饒波 大城 千代(南部避難)_1_全文

ID1170441
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)饒波_大城 千代_「人間の手足が木の枝に」_1_全文
資料内容戦前の字饒波には、山部隊とか球部隊が駐屯しており、字民の人たちは壕掘りの手伝いをした。私には小さい子供がいたため、そういう協力は出来なかったので自ら進んで兵隊の炊事をたまに手伝った。

 家族から兵隊には主人が現役で行った。出征する時は、公民館に部落の人達や親戚の人達が集まって送別会みたいな催しをとり行い、万歳三唱で激励した。那覇港からの出港は情報が漏れないように秘密にしていたので、主人は私たち家族に見送られることもなく密かに出港した。10.10空襲(十・十空襲)の時は、最初は友軍が沖縄を守りに来ているもんだと思ってバンザーイ、バンザーイしていたが、飛行機が急降下し、煙がモウモウと立ちのぼったので空襲だと気づき、近くに掘ってあった壕にあわてて逃げ込んだ。サイレンもどこからともなく鳴り響いていた。この壕は以前から掘ってあった。壕には、親戚3家族と小禄の人、父の友人や知人も避難しに来ていた。

 いつだったか忘れたが、「戦争が激しくならないうちに避難したほうがいい。親戚3家族から1人の犠牲者も出すわけにはいかない。」との元軍人としての父の判断ですぐさま避難することになった。いろいろ身の回りのもの、黒砂糖とかイモクジ、豚油、塩や衣類とかを風呂敷につつんで与座、大里に行った。死体があちらこちらに横たわっていた。イクサはいくぶん激しくなっていて道は通れなくなっていたので、父も考え直したのか、こんな状態だったら「みんな死ぬんだから、引き返して家の近くの壕で一緒に死のう」と自分達の部落へ戻った。部落では山原に避難しなさいといろいろ騒がしくなっていた。父は家族のうち誰かが生き残り、両親と親戚の死に場所を、出征した兄達が帰還した時に伝えることが出来るように、妹が生きのびられることを願って、軍隊と行動をともにさせた。ところが、この妹が先に死んでしまったので、父は「娘を喰った、喰った」と思い出しては泣いていた。

 戦争はさらに激しくなり、敵も根差部まで来ているとの情報が入って来た。それで、姉の嫁ぎ先である上田の実家が空き家になっていたので、ここに一時的に避難するつもりで行った。だがすでに日本兵でいっぱいだった。結局私たちはここをあきらめ、保栄茂から高嶺村あたりを通り喜屋武まで避難した。喜屋武までの避難中、銀蝿が人の死体にいっぱいたかり人を形作っているのや人間の生の手足が木の枝にぶらさがっているのをみた時は怖かった。途中、知り合いの人に出会うこともなく、私たちの家族と親戚だけだった。

 喜屋武に着いたらもうこれ以上逃げる所は無く、やはり「家で死のう」と陸地を避け海岸線を着替えと食糧を少しだけ持って歩いていた。照明弾が上がって真昼みたいになって、人は見えたはずだけど私たち民間人は銃撃されて倒れる者は1人もいなかった。皆と一緒だったので怖いとも思わなかった。皆顔に煤を塗っているので誰が誰だか分からなかった。そのまま潮平・兼城まで来たが、この辺りにはアメリカ兵がいて捕虜となった。そこでは母親を無くした乳飲み子がムシロの上に30名ほど並んで寝かされていた。ここで捕虜になって後、私達は全員船に乗せられた。戦車みたいな船(LST・水陸両用戦車)だった。父も母も「この船はきっと沈まされるのだ」と覚悟を決めているようだった。

 私達はそのまま越来まで連れていかれた。越来の民家の瓦屋に100名ぐらいの人達がいて、家族単位でざこ寝していた。そこには半年ぐらいいたと思う。軍作業は強制的にさせられた。給料は無かったが食べ物は缶詰やメリケン粉、油等いろいろ配給があったから不自由はしなかった。
 しかし夜は怖かった。アメリカ兵が女子をお菓子や食べ物などで誘惑していたので顔に煤をこすり付けて真っ黒にし、髪もバラバラしてヤナカーギーにした。ある日の事、アメリカ兵四名が女子をお菓子や食べ物で誘いに来た時、男達はMPの詰所からMPを呼んで来た。そのMPをみてアメリカ兵達が逃げるものだから銃で撃ちよった。
 それから越来では、友軍の飛行機が米軍の飛行機に撃墜され、真っ赤に燃えながら落ちて行くのを見た。
 また越来は山が深いので、そこにはまだ投降せずに逃げ隠れしている日本兵達がいるものだから、アメリカ兵に撃たれて死体は見せ物にされた。かわいそうで私は見ることは出来なかった。自分の身内、知人かもしれないと思う人は確認していた。骨と皮になってやせ衰えていた。

 ここから他の収容所への移動はなく、豊見城村へは直接越来から帰って来た。渡橋名に帰って来た。父はここで大工仕事をさせられていた。また集団で芋掘りに行った。黒人兵が怖かったから、父が中心になって自分達の部落(字饒波)にも芋掘りや、野菜を採りに行ったりした。カボチャ、トウガの実の大きいのがある所には、必ず死体があった。カンダバーの葉がよく繁った場所にも必ず死体があった。それを見てビックリして逃げる人もいたが、私はこの時怖いとは思わなかった。

部落に帰れたのはいつだったか覚えていない。その頃は、隣の字高安には米軍の宿舎はまだ残っていたが字饒波にはなかった。

(1998年10月聞き取り)
キーワード一般住民体験談、10.10空襲(十・十空襲)、捕虜収容所、日本軍、米軍
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.703-705
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
饒波
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類36010606市史編集
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編

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