伊良波 大城 フミ(南部避難)_1_全文

ID1170461
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)伊良波_大城 フミ_「白いシラミ」_1_全文
資料内容私は戦争当時は30歳で、家族は私、夫、夫の両親、祖母、子供3名、義姉妹6名の14名だった。

 10.10空襲(十・十空襲)が始まる前は、兵隊が壕を掘りに来ていた。私は渡橋名にいて、そこから壕を掘りに行った。私の親戚のうちに中尉がいたが、部隊名は仲村隊といった。当銘〇〇〇さんのおうちに中尉は寄宿していた。渡橋名には大きい公民館があったので、そこには兵隊達が泊まっていた。壕を掘りに行く時には、水を飲ませたり、食べ物をあげたり大変だった。
 「軍へ協力しなさい」はなかったけど、私の親戚達も兵隊に行っているから、言われなくても自然にやった。私達は豆腐を作った時には、壕に夕御飯を持っていった。兵隊達はひもじい、腹減った減ったと言っていた。大きい鍋に芋も炊いた。また、男も女もみんなで壕掘り、さらに掘った土を運んだりさせられた。私は小さい子を抱えていたから、行かなくてすんだ。兵隊さんたちは、姑の子が年頃でミシンを使っていたので、何か縫わしたりしていた。当時は歯ブラシや歯磨き粉などなかったので、兵隊さんが自分のものから持ってきてくれた。

 10.10空襲(十・十空襲)の時分は、主人は読谷に行っていた。兵隊で、泊まる所は、古堅の小学校付近だった。
 主人が戻ってきたのは捕虜になってから。読谷に米軍が上陸した時には、1日戦ったらしい。急に米軍が来たもんだから、国頭に逃げた人もいたし、また、こっち(中・南部)に来る人もいたし、主人は捕虜になってから、こっちに戻ってきた。収容所は胡屋だったらしい。
 主人は21歳の時、徴兵検査を受けて兵隊に行っていたが、また、戻ってきて働いていた。戦が始まったからまた召集された。あのころは沖縄の人はみんなこんな状態だった。

 昭和20年の3月ごろ避難するようにと命令がでたから、私たちは舅の友人の住む饒波部落に避難した。与根の海岸から上陸する恐れがあるからということと、舅の親戚の方が金持ちで、畑もたくさん持っていたから。そこには以前、兵隊さんが掘ってあった壕があったから、昼中は壕にこもって、お父さんお母さん達は、おうちで食事を炊いていた。また、お米はすぐには食べられないから、石臼で籾をとっていた。私たちは空襲が止む夕方になると伊良波の畑に行って芋を掘って持っていった。伊良波でも空襲はあったが、現在の長嶺小・中学校、また、伊良波小・中学校のような高い所は集中的に激しく、低地にあった饒波の部落は、盆地になっているからあまりなかった。
 空襲が激しかった所は、平良近辺だった。饒波の部落には、1ヵ月くらいいたはず。その後は自分の家に戻ってきた。その後5月15日ごろだったと思うが、初めて山の方に迫撃砲が落ちた。敵の飛行機が20メートルおきに爆弾を落しよった。迫撃砲の砲弾が、散ってバラバラになって落ちていた。
 その後、渡橋名の大きい壕に避難した。それから自分たちの家族と渡橋名の家族、それに兵隊さんが杖代わりの棒を10名全員にくれた。夜も歩かないといけないから使うように、とのことだったが、そのころはもう兵隊達は解散になっていたはずだから、私たちを行かして自分たちがその壕に入るつもりでいたと思う。

