていた。直径が10メートル、深さも10メートルくらいで中の土は爆薬で真っ黒に焦げている。爆弾では最大級のものではなかったかと思われる。〇〇〇母の知人も、西原の幸地から4・5名で、私達の家に避難に来ていた。私達の屋敷内に4発も艦砲弾が落ち、米軍は真玉橋あたりまで攻めてきているとの情報もあった。私達も南部へ避難しなければならなくなり、日暮れてから食料や衣料を持ち出かけようとした。五男の〇〇〇叔父さんは獣医で、病気になっていたが全員一緒に真っ暗な夜道を保栄茂から潮平へ向った。雨が降ったあとで保栄茂へ行く上り坂はぬかるんで、誰一人として口を聞かない。子供達もみんな食料や衣類を持って、1メートル位はなれていても、誰だか分からないくらい真っ暗闇だった。父は先祖代々の位牌を腹に巻き、救急箱を持っていた。

 潮平の村屋について夜を明かし、夜になったら喜屋武部落まで行った。家はみな焼きはらわれ、部落の人達もいない。瓦ぶきの一軒だけ焼け残ったのがあった。
 父は年とった人達と若者とに分けて壕に入れた。私達が死んでも君達が生きているし、君達が死んでも私達が生きているからと言った。

 私達若者は私が一番年下で11歳の〇〇〇兄さん、西原村幸地からきた比嘉〇〇〇さん、〇〇〇姉さん〇〇〇姉さん〇〇〇さん等8名で昼も夜も狭い防空壕に体を寄せあい、ひざ立て座りで避難していた。朝と夕方の50分間私達は防空壕から出て雑炊を炊いて食事をした。ある日の朝、獣医の〇〇〇おじさんへ、私の父が今日は変な予感がするから、この家にはいないで壕に行っていなさいと言った。〇〇〇おじさんは機銃掃射に当たって亡くなった。〇〇〇おじさんは右手にお箸、左手にはお茶漬けお腕を持ち、弾が胸を貫通してなくなっていた。幾日か経って〇〇〇おじさんの家族も防空壕近くに艦砲弾が落ち亡くなった。爆弾や機銃掃射、艦砲弾で亡くなられた人達を、東から西の方へ身内の方達が運んで、ほうむりに行くのをたびたび見た。戦争とはむごいものだなあと感じた。

 米軍は喜屋武部落のうしろの山まで攻めてきているという情報があって、父と〇〇〇おじさん達はどうせ死ぬのだったら豊見城村字上田の自分の家で死んだほうがよいと言った。30名近くの大勢の親戚が夜、喜屋武部落の海岸におりて行って、海岸伝いに帰ることになった。私は背のう(リュックサック)に自分の衣類を入れて背負っていた。喜屋武部落の海岸から名城部落の海岸を通って、真栄里部落の西海岸あたりまできた時、上陸用舟艇が待ちかまえていて、12メートル位の所でライトをつけたので私達はびっくりして走って引き返した。海岸づたいには帰れないことが分かり、みんな陸にあがり、東側の真栄里部落に向かった。父と〇〇〇おじさんの2人は部落のうしろがわ、東側の雑木林を通れるか調べに行ってかえってきて、沢山の電線がはりめぐらされていたと話していた。それでもそこから帰るしかなく、約30名の親戚が糸満方面の北へ向かってゆっくりゆっくり雑木林を歩いていくうち、暗闇に煙草火を見つけた。私達は引返したが、20メートル位行った所で夜営をしているアメリカの兵隊に気付かれた。2、3分機関銃のけたたましい銃撃にあい、私達はその場にうつぶせになった。機関銃の射撃もすんですぐ照明弾がうち上げられ、昼間のような明るさになった。一時大雨も降った。松とアダンバーとそてつのある所にみんな身をかくした。一睡もしていないので背のうをおろしてアダンバーに寄り掛かったらすぐねむってしまい、目覚めた時は太陽もそうとう昇ってかんかん照っていた。名城から糸満へ行く道路には沢山の避難住民が糸満方面へ行くのが見られた。家へ帰れるんだとみんな荷物を持って道に出て歩いた。戦車防壁壕がつくられ糸満へ行く所に将校だと思うが、米軍の兵隊2人は私達を見ていた。私達は糸満ロータリーから新島郵便局あたりの道路を渡ってしばらく行くと米兵に呼びもどされた。平らに敷きならされた所に集められ、所持品と荷物検査をされ、その後軍用トラックに乗せられた。糸満街道(今の331号線)と伊良波部落との中間の畑でおろされ、そこでこんどは中城村の島袋部落につれて行かれた。石垣、ふくぎの木の家と全部残っていて、私達は部落の南側のアメリカのテントがはられた所に収容された。

