我那覇 運天 祐春(南部避難)_1_全文
| ID | 1170361 |
|---|---|
| 作者 | 運天 祐春 |
| 作者備考 | 出身地「我那覇」 |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 南部避難 |
| 資料名(別名) | 我那覇_運天 祐春_「手榴弾不発で生き残る」_1_全文 |
| キーワード | 一般住民体験談、沖縄県立第二中学校(二中鉄血勤皇隊・二中通信隊)、豊見城グスク |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.686-690 |
| 出典1リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 我那覇 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
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| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010606市史編集 |
| 収納分類4 | 豊見城村史第6巻戦争編 |
| 資料内容 | 私は昭和18年4月、豊見城第二国民学校高等科1年から沖縄県立第二中学校(二中)に受験、合格をし万感溢れる気持ちで同期生諸君と共に希望に燃えて入学したものである。豊見城の同期生には甲組の故新垣辰男君、戊組の故大城盛進君と乙組の私の3名が入学したのである。 確かなことは覚えていないが、私以外あの2人は下宿通学だったと思う。私は豊見城村名嘉地から二中まで自転車での登下校、約7キロの道程にペダルを踏む毎日だった。現在は国道331号のアスファルト舗装道路だが、当時は糸満街道と呼ばれ、急な坂道など難所が幾つもあり、追い風はともかく逆風の日には自転車があまり前に進まず、授業の定刻時間に間に合わすのはたやすいことではなかった。 4月入学後、1学期は皆と同様になんとか授業を受けながら経過したが、8月の夏休みに入るやこれまでの苦労が一度に吹き出したのか高熱におそわれた。肋膜炎を患ってしまい、2学期は3カ月も長欠してしまったのである。3学期も間近になり、このままもう1年休学を考え、兄(当時同校4年)に相談したところ、もう健康も回復しているようだし、落ちてもよいから通学した方がよかろう、と言われた。今度は二中に近い山下町に兄と姉と一緒に間借りをして自炊生活。そして徒歩通学をした。幸いにも姉が那覇港に駐屯していた暁部隊の経理部に就職が決まっていたので姉にはだいぶ世話になった。 休学中に私の脳裡を去来するのは、豊見城から二中までの距離は徒歩通学で可能だったはずなのに、自転車通学をしたために、あのような病気になって、と思えば残念でならなかった。 学年終末の3学期に入り、これまでの欠席の空白は私にとって肉体的、精神的に大変なショックで負担となった。特に授業科目の英語、数学、幾何等には大分遅れ、その上、教練・体操・柔道等については休まねばならない状態となり、その時間が終わるまで片隅で見学する。苦しく、つらい思いをしたものだった。 1年をふりかえり、私にとって入学時の希望に満ちたあの気魄が、また楽しいはずの学園がどこへ消え去ったのか病欠のため無情な1年、実につらい思いが残った。 いよいよ3学期も終わり、修了式を迎えた時、予想に反して2年生に進級できることを知り、非常に喜びを感じた。そのうえ担任であった屋比久先生から激励の言葉を頂いた時は、感激の余り言葉も出ず、ただ「ありがとうございました」で終わってしまった。2年生には教練の仲地先生の担任で丁組だったと思う。 その時すでに昭和16年12月8日に勃発した太平洋戦争は、緒戦にハワイ真珠湾奇襲作戦に続いて南太平洋の島々へ、そして東南アジアへの進出など果敢な日本軍だったが、昭和17年以降戦況は悪化、泥沼化の様相であった。しかし国内はまだ戦勝ムードにつつまれていた。 昭和19年2年生に進級。その年からは沖縄近海の戦況も悪い方向へと進み、1学期初めから日本軍への協力で陣地の構築に駆り出され、垣花・天久両高射砲陣地及び小禄飛行場の壕掘り作業等に従事させられた。 