我那覇 上原 ウメ(山原疎開(大宜味村謝名城))_1_全文

ID1170351
作者上原 ウメ
作者備考出身地「我那覇」
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目山原疎開(大宜味村謝名城)
資料名(別名)我那覇_上原 ウメ_「山原疎開の苦難の日々」_1_全文
キーワード一般住民体験談、山原疎開、妊婦
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.683-686
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
我那覇
市町村2豊見城市
字2我那覇
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容私は、大正14年mm月dd日生まれで、今年71歳になる。
 昭和19年8月頃、武部隊が、家の左側の畑にテントを張り、移ってきた。やがて球部隊、武部隊も部落に移ってきた。武部隊は、台湾転出の為船でやられたことを聞き(注・当時の噂。実際には無事台湾へ)戦はもう目の前にきている事が、ヒシヒシと感じられた。義父は、部落の書記で、何事にも詳しく、南部では危ないので山原疎開を勧めてくれた。義母と主人の弟を連れて山原へ行く事を決めた。主人も私と同じ20歳だったが召集で、近いうち兵隊にいくというのに、見送りもしないまま、私達家族は家を後にした。「私が兵隊に送るから心配するな」と義父に言われたので、お腹の赤ちゃんの為にも主人よりひと足早く出発した。主人も快く送ってくれました。これが、最期の別れだった。どこで、どういう死に方をしたのか全く見当がつかず、今では心が痛む。
 山原に疎開できる人は、60歳以上、女は乳飲み子をかかえた人、妊娠している人で、それにあてはまらない人は、区長から許可がおりなかった。
 私達が、家を出たのは12月だったと思う(注・実際には翌20年から山原疎開実施される)。山原の疎開地は、大宜味村の謝名城だった。歩いて、夜は学校などに泊り、与えられたおにぎりを食べて、3日ぐらいかかった。家も割り当てられて住む事ができた。1ヵ月半くらいすると生活は日々悪くなるばかりで、家から持ってきた食糧も、少なくなるし、これからどうしようと思っている時に、嫁いだ姉と子供3人と山で出会った。姉達は、食糧を充分持っていたので分けてもらった。10日ぐらいたった日に、母さんと兄弟5人と山で会った。母は、送った荷物が途中でなくなり、一つも荷物を受け取る事が出来ず途方にくれていた。内地疎開するつもりだったが、戦争が、悪くなり山原に来たとのことだった。山奥に逃げた人の避難小屋をみつけて暮らした。毎日のように艦砲射撃で、夜も山が明るく青く光り、ドッスンドッスンと大変な音がした。
 山では、水がおいしく感じられた。でも上の方では、洗濯している人や浴びたりする人もいた。
 島尻に帰れるとの情報を聞いて道案内にお金を渡し、一歩でも島尻に着くように山から谷、谷から山へと歩き続けた。人が捨てた物があれば何でも拾った。カンカラ、重い鍋などを棒で担いだり、頭に乗せたり、子供達も分担して運んだ。疲れたらどこともなく草を枕に寝た。大湿帯(名護市源河にある集落)という所までたどり着いたが、ここに来るまでどこをどう歩いたのか、見当がつかなかった。庭先に干したソテツも盗んで食べた。芋掘りに行って主に見つかり、取上げられもした。
 有銘部落に着いた。戦があるとは思えない程、静かで米作でとてもめぐまれた所だった。汀間の入口でいい方にめぐりあい、避難小屋を貸してもらい、屋根の下で、眠るのは久しぶりだった。でも、そこで姉の子が栄養失調で亡くなってしまった。
