伊良波 瀬長 晴喜(村内避難)_1_全文

ID1170451
作者瀬長 晴喜
作者備考出身地「伊良波」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目村内避難
資料名(別名)伊良波_瀬長 晴喜_「日本軍は住民を助けない」_1_全文
キーワード一般住民体験談、供出、10.10空襲(十・十空襲)、収容所
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.705-708
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
伊良波
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容私は昭和4年生まれで、当時は16歳だった。家族は、両親と子ども5名の7名だった。10.10空襲(十・十空襲)が始まる前の部落は平和だった。その後からが大変だった。

 戦争が近づいていると感じたのは10.10空襲(十・十空襲)で小禄飛行場がやられるし、那覇市街がやられたからだ。一週間くらい燃えていたと思う。
 10.10空襲(十・十空襲)の後から部落の様子は変わりはじめた。友軍の兵隊がツルハシで壕を掘って後の土の片付け、土運びを2人1組でやらされた。今の伊良波小中学校の下辺りにあったのが球部隊だったと思う。あのころは小学校の高等科だった。高等科は2年まであった。
 学校に行けなくなったのは、10.10空襲(十・十空襲)の後だ。あの時は空港周辺の小禄の字大嶺、鏡水、それから垣花辺りの人たちが家を焼かれたために、避難をしてこの部落に入り込んできた。あれからもうゴチャゴチャになって、学校にも行けなくなった。

 部落の人達は少なかったけど山原に5~6軒、宮崎の方にも2~3軒は避難した。空襲は、この部落は少なかったから疎開は少なかった。この部落から、出征したのは、私の兄以外に5名だった。21歳以上は現役でいっている。防衛隊は、満18歳から49歳までは非常召集だ。訓練も受けていない、すぐ引っ張られて郷土防衛隊といった。

 戦争が激しくなった昭和20年の5月末以降は、この辺はほとんど南の方(糸満方面)へ避難した。食物は米と非常食で、黒砂糖、でんぷん、味噌、塩、この程度のものをもって行ったと思う。家族はみんないったけど、私は行かなかった。ウーマクだったから、担ぐのがいやだったから行かなかった。行かなかったというよりは、あんたたちは防衛隊でも何でもないんだから、できれば残って部落を守ってくれと、区長から話があった。
 その当時は16歳だった。父は供出係だったから、父と私は行かなかった。当時は姉たち2人も部落にいた。

 軍への協力については駐在と区長が来て、「出なさい」と言われた。女の人も全部土運びをやっていた。今の中学2年生、高等科の生徒から出されていた。
 父は供出係をやっていたから、いつも部落の中にいて瀬長島、与根の方からバンバン艦砲射撃があって、それでやられた。あの時はひどかった。部落は大分被害を受けた。瀬長の沖の方には、軍艦がいっぱいしていた。あの時は、人が住んでいた家が10軒ぐらいあって、飯を食うために火を炊いていたもんだから、煙で知られて、上から偵察機が無線で連絡して、バンバンやられた。ムラの約70パーセントぐらいは焼けただろう。7名の人が亡くなった。
 日本軍は住民を助けることは全然ない。昼は壕にかくれて、夜は出てきて民間の蓄えものをとる。また山羊、牛、豚とかを壕に持っていって食べていた。

 最初、米軍は南部の港川から上陸すると聞いて、みんな家の後の通りから陸軍が大砲などもって、集中して移動していった。しかし、実際上陸したのは中部の海岸だった。
 爆弾は那覇の方に落としてた。小禄方面に落ちたのは見えた。この辺は、艦砲射撃でやられた。

 南部へ避難していた家族と再会したのは、戦争の終わりごろだ。この部落で米軍の捕虜になって中城(北中城村)の安谷屋に連れていかれた。そこで知っている人に母が宜野湾の野嵩にある収容所にいると聞いたので、缶詰など食料を持って逢いに行った。捕虜当時、軍作業(ハウスの掃除)にいかされていたので、そこに来ていた同じ(野嵩からきていた)作業員から聞いた。
 捕虜になってから、安谷屋の十号という、10軒目の民家(空家)に収容された。食べ物は配給があって、お米、メリケン粉、とうもろこしなどがあり、安谷屋は別の所より食べ物は豊かだった。本部があったから。また、CP(民警察)が3名もいたから。配給をたくさん持ってきてくれたから、食べ物は十分にあった。
 その後、宜野座の古知屋(現在の松田)という所に連れていかれた。そこは茅葺き屋で、ずうっと奥の方だった。だから山に近いので日本兵が夜は出てきて、安谷屋から持ってきた食べ物の3分の2は持っていかれた。あんまりひどいので本部に行って訴えたら、アメリカのMPが来て機関銃を撃ったから、あれから来なくなった。
 収容所でつらかったことといえば、古知屋では土がやせていて植物もできないし、食べ物も少なかったから桑の葉っぱも食べた。見つけたときすぐとらないと、次の日はもうなくなっていた。配給だけでは足りなかった。

 安谷屋に連れていかれたのが5月ごろで、古知屋から豊見城に帰ってきたのがその年の暮れごろだと思う。米軍が南へ行っていると聞いて、捕らわれないうちに那覇方面へ逃げようと相談しあっていた。もうこっちは飛行機が飛んでいた。伊良波に飛行場があった。与根から伊良波にかけて。アメリカ軍が使った。
 飛行場は日本軍が作って、アメリカ軍が利用した。もう、あの時は糸満を越えている。那覇空港を落として、こっちは無風状態で糸満の方で激戦だった。地上戦というのは滅多になかった。首里城を落としたらもう、みんな向こうに(南部に)行っている。
 終戦の知らせを安谷屋で口伝えで聞いた。終戦の知らせを聞いたときは、家族のことが気になった。お母さんは生きているかと。終戦になってから、古知屋にいる人はみんな帰った。米軍が豊見城まで送ってくれた。戦争中のアメリカ兵は乱暴なことはなかった。軍作業に出ていたから片言の英語は使えた。

 戦後の伊良波部落の様子は、あちこち壊されていた。修理するとか、茅葺きの家を造るとか毎日が仕事で、みんなで協力して造った。
 食べ物はおいしいものはなかったけど、ひもじい思いはしなかった。畑にある芋と米軍からの配給の粉ミルク、お米もあった。戻ってきてから1年ぐらい経ってから軍作業に出ることになった。あの時分、もう捕虜を帰すことになって、それで自分たちが採用になった。今の小禄の金城に航空隊があった。約1カ年くらいで部隊が引きあげるまで勤めた。
 その後私は、部落の書記を勤め、衣服とか缶詰の配給とかをした。青年会長でもあった。農業もして生活を支えた。

(1996年3月聞き取り)

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