 父は部落の北西に四角いテントがはられた所で米軍の将校軍医二人と一緒に、戦争で傷ついた住民の診療や治療にあたっていた。

 島袋部落に約3週間収容され、今度は宜野座の西側の開墾地の福山の奥の方のセメント瓦ぶきの一軒家に収容された。すぐ近くに立派な大きな赤瓦ぶきの家があって、金網が張られた孤児院だった。福山の診療所も私達の家から250メートルくらい離れた所に建てられ、そこで父は傷を負った人や病気になった人達を治療し、午後からは宜野座病院へ行って治療にあたった。

 私が学校へ行っている時、学校といっても木陰で黒板教科書筆記用具もない所での勉強だった。伝え聞いた話では漢那キャンプに医学博士のレオン・ルイス(Leon lewis)将校軍医が松岡政保(後に行政主席)先生を通訳に、私の父に病名の分からない患者を診察させ、父が病名を言い、同様に沖縄出身のお医者さん二人に同様のことをさせた。不幸にもその患者が亡くなって解剖したら、私の父が言った病名があたっていたということでレオン・ルイス軍医は父を信頼した。週に一度は訪ねてきたが私が、「You house Kanna?(ユー ハウス カンナ?)」と英語で言っただけで今まで以上に可愛がられるようになり、金髪の看護婦兵も3、4名連れてくることもあり、お互い往来するようになっていた。

 米軍が沖縄へ上陸した時に来島した、いとこの〇〇〇兄さんは米軍の陸軍の軍曹で情報部に所属し、宜野座の大きなコンクリート建物(現宜野座高校)のうしろの一軒建ての瓦葺きの家とジープがあてがわれ、よく福山の私達の家にきていた。一度福山の収容所で東西にのびる道路で、ジープのハンドルを私に持たせ、ブレーキやアクセルは〇〇〇兄さんが操作してジープを運転した経験がある。漢那キャンプのレオン・ルイス軍医とJ・アーレン・チェイス(J Allen Chase)海軍大尉が日系二世の渡辺さんに11歳になる私を迎えにこさせた。キャンプではレオン・ルイス軍医とJ・アーレン・チェイス大尉とは四角いテントに2人で入って、私がテントの中に入るとレオン・ルイス軍医は机に顕微鏡を置いて医学の研究に余念がなく、J・アーレン・チェイス大尉は机の前で私をひざにだっこして英語を教えてくれた。多分

「What is your name?」
はっきりとミノリオオシロと答えたのだろう。名刺の大きさの白い厚紙に
MINORI OSHIRO
LEON LEWIS
J ALLEN CHASE

とアルファベット文字で押印して、その名刺を私にくれた。3名で海水浴をしたり写真をとったり、夕食時にキャンプの食堂にもつれて行ってくれた。

 昭和20年(1945年)の12月、ジープで日が暮れてから金武に映画を見にも行った。私は後ろの座席に座って北風が吹いて寒かったのでJ・アーレン・チェイス大尉がジャンパーを私に着せてくれた。あれから54年にもなるがそのジャンパーは私の所にある。今あるキャンプハンセンの第一ゲートから石川向けにまがり、下り坂になっている左側に入った所の露天で大きなスクリーンに映画が映し出されていた。
 昭和20年(1945年)の夏、キャンプ漢那へ行った時私に着せる帽子シャツズボンが、体にみんなぴったりあっていた。
 クリスマスには父母と私の3名漢那キャンプの御二人の将校のテントに招待されて、初めてケーキ等御馳走を出して祝うことを知った。
 福山の入り口の方の長方形のテントに住民は収容されていたので生活実態を知ることは出来なかった。
 私達は福山の開墾地の奥の方に住んでいたので宜野座に行くにも漢那に行くにも近道を通って行った。

 父からよくマラリアの話は聞かされた。それに効く特効薬キニーネがあってなおること等。福山の収容所でもマラリア患者が発生したこと等も聞かされた。
 昭和21年(1946年)の初めごろ、J・アーレンチェイス大尉はアメリカ本国へ帰り、レオン・ルイス軍医もアメリカ本国へ帰るからと父の所へ医療器具等をあげに挨拶にきた。(1946・1・24〈木〉)〇〇〇兄さんもハワイへ帰るからと挨拶に来た。(1946・2・21〈木〉)。

 私達家族も豊見城村上田に1946年(昭和21年)4月19日に帰郷出来た。家族や親戚の方達が生きながらえることが出来たのは、戦争中島尻の真栄里部落のうしろの真っ暗闇の雑木林を家へ帰る時、11歳になる私が煙草火を見つけたことによる。そのまま行っていたら機関銃の餌食になってこの世には存在していなかっただろう。

 戦争で亡くなられた方達の鎮魂と追悼を心から願わずにはおれない。

(2000年寄稿)

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