宜保 金城 ハツ(南部避難)_1_全文
| ID | 1170341 |
|---|---|
| 作者 | 金城 ハツ |
| 作者備考 | 出身地「宜保」 |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 南部避難 |
| 資料名(別名) | 宜保_金城 ハツ_「米兵が民間人を保護」_1_全文 |
| キーワード | 一般住民体験談、供出 |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.681-683 |
| 出典1リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 宜保 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
| 年月日(始) | |
| 年月日(終) | |
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| 終期(月) | |
| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010606市史編集 |
| 収納分類4 | 豊見城村史第6巻戦争編 |
| 資料内容 | 戦前、私の家の前や近所の赤嶺さん宅には陸軍の兵隊がいた。私の家の左側の家には海軍だったと思うが10名から20名ぐらいいた。毎朝、兵隊が私の家にお茶をのみに来て、幼い長女のことを「ひろ子ちゃん、ひろ子ちゃん」と可愛がってだっこしていた。兵隊からシラミがうつり困ったものだが、断ることもできずにそのままだっこさせていた。 食糧は自分達が食べる分がやっとだったので供出するような余裕はなかった。 家族からは夫が召集され内地へ行った。部落でバンザイを三唱して見送ってくれた。夫の兄は沖縄にいたら兵隊に召集されると思い、フィリピンに行ったがそこで召集されて戦死している。夫は除隊、帰郷後に防衛隊として召集され、読谷飛行場に出向いた。所属部隊は球部隊だったと思う。 ある日飛行機がたくさん飛んで来たが、やがてそれは敵機と分かり、部落中が大騒ぎになった。部落の人達はあっちこっちの防空壕に入った。那覇から避難民が各家に入って来た。その時には夫はまだ家族と一緒だった。夫は老いた親をおんぶして「ウフチジ」に掘ってあったタタミ1枚ぐらいの大きさの壕に避難させた。夫が読谷飛行場に行ったのはその後だった。 日本軍は米軍上陸に備えて、座安から我那覇方面にかけて戦車壕を構築していたが、私もこの壕掘りに動員された。モッコを担いで行った。字豊見城の弾薬庫掘りの作業にも子供を背負いながら行った。 間もなく米軍が上陸してくるからどこかへ行きなさいと区長から言われたので、饒波部落に行き知人宅にお世話になった。この頃から戦闘は激しくなり、夜は怖くて眠れなかった。字高安から字饒波に行くところに暗渠があって、そこに多くの人が肩を寄せあって入っていた。私たちは2、3家族一緒にその暗渠に入ってしばらく生活していた。狭いので座ったまま寝た。その後しばらくして戦闘も穏やかになったかなあと思ったので集落へ帰った。数日後、南へ行きなさいとの指示が出たので、とりあえず字渡嘉敷の実家へ行った。そこも危ないと言われ、翁長に移動し、軍の壕へ入った。 ここにいるとき、保栄茂方面から米軍が銃を担いで進んで来るのが見えたので、大慌てで逃げた。少量の米だけを持ち、残りは放置したまま逃げた。スンザ(潮平)の下の田んぼの中を泥んこになりながら南に進み、ようやく真壁村の小波蔵にたどり着いた。カンカラを拾って米を炊いたが、井戸には日本軍がニワトリをつぶして内臓を洗い流した水が流れ込み水は腐っていた。その水で米を炊いたため臭かったが、我慢して皆で分けあって食べた。あとは夜になるとキビを取ってきて食べた。 ある日、その井戸の周辺で、多くの人たちが集まって炊事をしているときに、米軍の飛行機に見つかって攻撃を受けた。この攻撃で私のオジー、弟の嫁さんの母が直撃弾を受けて即死した。死体は小さな穴にいれ、キビの古葉を覆って葬った。その後福地・波平は安全だと聞いたのでそこに向かった。しかし、福地・波平はすでに火の海と化していたので、糸洲・小波蔵に引き返した。艦砲の穴に入って一時をしのいだ。ここでは日本軍の反攻が激しくなり、多くの住民が右往左往するなか多くの死亡者が出た。 米兵が、危ないから立って歩くな、伏せなさいと民間人を保護してくれた。だが、皆を集めて何かをするのではないかと心配でならなかった。結局、私たちはここで捕虜となった。降伏した日本兵も皆裸にされて引っ張られて行った。糸洲・小波蔵の後ろの山は福地方面へ行く時は草木もあったが、わずかの時間で燃えつきて火の山となり通行できなくなっていた。背負っている子供(長女)に火傷させないように頭巾でくるくる巻いて歩いていたが、米兵がこれを見て水筒からコップに水を入れて飲まそうとしたので、私はビックリして米兵の手を振り払って逃げ回った。米兵は笑って自分でコップの水を飲んで見せたが、やはり子供には飲ませなかった。そこから糸満の収容所に行った。日本兵も裸にされて収容されていた。糸満の収容所では5、6名の一家族に缶詰1個の配給があった。子供たちに食べさせて大人は我慢していた。翌日スンザの浜から上陸用舟艇に乗せられて北谷の浜に上陸した。そこで軍人と民間人に振り分けられて私たちは越来へ、その他は嘉間良に移送された。ここに約1年位いたと思う。 夫とは、越来で偶然出会った。私は越来では洗濯婦として働いており、夫も他の収容所で洗濯班長となっていて、夫の作業班は同じ時間帯に越来を通るので、トラック乗り場で逢うことができた。夫は野嵩にいることが分かった。字宜保の人達もいるということだった。夫は10人ぐらいの仲間と一緒に移動していた時に米兵に見つかって射撃を受け、田んぼの中の泥にもぐって命十いしたとのことだった。字越来の近くで捕虜になったようである。 夫は私が子供を置いて仕事に行くことを心配していたが、家族の食糧の調達をしなければならなかったのでしかたがなかった。作業にいける人達は食べ物は余裕があり、また、毛布等も貰えた。その他いろいろな物が貰えてようやく人間らしい暮らしができた。冷凍の羊肉を飽きるほど貰った。老人達もタバコを吸えるようになった。 約1年後私たちは、米軍のトラックに乗せられて座安に着いた。そこでは芋をつくり、分けあって食べていた。 (1999年聞き取り) |