 知念に向かって出発したが、その日に艦砲射撃があったらしい。昼は知念に、夜は糸満の潮平に落ちたとのこと。それで妹のお母さんの兄妹が、糸満のクファングワ(小波蔵)という部落にいるというので、知念に向かっていたのを方向を変えて小波蔵に変更した。
 ところが、親戚の家は直撃を受けて全滅していた。その夜は、そこに泊まって出られないから、空襲があると小さい防空壕に私も姉も子どもたちを抱きかかえて入った。また、壕に入れない人は、かまどの後方に隠れ、そのようにして一晩を過ごし、翌日喜屋武に行った。その時は、喜屋武には誰も避難してなくて、私たちが最初だった。以前に兵隊さんが、逃げるときには、一番初めの方が安全だからと言っていた。
 喜屋武に行く途中、名城の方で渡橋名にいた日本兵がたくさんいて、私達の名前を呼び、「こっちは安全よ、おいでなさい。」と声をかけられたが、私達はそのまま喜屋武に向かった。喜屋武についたら、そこの人達は全員が疎開して誰も住んでいなかった。私達はみんなで探して、大きい壕を見つけた。家の後方にあって、木もたくさん生えていて19名全員が入った。それから10日間は誰も来なかったが、その後は毎日人が集まってきた。自分たちは、一番初めにきたので、井戸から水を汲んで使っていたが、たくさんの人がくるようになったので、下の湧き水=海の見える所にあるヒージャーガーに2人ずつ水汲みにいった。沖の方には米軍の船がぎっしり、すき間もない程泊まっていた。海の方から陣地に向かって(今の健児の塔)艦砲射撃が1日に数百発の時もあった。
 喜屋武に来てじきの時は、キビを取ってきて食べていた。男が3人いたからキビを取りに毎日行っていたが、艦砲が畑に落ちて後は一間ごとに落ちるようになったので、それからはキビも取れなくなってしまった。また、喜屋武の前の方の前島という部落に夕方、水を汲みに行った時は何でもなかったのに、翌朝行ってみると、一晩で部落全部が焼けてなくなっていた。米軍が焼き払ったのだろう。私達は2人ずつで水を汲みに行ったが6月20日の朝、人の姿が見えないので、「なんで今日は誰も見えないのか」と思いながら壕に戻ってみると、アメリカ兵が来て捕虜になった。自分たちは最後に捕虜になった。そして、糸満に集められ、そこで男と女に分けられた。それから戦車に乗せられた。「もう死にに行くんだねー」と泣いている人もいた。また、姉は産婆をやっていて道具も持っていたから、子守に使う帯でみんなをくくって一緒に死のうと話し合っていた。ところが、戦車ごとに大きい軍艦に乗せられて、北谷の浜についた。北谷では、他から来た捕虜の人達を各収容所に分けた(米軍の兵隊が)。自分たちは安谷屋の収容所に行かされた。その後、安谷屋から金武村の中川という所に行かされた。

 収容所での食べ物は配給があった。ビスケットとか…。国頭の中川では、赤痢にかかる人もいるし、頭もみんなシラミがいっぱいでDDTをかけられた。普通のシラミは黒っぽいが、あの時のシラミは白だった。お風呂に入れなかったから。洋服の裏、袖なんかの縫い目にもたくさんいた。
 安谷屋では何もさせられなかったが、中川では兵隊の服の洗濯とか、また、畑にも行かされた。洗濯は金武のウフガーという所に車でつれていかれてさせられた。金武では稲刈りもさせられた。その時はアメリカーの指示ではなく係がいてやった。
 金武では、米があって脱穀機もあった。

 米軍が読谷から上陸したことは主人から聞いた。妹の主人や他の人達も村に戻ってきていたから。私の主人はもう死んでしまったかもしれないと思っていた。読谷では一晩戦っているから、みんな散り散りになって自分の村に直接戻ってきた人もいたし、国頭に逃げた兵隊もいた。自分の主人は、捕虜になってから昭和21年の1月ごろ戻ってきた。国頭に逃げる途中でやられて死んだ人もたくさんいたらしい。

 中川の収容所から米軍のトラックに乗せられて、渡橋名へ行った。そこにはもうアメリカーがいた。座安、伊良波、渡橋名にかけてテントがあった。
 それから伊良波に戻ってきたが、家があちこち残っていた。私の家はなかった。

 収容所から戻ってきたのは昭和21年1月ごろだと思う。戦後の生活は畑があるから、芋を掘って食べた。自分の畑、他人の畑と関係なく掘って食べた。また、そのころからは、アメリカ軍から配給があった。1人当りいくらとか、衣類とか食料とかがあった。

(1996年3月聞き取り)
キーワード一般住民体験談、10.10空襲(十・十空襲)、徴兵検査
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.708-711
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
伊良波
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類36010606市史編集
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編

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