渡橋名 當銘 ミツ子(南部避難)_1_全文

ID1170481
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)渡橋名_當銘 ミツ子_「戦争の醜さを忘れない」_1_全文
資料内容当時、私は字伊良波に生まれ育って15歳だった。ある日、家族と共に朝食をとり、後片付けを済ませて学校へ出かけようと外に出たら、どこからともなくサイレンが聞こえてきた。また警報の練習かと空を見上げたとたんに、頭上に敵の飛行機が編隊を組んで那覇の方向へ向かって爆弾を投下している。みんなの顔がまっ青になり、うろたえながらすぐ近くの壕に避難したが、部落内はあぶないから山の壕に避難しなさいという連絡があった。溝づたいに這うように山の壕までようやくたどり着いた。その日は、那覇市と飛行場を集中的に爆撃し、部落内には弾丸一つ落ちなかったので安心した。この日が昭和19年10月10日で、体験者誰もが忘れられない10.10空襲(十・十空襲)であった。那覇市民約5万人が焼け出された最初の空襲だった。それ以来、私達学生も銃後の守りとして、学校へ行っても勉強もろくにすることなく、避難訓練、竹槍訓練の連続だった。上級生は、いも弁当を持って兵隊と共に壕掘りの手伝いのあけくれだった。

 お年寄りや、子供達は内地に疎開する方や、本島北部への避難で家族がバラバラになって生活をしなければならない状態だった。

 北部に避難する人々は乗り物もなく、ただ子供や荷物を背負って歩いて目的地を探し当てる。その道のりの苦しみは容易な事ではなかった。避難をしても、食糧不足で大変苦労が多かった。

 私達も父母と共に北部に避難しようと思って準備していたが、すでに時遅く、4月1日米軍は沖縄本島の読谷村、嘉手納より上陸し、本格的戦闘が開始されていた。それから後は、毎日のように、どこからともなく弾丸が飛んで来る。安心して外出が出来ない状態だった。部落もガソリンをまかれ、1日のうちに全戸が焼け出された。もう住む所もなく、湿気のある壕の中でのもぐら生活が始まった。友軍が早く来て撃退してくれる事を信じて祈る毎日だった。
 壕生活に入ってからは、食糧も少なく、お米も底をついたが、沖縄はイモがあったから助かった。イモとウズラ豆のおつゆや雑煮で腹ごしらえをし、艦砲の合間にサトウキビをとってきてかじり、飢えをしのいだ。大人は毎日暗くなってから、いも掘りに出かけたり、親戚の方々との連絡に行ったり、食糧の確保につとめていた。

 忘れもしないエピソードがある。
 ある晴れた日、久しぶりに艦砲射撃もなかったので、みんな外に出て弾丸が落ちた後の水たまりで、洗濯を済ませて、そてつや木の枝に洗濯物を干し、ついでにフトン類もみんな干した。しばらくすると1機のトンボ(偵察機)が飛んできた。ちょっと、変だと思って、みんな壕の中に入った。しばらくすると艦砲の雨が洗濯物を目がけて落ちている。また壕の周囲にも大部弾丸が撃ち込まれた。人身に被害は受けなかったもののたいへんこわい1日だった。
 干し物をした不用心に気付き、それからはみんなよく気を付けることにした。

 戦況は段々と悪化の一方で、中部、南部と、いよいよ最後の段階になって、米軍は、那覇、首里と進撃して来た。もう沖縄戦の被害は甚大で日本軍の犠牲者は増し、毎日のように負傷兵が多くなるばかりで治療する薬もなく、かわいそうだった。
 那覇、首里に向かった兵隊で、もといた壕に帰って来るのは、わずかしかいない状態だった。私達の家族も壕をはなれて、一刻も早く後退しようとあてもなく南部へと進んで行った。途中で艦砲や機銃掃射に合いながら、三和村(現在の糸満市)の字真壁まで行った。道端には人や家畜の死体がごろごろと横たわっていた。
 もう生きたここちはしなかった。目をおおうばかりだった。父が「どうせ死ぬなら、自分の家で死んだ方がましだ」というので、また後戻りをした。字真栄里まで来ると、米軍が私達を追いかけるように、すぐ近くまで来ているとの事で、もうどうしようもない。かくれ場所を探し、身を寄せ、弾丸をよけるだけだった。気力を失い、一軒の小屋に入っていると、迫撃砲にあい、私も母と共に足に負傷した。もうどうにもならず、父が見つけた1つの小さな壕に移った。
 その翌日、私達がいた小屋は爆撃にやられて丸焼けになり、多くの方々が亡くなったと父に聞かされた。私達の家族はただ1日のずれで弾をのがれ、九死に一生を得ることが出来た。今から考えてみると、ほんとに身震いがする。
 忘れもしない6月20日、私達の家族は壕の中に手榴弾を投げ込まれたが、ほかの家財道具に当って難をのがれ、そのまま捕虜の身となった。高嶺村国吉ビラより糸満に向かう途中、一人の日本兵の死体のそばを通った。前日、斬込隊に向かったらしく、日本刀を片手ににぎりしめてうつぶせになって倒れていたのがいまだに印象に残っている。
 着のみ、着のまま一銭の金もなく、米兵においたてられながら糸満に下りて来た。
 もう見るも無残な姿に変貌してしまった山や町を振り返りながら見ると、一面焼野原で、米軍が壕の中を火焔砲射撃で焼きつくしていた。頭上に弾が落ちてこないので、自分たちはもう助かったという実感が湧いた。

 糸満潮平の浜から上陸用舟艇に乗せられ中部に行き、それから家族も別々に分散させられた。母と私は病院へ、父と弟妹は金武村の中川へと分けられ悲惨なものだった。米軍の少しばかりの配給物資でバラック生活が始まった。 私の体験はごく一部だが、戦争を知らない子供達に二度とこういう悲劇をくり返すことのないように参考になればと思う。世界の平和を祈りつつ。

(1981年1月寄稿)
キーワード一般住民体験談、10.10空襲(十・十空襲)、南部避難
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.713-715
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
渡橋名
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
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収納分類4豊見城村史第6巻戦争編

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