宜保 登川 吉雄(南部避難)_1_全文
| ID | 1170331 |
|---|---|
| 作者 | 登川 吉雄 |
| 作者備考 | 出身地「宜保」 |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 南部避難 |
| 資料名(別名) | 宜保_登川 吉雄_「少年が体験した沖縄戦」_1_全文 |
| キーワード | 一般住民体験談、供出、10.10空襲(十・十空襲)、山原疎開 |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.674-680 |
| 出典1リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
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| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 宜保 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
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| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010606市史編集 |
| 収納分類4 | 豊見城村史第6巻戦争編 |
| 資料内容 | 10.10空襲(十・十空襲) 「演習が始まっているのか」聞いたこともない爆音と、ポンポンと高射砲の炸裂する音が聞こえた。朝食中であったが、外に出てみると、多数の小さい飛行機が、東の方から那覇の上まで来ている。しばらくして、敵機来襲だということで、近くにあった武部隊の壕へ避難した。長時間、編隊を組んで、空襲を繰り返していた。この大空襲では、飛行場、港湾、那覇市街が目標だったらしいが、軍民とも、多数の死傷者を出し、特に軍需品の被害は多大であった。しかも、那覇は、全戸数の約90パーセントが焼失し、那覇市街は焼け野原になった。 B29 10.10空襲(十・十空襲)後、敵の偵察飛行が見られるようになった。ある日、B29が、北から南へ、真白い飛行機雲を引きながら、軽やかな金属音でゆっくり飛行しているのを友人と二人で見ていた。しばらくすると頭上で、高射砲の炸裂する音と煙幕が見られた。するとピュープシュと、目の前に何か落ちて土にささり、白い煙をたてている。びっくりして一歩身を引いた。煙が消えてからさわってみると、まだあたたかった。高射砲の破片だった。うちに持ち帰り大事にしていた。(B29は、10.10空襲(十・十空襲)後、11月26日から偵察飛行を開始したといわれる) 米英撃滅 南方で優勢に進めていた日本軍が、玉砕、後退が聞かれるようになった頃、「敵はものすごい虐殺行為をする」という情報が流れ込み、恐怖心をあおった。「鬼畜米英撃滅」の思想が、日本軍やマスコミ等により盛り上がる中、国民学校でも、高学年では、木銃での訓練、竹槍訓練、こん棒投げ等、軍事訓練に力を入れるようになった。その他、集団行動、現役軍人による教練等も行われた。図画の時間には、「米英撃滅」のポスター作りをした。 日本軍への動員 豊見城第二国民学校高等科1年生を、集団で日本軍に動員したのは、与根飛行場の滑走路造成作業と、渡嘉敷の前の壕掘りが目的だった。飛行場では、小石運びや、木の枝を滑走路の上に広げるのが主な作業だった。その他、地域での動員では、我那覇の前の戦車壕掘り、小禄村松川の掩体壕掘りなど。近くの壕掘りの兵隊たちと仲良くなり、遊びに行ったり、お手伝いもした。壕の入口に大きな鏡をたて、日光も反射させて、壕内を明るくするとか、運び出された土を、壕入口の前に積んで、爆風よけを造ったりしたが、若い兵隊さんたちとのおしゃべりも楽しかった。 第九師団沖縄に配備される 街に軍靴の音が響くといえば、何となく緊張感があるが、第九師団の兵隊たちにはゆとりを感じた。また、県民にとっても、精鋭師団といわれる第九師団の配備には、「これで沖縄は大丈夫」という安心感があり、頼れる日本軍だった。 学校の壕掘り 学校の壕といっても、学童の避難壕ではなく、当時、最も大事なもの、「御真影」(天皇の写真)と、勅語の謄本の避難壕である。普段は奉安殿に納められている御真影も、いざという場合は、安全な壕に避難させなければいけないとのことで、僕たち高等1年生は、学校の壕掘りをした。現在の県営渡橋名団地の裏側の小高い丘の中腹に、小さい手でこつこつ掘った。 日本軍機の撃墜を目撃 与根飛行場の作業帰り、友人と二人、与根の砂浜を瀬長島方面へ歩いていく途中、二機の日本軍機が、着陸態勢で降下してきた。すると雲間から米軍機が突然姿を現しパンパン。後方の一機は撃墜された。