学生として本来学ぶべきことはまったくゼロで、そのために当時のクラスの仲間たちの記憶も余り残っていない状態である。 昭和19年の初旬頃だったと思うが、転戦中の日本軍船団が米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け多くの兵が犠牲となり、撃沈を逃れた艦船に救助された兵隊らが二中の校舎に収容され、校舎は兵舎となり、私達は野外授業を受けることになった。 1学期の中旬ごろから一部学生は本土へ疎開し、残り組の2、3年生の健康な学生は大半が鉄血学徒通信隊として石部隊に協力、入隊し、また別に1年から5年生までは学徒鉄血勤皇隊として金武国民学校に合宿し、軍へ協力することになった。 私達は、軍国教育で厳しい訓練を受け「鬼畜米英撃滅」を合言葉に皇国に一身を捧げる気持ちは少年といえども大きかった。「戦争は勝つ」を信じて疑わずの精神で身をかためていた。青雲の志に燃えて学生諸君は大きな夢と希望を抱いて勉学に励んでいくべきだった時代なのに、余りにも早すぎた戦闘参加であった。 昭和19年10月10日の大空襲には旧那覇市内全部を含め、二中の校舎も灰燼に帰した。私は体調がよくない関係で金武国民学校を拠点とする学徒鉄血勤皇隊への仲間入りとなり、別行動である通信隊の戦闘協力の状況は分からない。昭和20年1月上旬、私は金武国民学校へ集合せよ、との知らせを受け、先生方や上級生20名余と共に二中に集合し、金武へ向け出発した。 途中、はからずも名護行きの軍のトラックに遭い、先生方が事の次第を打ちあけ恩納村屋富祖まで乗せてもらった。そこから山道をたどって約1時間半で目的地の金武国民学校につき、一息入れた時は午後4時頃だった。暫くすると当地には配属将校や教練その他の先生方も一緒に学生が50名位集まっていたと思う。記憶は薄れたが私達の日課は木材の切り出しや教練の時間が主なものだった。1月といえば真冬だが、毎日朝夕は並里の大川まで行き、洗面、水浴び、洗濯等をしたことが強く印象に残っている。また同校には海軍特殊魚雷艇部隊(予科練卒)も同じく陣どっていた。 2月頃、同魚雷艇が友軍機の護衛のないままの金武湾での演習中、米軍のB24型機の低空機銃掃射を受け、何名かの戦死者が出た。それを見せつけられたとき制空権も制海権も米軍に握られたなあと半ば感じていた。学童疎開者の犠牲者が多かったころである。 3月中旬早くも2カ月経過した頃、戦雲は急をつげ、18歳未満の未成年者の戦闘協力には保護者の承認が必要なこと、と家族への面会も兼ねて1週間の休暇を与えられて帰宅した。 ところで3月1日の現地初年兵の入隊の日、敵機の大空襲があり、その後も毎日のようにB29が1万メートル上空で銀翼を輝かせ、飛行機雲が長く尾を引くのが見られた。いつまた大空襲があるのかと、戦々恐々だったが、ついに沖縄県民の運命の日がやってきた。 3月23日、米軍機動部隊は本島へ向けて続々と押し寄せ、もう上陸は必至であった。その日から敵機の機銃掃射や艦砲射撃など、一大攻撃が始まり、避難民は衣食など担げるだけのものを担ぎ右往左往する。守勢に立つ日本軍は馬車や荷車で軍需品の運搬あるいは集団による兵隊の移動など、慌ただしく動き大変な事態であった。私はとうとう金武へ行けず、家族と共に避難壕での生活が続いた。 戦闘は日増しに激しくなり、とうとう4月1日には嘉手納方面から米軍が上陸し、空爆、艦砲射撃、迫撃砲等が一寸の余地もないほど撃ち込まれた。 4月中旬になると、動ける者は老いも若きも軍に協力せよ、と警察官と軍人が各壕に呼びかけ、私も周囲の村人たちと一緒に軍の移動のための糧秣や弾薬運搬等に加わった。 夜7時ごろ豊見城城址の壕を出発し、その日は南部真壁地域への行程であった。途中、突然迫撃砲の攻撃にあい、私は腹部に長さ10センチ程の破片による傷を受けた。一瞬の出来事だった。大声を出し、知人に助けを求め、近くの山部隊の壕に行き、衛生兵の手当を受けた。その時も壕の入り口に差しかかった瞬間、艦砲の至近弾を10メートル内外に2発受けたが、九死に一生を得た。そしておよそ2週間分の薬とガーゼ、包帯をもらって友人と共に自分の壕に戻った。あの時、民間人多数が死亡した。それ以来砲爆の至近弾が激しくなり、壕内での生活を余儀なくされた。