瀬長 高良 カマダ(山原疎開)_1_全文
| ID | 1170411 |
|---|---|
| 作者 | 高良 カマダ |
| 作者備考 | 出身地「瀬長」 |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 山原疎開(大宜味村田嘉里) |
| 資料名(別名) | 瀬長_高良 カマダ_「「海の獲物」を供出のこと」_1_全文 |
| キーワード | 一般住民体験談、供出、山原疎開、大宜味村田嘉里、日本軍 |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.699-700 |
| 出典1リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 瀬長 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
| 年月日(始) | |
| 年月日(終) | |
| 年代(西暦) | |
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| 年代(和暦) | |
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| 終期(年・和暦) | |
| 終期(月) | |
| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010606市史編集 |
| 収納分類4 | 豊見城村史第6巻戦争編 |
| 資料内容 | 私のお家は当時、トタン葺の大きな建物であったので陸軍、海軍の隊長さんが次々と入れ変り寝泊まりしていた。 海軍隊長の近藤さんとその使い人マサキさんとは大変親しくしていたが、その方々が生き残っているのかと大変気にしている。 私の娘〇〇(当時19歳)、〇〇(17歳)、〇〇(15歳)、長男(16歳)は日本軍への供出物「海の獲物」を採取する事が毎日の日課であった。 瀬長島の住民は働ける者はすべて海の幸、山の幸「野菜や魚介類」を供出する為に一生懸命に働いた。 3月頃になって軍の指令を受けて女子や子ども達は山原へ疎開する事になり、私たち家族5名も大宜味村の田嘉里へ疎開した。字民の50名ぐらいの方々が疎開したと思う。 (1981年1月聞き取り) |
