我那覇 運天 ヨシ(村内避難)_1_全文

ID1170371
作者運天 ヨシ
作者備考出身地「我那覇」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目村内避難
資料名(別名)我那覇_運天 ヨシ_「空襲前の住民の協力」_1_全文
キーワード一般住民体験談、供出、10.10空襲(十・十空襲)
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.691-692
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
我那覇
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容はっきりと日時は覚えていないが、私の部落にもたくさん兵隊さんが入ってきた。今の公民館は、戦前は事務所と呼んでいたが、そこも、兵隊さんの生活する場所だった。また、部落内のかわら造りの大きな家は全てそうだった。飲み水も、住民と兵隊さんと共同で、今も部落内に残っているあの「ウフガー」と言う井戸を利用していた。食糧は部落の区長、役員の方々が各家庭割当てをして上等なおいもは皆、供出という制度のもと、シブイ、ナンクヮーという食べ物まで出し合って兵隊さんの方へ提供した。
 私達は、兵隊さんに「愛国心があるなら私達の協力をしなさい」と言われて、現在の豊見城村農協の後ろの上田の山に壕掘りに行った。二人一組でザルを持ち、壕の中で、兵隊さんの掘った土を外に運ぶ仕事をした。「疲れた」「ひもじい」と言うと、兵隊さんは「あなた達を助けに来たのに何を言っている、この壕が出来上がる頃は、日本軍は大勝利だ、頑張りなさい」と言われた。兵隊さんは壕掘りに一生懸命働いておった。

 10月10日の朝、南の空から銀色の翼をならべて、たくさんの飛行機が飛んで来た。兵隊さん同士の話で「今日は演習でもあるのか」と言っていた。いくらも時間のたたないうちに、空襲警報の知らせで、皆防空壕に走った。小禄飛行場の方は真っ黒いけむりが空高く見えた。それからは毎日、壕と家との生活だった。

 ある日の夕方、私達の壕の前で顔見知りの伍長さんと父親が話をしていた。「今晩あたり、瀬長島から敵が上陸するかもしれないから皆さんは危ないので、高安か長堂に避難しなさい」と。それで、私たちの家族、父母、兄夫婦、妹、弟、私の7名は、その夜のうちに少ない食糧をまとめて、照明弾の照らす中を高安に向けて避難した。高安についても、壕は他の人たちでいっぱいしていて、私たちの入れる壕はなく、しかたなく大きなウスクの木の下で1日を過ごしたが「死ぬなら、家の壕で死のう」と言う父親の言葉に、皆ついて帰った。軍からの情報も詳しく教えてくれないし、部落内の情報もない。皆自分勝手な行動だったので、字の人たちは南へ南へと行ったのだと思う。私たちの家族は我那覇の裏手の山の壕にずっと隠れていた。ヘーカタ(南部)へは避難しなかった。しばらくして「出てこい、出てこい」と呼ぶ日本語の上手なアメリカの二世の兵隊さんに「決して殺しません、安心しなさい」といわれて、全員壕を出た。瀬長島にトラックで運ばれ、そこから舟艇で仲順・喜舎場に移送された。

(1996年8月寄稿)

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