瀬長 上原 ウシ(南部避難)_1_全文

ID1170401
作者上原 ウシ
作者備考出身地「瀬長」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)瀬長_上原 ウシ_「子ども八人、母の苦労」_1_全文
キーワード一般住民体験談、村内避難、南部避難、ジジムイ壕
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 p.699
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
瀬長
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容私は当時小さい子どもを8人もかかえていた。自分1人で面倒見ながら山原まで連れていくのが大変不安であった。どうせ死ぬなら自分の土地で死ぬのがよいだろうと思って疎開しなかった。ほんとにあの当時自分が苦しみあえいできたことは語りたくない。
 最初は自分の防空壕に避難していたが空襲が激しくなってきたので自分の実家のある与根の部落に子ども8人をスンカーカラカー(引きずるように)して逃げた。
 しかし、与根も大変あぶなくなってきたので次は字我那覇のほら穴(ヤンガー)で約1ヵ月間わずかな食糧でなんとか生命を食いつないでいた。
 近くに日本軍の陣地があり、攻防戦が激しくなってきたので避難場所を探し歩いた。
 ほら穴が見当らなかったのでやむなく自分のお墓の中で祖先の遺骨を片隅に片づけ、約8日間あの世の人達と生活を共にした。このお墓も攻撃されたので与根のジジムイ壕に1泊した。
 次に翁長の壕で2~3泊した。小禄から移動してきた避難民と一緒に糸満、名城、小波蔵、喜屋武、福地、山城、束辺名、上里とさまよい歩いた。
 最後はアダンのミー(アダンのところ)で艦砲射撃を受けたが、運よくその場ものがれて九死に一生を得て、米兵の捕虜となった。

 当時の生活で赤ちゃんを持つ母親の苦しみは大変だった、栄養失調で母乳がなくなった。お腹をすかしているので子どもはよく泣く。子持ちは周囲の人々から大変きらわれた。親子心中を何度も考えたが出来なかった。幸いに女性の生理はほとんどストップしていたので大変助かった(精神的なショックと栄養失調が原因だったと思う)。あの当時は、本当に口にしたくないほど、苦しい毎日だった。

(1981年1月聞き取り)

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