戦局・戦況は悪化するばかりで、豊見城村も危険となり、とうとう6月15日、私たちは南部の喜屋武を目指して避難することにした。隣り近所17名だった。その時、糸満や豊見城村には既に米軍が進攻する気配があり、南部喜屋武への脱出は一晩では不可能だった。兼城の報得川に架けられていた橋は日本軍の手によって破壊されていて、その川を渡るのに相当の苦労だった。さしあたり伊敷の集落に着いたが、その間にはたくさんの死体が道の上にもころがっていて、私達は75歳のおばあさんや小さい子供達も一緒だったので、死体を踏まずに避けながらの道程は、言葉で表せないほどの行動だった。伊敷集落に着いたものの身を隠す壕はどこにも見当たらず、やむなく16日の昼中は大きなガジュマルの木の下に身を隠した。夜を待つ間にたちまちこの付近一帯は何処からともなく避難民が押し寄せ、人ごみに迷わないように私達はグループの名前を大きな声で呼び合った。それは私達17名の無事を確認するためでもあった。その時突然一人の兵士が姉の名前を呼んで近づいてきた。姉は以前暁部隊の経理部で働いていたことがあるので、てっきりその時の知り合いの兵士が避難場所でも教えてくれるものだと神頼みにも似た期待感を抱いた。近寄るその兵士をよく見てみると、偶然にもそれは3月1日に入隊した兄(祐友)であった。 お互いに無事を喜んだのも束の間で、軍国教育を受け軍律にそむかない兄は、軍服姿のまま家族との別離を惜しみつつ、日米混戦状態の非常に危険な宵闇にと消えて行った。 夜中打ち上げられる照明弾のなかを、私達は逃げ隠れしながらようやく落ち着いた所が傾斜の削りとられた蛸壷壕だった。上は木の葉で偽装されていたが一発でも食らえばおしまいだ。他に避難場所がない。仕方なくそこへ身を隠した。 ところが一坪ほどの場所に17名でひしめき合い熱気はむんむんし、飲み水とてない。75歳の老人と幼児5名を抱え、その世話に四苦八苦だった。暑さと水ほしさに子供らは泣きじゃくり、親たちは手で子供の口をふさぐのに死に物狂いであった。 17日午前3時頃、若い18歳位の女性が焼夷弾に焼かれ、私達の所に飛び込むように助けを求めてきた。そのとたん米軍の歩哨兵に見つかり、手榴弾5発を投げ込まれ4名の犠牲者が出てしまった。私達はこれで最期だと覚悟を決め、日本軍から貰った2発の手榴弾の信管を抜き、地面に叩きつけた。しかし爆発しない。それならばと今度はマッチ棒をこすり、姉たち3名で必死に手榴弾の底のほうをあぶったが駄目。もう1発も同じように繰り返したが不発に終わった。朝5時半頃、東の空はもう白み始めていた。不幸中の幸いというか、私達が死を決しての手榴弾は信管を叩いてなく、その反対側を叩いていたため不発になっていたのである。まさに偶然の出来事であった。地面に伏している間、米軍が壕の上から偽装網を取り払い民間人だと分かると「出て来い、カムヒヤ」の連発で銃を突き付ける。私達は投降した。 「運命は神のみぞ知る」私達は捕虜となり、助かったのである。ただその時は死んでしまった人達に申し訳なく、静かな成仏を祈るのみであった。後になって知ることとなるのだが、豊見城村名嘉地の私達の周辺にあった壕にそのまま残った方々(3世帯、20名程)はすべて死亡されたとのこと。そのことを思うと、私達がとった南部避難の行動もまた偶然の出来事だったとはいえ、運命というものを感じざるを得ない。 米兵に発見され手榴弾を投げ込まれた際、一緒にいた3歳の女の子が肩の半分程をやられ大怪我をした。同じ兄弟もその時被弾により3人が亡くなった。その母親もそのショックで放心状態である。これから捕虜になり、どのように殺されるのか分からない。せめて兄弟の遺骸とともに最期を送らせてあげようという気持ちがあったのかも知れない。私達は泣く事すらできぬその子を死ぬものとあきらめて、そのまま壕を出た。すると50メートル位歩いた時、後方から米兵がこの子を抱いて私達のところに連れてきた。その子も今では3名の親となって元気でいる。 去る大戦で不幸にして還らぬ人となった同期生や兄を含め、たくさんの人々の御霊が本島南部の地に鎮まっている、と想うにつけ悲しみに堪えない。しかし、半世紀が経った今日、子や孫たちが平和に暮らせるよう見守っているかと思うと心の安らぐのを覚える。 (1996年9月寄稿) |