 数日が過ぎたある日の事、米兵が、汀間の山狩りに来るというので私達は、避難小屋から離れて後の山に隠れた。米兵は、私達の山小屋に火をつけて焼き払った。私も大きなお腹をかかえて逃げた。火は、後からやってくる。山は雑草でおい茂り歩くどころではない。大変だと思い、歩いて逃げるのが、間に合わず上から下まで転がりながらやっと逃げてきた。命がけだった。みんなバラバラになったが、大きな声で呼びかわしながら集まった。
 私達が、着いた所は汀間と安部・嘉陽という所で、川底を探して暮らした。天の助けか、雨も降らず干上がった所だった。雨が降れば川は水が流れる所だから、ある日米兵が5人くらい水筒を提げ、ガラガラさせながら水を探しに私達の所にやって来た。前線部隊の兵隊は、髪はボサボサで目は青くとてもおっかなく、震えてしまった。その時1人の兵隊が、私の頭を撫でていった。私はドキッとした。
 それからまもなくの7月5日、女の子が生まれた。それが、逆子で産婆さんもいなくて、土地の人が、取り上げてくれた。逆子で時間もかかり、生まれた時は、喜びの涙がほほをぬらした。この山奥で親子共死ぬのかと思った。たった1枚のニクブク(今でいうゴザ)しかなく、人が捨てたのを拾い、木につるしての、親子が入れるだけの家だった。雨が降れば、産後熱できっとあの世いきだっただろう。米2合、かつお1本の3分の1ぐらいが、私の産後のおいしい食べ物だった。何もかも焼き払われて何もない。赤ちゃんを生んだのは良いが、おしめもなく人がくれたカヤですませ、食べ物は土地の人が、海にハッパをかけたあとの死んだ魚を探し、また、半死の魚を私にとみんな気を配ってくれた。食べる物もなく海水を汲んで水を混ぜて炊き、木の葉、草の葉っぱと、片っぱしからとって食べた。みんな、みるみるうちにやせてきて、足がガクガクして何をするにも動くのが、おっくうになり、すわって日光浴したり、寝てばかりだった。あと半月もこんな生活が、続いていたら、みんな餓死していただろう。
 ある日の事、母が大きなカンカラに海水を汲んできて、1日中炊いて塩をつくってくれた。この塩は少しだったが、みんなでなめた。この味のうまさは、口にいい表わす事ができなかった。
 7月といえば、負け戦でみんなが、山からおりる頃で、米兵が私達のところに来て、山からおりるように言った。赤ちゃんを見せたら納得してタバコとガムをくれて立ち去った。兵隊もみんなが、悪い人ばかりでない事がわかった。母と弟を残してみんなで山をおりた。1週間ぐらいたって姉2人が、モッコと棒を持ってきて潮の引いた時に瀬嵩部落に私を担いでくれた。部落におりてからは、配給が少しずつあったので毎日がごちそうだった。戦時中に生まれた子も今は50歳、いい夫に巡り合い、男の子二人の母である。父の顔も知らずに生まれた我が子に幸多かれと祈るばかりだ。私の夫も還らぬ人となった。瀬嵩部落におりてからは、生活も落ち着いてきたが、私達を待っていたのは、マラリアだった。馬小屋みたいな小さな所で20名くらい、ひしめいて暮らしていた。でも屋根が、あるだけで、雨が降ってもぬれずに暮らせるので助かった。みんなが、毎日のように交替でマラリアにかかり、とても大変だった。寒くてブルブルふるえて2人乗っかってもふるえが、止まらなかった。
 マラリアにかかると熱が出て、水は飲むし、フラフラだった。マラリアで母が亡くなった。子供達を育てるのに必死だったので、疲れきって亡くなったと思う。
 アメリカ世になってこんないい生活が出来たのに、もう少し生きて欲しかった。今では、衣食住も足りて、こんな生活が、いつまで続いてくれるかと思う。今が最高の幸せじゃないだろうか。もう、これ以上の暮らしは望まない。芋と裸足の生活だった時代に比べれば、本当に天と地がひっくり返ったぐらいの、ぜいたくな暮らしだと私は思う。戦世のことなんか、忘れてしまいそうな気がしてならない。負けて勝ったのは沖縄だと思う。それは、私1人の想いだろうか。
 こんな、よい生活がいつまでも続く事が、出来ますように祈る。 平和、平和、平和。
(1996年2月寄稿)

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