名嘉地 上原 節子(南部避難)_1_全文

ID1170391
作者上原 節子
作者備考出身地「名嘉地」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)名嘉地_上原 節子_「兵隊の遺書も預かったが…」_1_全文
キーワード一般住民体験談、10.10空襲(十・十空襲)、山原疎開、大宜味村謝名城
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.697-698
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
名嘉地
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容私は昭和19年8月、暁6168平賀部隊で筆生として働いていた。同年10月10日朝8時前、山下町に家を借りていたので仕事に出ようとしたら近くの高射砲がドカン、ドカン鳴りだした。元軍人だった家主さんが出て来て仕事に行くな実砲だよと言った。空を見ると銀色に輝くB29がはっきりと見えた。那覇市の上空まで来ている。そのまわりを砲弾が炸裂するが届かない。しばらくしてからサイレンが鳴る。とまどい、からさわぎしていると兄にしかられ、家主の壕にかけ出した。早くも港の船々が黒煙を上げた。那覇市内もあちこち火災をおこしている。小禄飛行場方面も黒煙がもくもく上がっている。飛行機は低空であばれまわる。生きた心地もなく、ようやく夕方、母さん達のところについた。1日でこんなに負けの色がこく職場も失った。(女の筆生は危険だから兵隊に変わる)

 20年1月の下旬、母は弟三人を連れて大宜味村謝名城に疎開した。持って行った食糧もなくなり、私の和服は、味噌にかえたと。母は自分の着物も食糧にかえたと。一緒になった頃は骨ばかりでやせていた。浜に近いところは避難するように呼びかけられ、重い荷物を担いで逃げまわった。結局は、食糧がなくてもどって来る事が何べんかあったがよく弾の中をくぐりぬけたものである。

 4月に名嘉地の残っているわずかの家で芋を炊いていた時に直撃を受けて、ふっとばされた人がいた。家の形さえなく大きな池ができた。名前は、〇〇〇当時20歳位。その母が朝も晩も〇〇ー〇〇ーと名前を呼びながら泣いていた。糸満の方だった。
 当時の区長が軍人と一緒に若いものは軍に協力せよと呼びに来る。呼びかけで軍と行動を共にして、家族と離れた人がほとんど亡くなっている。

 6月になると傷病兵まで杖にすがって南下していく。私たち親子も4人南へと行った。夜、うめき声が聞こえる。死んだ人を数人見た。着いたところは真栄里部落、追いつめられて軍人も民間人も大勢集まっている。その中から私の声を聞いて兄が出て来た。4月1日初年兵になったばかりの兄が「疎開させなかった事がくやまれる。こんな事になってしまって残念だ」と言った。早く壕を探せと言われてすぐ別れた。壕探ししていると、長い剣をぬいた下士官らしい日本兵に「そこをうろうろするな、あっち行けー」とどなられた。敵もこわいが、味方の兵隊もこわいなぁと情けなくなった。重い荷物をおろして、一休みしていると一人の兵隊が話し掛けて来た。「軍は玉砕だが住民までは殺さんでしょうから、生きられる限り生きのびることですよ」と言った。
 部隊が炊事に使っていた壕があるから使いなさいと近くにある壕を見せてくれた。私たち3世帯14人一緒に来た仲間がみんな入ることが出来た。感謝をした。兵隊は、元気で生きのびる事が出来たらこれを国の母さんに送って下さいと、包みを出した。中に手紙が入っている。「死ぬ者に何も要らない印鑑、サイフ、万年筆、僕の持ち物すべてです」といいながら時計まではずして包みに加えたが、部隊名も名前も聞いていない。階級もわからない。何も言わずに去った。私も心身共に疲れていて1日の恐ろしい出来事が走馬灯のように頭をよぎる。その夜中、敵兵のペラペラ話す声が聞こえて来た。みんなおびえて一言も話をしない。夜明けまでに6発手榴弾が炸裂した。入り口にいた2家族の1人ずつ死んでしまった。1人は大けが。母は男の子を1人失い、抱いていた女の子をけがさせて気を失っていた。こわそうな米兵が「ヘーイ、デテキナサイ」を連発した。「最後だな。」と弟が自決用の手榴弾2個持っていたから、これでみんな死のうとしたが2個とも破裂しない。そこで、首をしめたが手足がしびれて苦しむだけ。仕方なく覚悟して着の身着のまま兵隊の預かり物も忘れて6月18日未明、捕虜された。それから具志川村前原に1年余り、豊見城に帰ってから兵隊の遺書も探しながら壕に行ったが、何一つ探せなかった。壕に入れてくれた命の恩人である兵隊さんがPW(注・捕虜)として生きていればと願い続けて来た。

(1996年寄稿)

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