与根 赤嶺 カミ(村内避難)_1_全文
| ID | 1170431 |
|---|---|
| 作者 | 赤嶺 カミ |
| 作者備考 | 出身地「与根」 |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 村内避難 |
| 資料名(別名) | 与根_赤嶺 カミ_「弟の頭痛で命拾い」_1_全文 |
| キーワード | 一般住民体験談、 |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.702-703 |
| 出典1リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 与根 |
| 市町村2 | 豊見城市 |
| 字2 | 高嶺、渡嘉敷 |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
| 年月日(始) | |
| 年月日(終) | |
| 年代(西暦) | |
| 年月日(和暦)(終) | |
| 年月日(和暦)(始) | |
| 年代(和暦) | |
| 始期(年・西暦) | |
| 始期(年・和暦) | |
| 始期(月) | |
| 始期(日) | |
| 終期(年・西暦) | |
| 終期(年・和暦) | |
| 終期(月) | |
| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010606市史編集 |
| 収納分類4 | 豊見城村史第6巻戦争編 |
| 資料内容 | ある日、米軍機によって与根一帯が空襲された。その時屋敷内に簡単な壕を掘って隠れていた字民数名が被弾して死亡した。被害を目の当たりにして、私たちの家族は「アギ(内陸部)」が安全だと考えて、特につてもないのに字高嶺に避難した。ここでは他人の墓に入っていたが、怖いとは思わなかった。高嶺へは運べるだけの家財道具を持っていった。ヤギも7、8頭引き連れていった。字渡橋名を経由し役所の近くに来た時には友軍が戦車壕を構築しているところだった。友軍の兵隊は私たちのヤギを見ながら、「ヤギが上陸したねえ」とからかった。ここから県道を通って字高嶺へ直行した。 しばらくは高嶺に留まっていたが、ここも危ないと思って今度は字渡嘉敷へ移動した。そこでも短い期間隠れていただけで、間もなくして鐘がガンガン鳴り響き、立ち退きの指示が出た。こうなってはしようがないと思い与根へ引き返した。昼は壕、夜は家という生活がしばらくは続いた。私たちは「ヘーカタ(南部)」ヘ避難することになった。しかし、出発間際になって義弟が急に頭痛を訴え、荷物を担いで歩ける状態ではなかったので、しかたなく与根に留まった。今考えてみると、この義弟の頭痛のおかげで私たちは「へーカタ」ヘ行かずに助かった思いがする。そうこうしているうちに私たちはここ与根で捕虜になった。 私たちは家のすぐ近くの浜辺に生い茂るアダンの木の下の砂地に壕を掘って隠れていた。簡単に偽装もしてあった。ある日、いよいよ米軍が与根に進出してきた。浜には戦車や米兵が見えた。どう探し当てたのか、米兵が私たちの壕に近づいて来た。すると銃を構えて、「ヘイ!デロ、デロ」と。私たちは気が動転しながらも言われるままに壕を出て捕虜になった。するとこの米兵は、他の壕にも隠れている者はいないかと手様手まねで聞いているようだったので、私はとっさに「知らん、命ばかりは助けてください」と言ったら、米兵は「コロサナイ、コロサナイ」と言いながら、他に壕に隠れている者はいないかと繰り返すようだった。近くの壕に隠れていた親戚に手を挙げて出てきた方がよいと伝えた。さらに、父親が隠れている別の壕に行って皆捕虜になったことを伝えると、米兵が大勢いるのになんでここに来るのかと怒られた。米兵が勧めたタバコを父は吸わなかった。ちょっとした隙に父は米兵の目を盗んでここから逃げてしまった。 私たちは与根の広場に集められて、見たことのない大きな戦車みたいな乗り物(水陸両用戦車)に40、50名ぐらいつめ込まれた。ここからいったんは海に出て与根塩田の浜あたり(現在の与根ゴルフ場)に上がり、アカサチ毛、小禄の大嶺の浜沿いを通り、北谷へ連れていかれた。海に出た時には海中に捨てられるのかと思い心配だった。義母は、私がお米を持って戦車に乗ったら「どうせ殺されるのにどうしてお米を持つのか」と言った。北谷に着くと米とはがまは没収された。ここには与根の人達が大勢いた。ほどなくして喜舎場に移動させられた。ここ喜舎場では当時23歳になる妹を病気でなくしたが、葬式は簡単にしかできなかったのが心残りであるが、どうしようもなかった。ここにいた20日間ぐらい、まだ小さい子供を義母に預け、私は軍作業に従事させられた。次は古知屋に連れて行かれた。ここでは「クシグヮーヌメー」という所に薪にできる木材がいっぱいあった。又、ドラム缶も手に入ったので海からバケツで海水を運び食塩を作った。私たちは与根人だったのでたやすいことだった。ドラム缶1本から一升ビンぐらいの塩がとれた。古知屋から伊良波へ帰って来て、しばらくはテント生活をしていた。与根にようやく帰れた時には住む家もなく親戚の家にお世話になった。私たちの家屋敷は米軍の道路整備拡張(今の村道10号線)のため大量に砂利を採取され、潮が流れ込み池みたいになっていた。 (1999年聞き取り) |
