渡橋名 高良 健二(村内避難)_1_全文

ID1170471
作者高良 健二
作者備考出身地「渡橋名」、1930年(昭和5年)生、14歳(県立二中1年)
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目村内避難
資料名(別名)渡橋名_高良 健二_「スパイ容疑の恐怖」_1_全文
キーワード一般住民体験談、村内避難、10.10空襲(十・十空襲)、二中
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.711-713
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
渡橋名
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容昭和20年2月から3月頃にかけてのことだったと思う。日本軍は沖縄本島へのアメリカ軍の上陸予想地点を与根海岸一帯と想定していたようだった。もし、敵が上陸したら、糸満街道(現在の国道331号)が防御の第一線地帯となり、続く第二線が現在の県道7号線付近だと言う。
 そのため、私たち字渡橋名の住民は、第二線地帯後方にあたる饒波方面に急遽移動させられることになった。しかし移動先は場所が確保されているわけでもなく、どこでも構わないからとにかく第二線を越えて移るようにとの命令だった。当然、軍命に従うしかなく、ほとんどの字民は饒波集落周辺へと移動した。私の家族は知人を頼ってその家の壕に一緒に入れてもらったが、なかには集落近くの墓の中などに身を寄せた家族もあったようだった。移動の期間も短期間なのか長期にわたるのか詳しい内容も指示されなかった。そのため人々は僅かの食糧、着替えなどを持って取り急ぎ字を離れた。

 着の身、着のままの状態で字を離れたため、日々の食べ物を確保する必要があり、饒波から渡橋名までを毎日往復し、自宅や自分の畑などから食糧等を運ぶ役目は主に若い人たちに任された。そのころの集落内はといえば、道を歩く人影もほとんどなく、シーンと静まりかえり、寂しさよりも不気味な感じさえした。人がいなくなるとこんなにも寂しくなるものかと少年の心にも強烈な印象を感じた。
 ある月夜の晩、いつものように食糧を取りに字に集まった中学生同志4人で過ごしていたときのこと。当時私は中学1年、もう1人が中学2年、あとの2人は工業学校の3年生だった。集落内の寂しさを紛らわすために、私たち4人は学校や日本兵から教わったモールス信号や軍歌などをハーモニカと交えて親戚の屋敷の門口で歌っていた。歌い終わったとき、いきなり数名の日本兵が現れ、私たち4人をすぐその家の中庭に連行した。たちまち銃に着剣した大勢の日本兵が私たちのまわりを二重三重にも取り囲んだ。
 あんまり急な出来事だったので、私たちは何がなんだかさっぱりわけが分からない。やがて班長らしき兵隊が、「この家を全部捜索しろ」と命令した。部下の兵隊たちはすぐさま「ハイ」「ハイ」と大きく返事をし、家の中を調べ始めた。しばらく捜索して兵隊たちが戻ってきた。「アンテナは見当たりません」「異状なしっ」などと、次々に報告していた。そのあと、この班長が「この家の人はどこへ行ったか」と聞くので、私は「ここの叔母さんは親戚の家にいます」と返事をした。この叔母さんは他の人々と一緒に饒波には行かず、字内にとどまっていた数人の中の4人だった。「ではそこの家を案内しろ」と言うので私はその場所まで案内した。班長はそこで叔母さんといろいろ話し込んでいるようだった。そのあと、この班長が私たちに向かって「実は先程、あの家の屋敷裏で密かに聞いていたんだが、通信をしている音を確かに聞いた。さらにその通信の音を隠すためそばでは軍歌を歌っていた。きっとアメリカ軍に通信しているスパイがいると思う」と言った。私はすぐに「そのことなら私たち4人がやりました」と答えた。驚いた班長は、それならここで実際にやってみろと言うので、私たちはこれまで教わったモールス信号などをハーモニカで「トンツー、トンツー」「ピーピー」などとやってみせた。それを聞いて納得した班長は私たちがスパイでないことをやっと認めてくれた。
 思えば、その班長や部下の兵隊たちは、私たち渡橋名集落のすぐ後ろの山裾に兵舎を構えていて、ふだんは声を掛け合うほど顔見知りの仲だった。しかし、兵隊らは戦争に関することとなると目の色を変え、これまでの付き合いも全く関係なく私たちを疑いの対象とした。これまでに見せたことのない冷たい表情と鈍く光る銃剣に囲まれたときにはたとえようのない恐怖感で背筋が凍りついた。
 班長が私たちに「中学生のお前たちはよく勉強をしているから、逆にスパイになれることも考えられた。」とも言っていた。あの沖縄戦でそのような役職や能力があるために、味方であるはずの日本軍からスパイ容疑をかけられ殺害された人もいたと聞く。私たちにかけられたあの「疑い」と何か共通点を感じた。

 移動先での饒波での生活は1週間ほど続いたかと記憶している。その後三々五々と字民らは渡橋名へと戻ってきた。軍から特に移動命令が解かれたわけでもないが、戻ってきたことを咎められることもなかった。きっと中頭から敵が上陸し与根海岸からの進攻はないものとみたためだった。
 戦争になると、普通の人間でも異常心理にかられ別人と化すのだということをそのときの出来事で痛感した。もし、あのとき私たちが自らのスパイ容疑について説明できなかったらー。あの兵隊たちの銃剣で殺害されていたかも。まさに思い起こすたび戦慄を覚える。今もときどき恐い戦争の夢をみることがある。私の脳裏からはあの戦争の恐ろしさを永久に忘れることはできないと思う。

(1998年9月寄稿)

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