前方の一機は、機首を変えてパンパンと発射した。しかし、敵機は知らん顔して雲の中へ。しばらくして、トラックが瀬長島へ渡った。搭乗兵らしき人を救助して去って行った。 滑走路工事にブルドーザーが ある日、与根飛行場での作業を終えて、友人と二人、小禄飛行場まで行ってみようと、海岸伝いに、大嶺あたりまで行った。こちらも与根と同じように大工事である。例の如く、人海戦術であったが、その傍らでブルドーザーが一台動いている。トラックもある。 第九師団台湾へ 敵はフィリピンから台湾をねらうだろう、それにしては台湾の兵力が不足だ。沖縄の32軍から一個師団を台湾へ転用する必要がある。ということで、沖縄の最精鋭一個師団を台湾へ派遣することになった。その白羽の矢が第九師団にたてられた。昭和19年11月、県民に親しまれ、頼りにされていた武部隊が台湾へ行ってしまうことになった。 魚雷格納壕 うちの向かいに小高い丘があって、そこから南に連なる、最も高い所に、陸軍のコの字形の大きい壕があった。うちのすぐ前の西側の麓に、海軍山根設営隊により、大きな壕が掘られた。手前の丘に入り口が3つ、奥の丘の方に入り口が2つ、トラックが入る大きい壕だった。荷台の特別大きなトラックで魚雷が運ばれてきた。専用の台車に魚雷を積み替えて、一発ずつ慎重に運んでいく。すごく大きい魚雷を見て、びっくりもしたが、頼もしくも思った。きれいに整理して保管されている魚雷を、毎日のように遊びながら見て回った。何発保管されていたかわからないが、去る平成9年6月13日、建築工事の際、埋没していた魚雷が発見された。陸上自衛隊の不発弾処理隊によって無事撤去されたが、埋没していた魚雷は、推進部9本、弾頭4発だった。 欲しがりません勝までは 外地における戦況はきびしくなり、軍需物資は不足。一発の弾丸でも多くということで、県民は、家庭にある金属を軍へ供出した。もちろん公共施設も例外ではなく、学校の運動場の鉄棒も、支柱のコンクリート柱だけ立っていた。強制的な貯金もさせられた。食料の供出もあった。生活用品は不足で、しかも、購入するにもキップ制だった。学用品も代用品が多く、質の悪いものばかり使っていた。雨降りは、くばがさをかぶるか、麻袋を二つ折にしてかぶって通学した。弁当は、さつまいもに食塩かあぶらみそと、ほんとに戦争貧乏だった。増産、増産とハッパをかけられ、出征軍人家庭への奉仕作業もさかんで、僕たち学童まで援農作業に精出した。 日本軍の民宿 兵舎が不足だったのか、陣地構築に便利だったのか、村内でも大きな民家には、軍隊が分宿していた。うちにも、いわゆる一番座には、海軍の将校がベッドでゆったりと暮らしていた。また店の方には、陸軍の酒保というか、売店みたいなのがあって、食料品などが保管されていた。 学校も日本軍に接収される 豊見城第二国民学校は、木造瓦葺きの立派な校舎だったが、やがて、軍に接収され、海軍陸戦隊の宿舎になっていた。学童は各字の集会所等で勉強することになり、高等科1年男子組は、字我那覇の集会所が教室となった。時々、学校に回っていったが、兵隊たちの動きなどで、ほんとに緊迫した感じだった。 少年志願兵 「将来は軍人」とあこがれ、早く高等科2年生になって、少年兵志願、幼年兵学校入学等、軍人志望の雰囲気が濃かった。僕たち高等1年生には、その予備となるような、海洋少年団の募集があった。僕も入団を希望していたが、軍人として満州に駐屯していた父が「軍人にはなるな、上級学校へ進め」と、入団を反対され断念した。 県立第二中学校へ 10.10空襲(十・十空襲)で校舎を焼失した中学校(旧制)は、入学試験は、筆記試験、面接はなく、国民学校からの書類によって合否が決まった時勢である。僕も二中へ合格した。先輩たちが長ズボンにきゃはんを巻き、きびきびと行動しているのを見て、ほんとに嬉しかった。しかし、その頃から世の中は、重苦しい感じを受けるようになった。すべては軍事優先という時代である。中学生は今日はどの壕、明日はどの壕と、軍作業ばかりさせられていた。さて、入学式も迫り、「入学式は、金武国民学校で行なう」という通知を受けはしたものの、こちらから通学できるわけもない。そのうちに、3月23日がやって来た。「二中に合格した」ままになってしまった。 防空演習 「沖の大東島方面から敵機来襲」誰が叫ぶのか知らないが、村役場方面から聞こえる。訓練である。家から出て防空壕へ避難する。夜の訓練は、燈が外にもれないように、ランプを黒い布で巻き、サイレンが強弱で十回鳴れば空襲警報、連続は解除と、何回か訓練があった。尚、爆撃があれば、親指で両耳をふさぎ、人さし指と中指で目を押さえて伏せる。防空頭巾も各自準備していた。 地雷埋設 敵は、豊見城村西海岸から上陸するとの公算が大であるとの予想で、上陸してくる敵戦車を阻止するための戦車壕を掘ったり、大砲陣地の構築、兵員の待機壕など、迎え撃つための準備がちゃくちゃくと進められていた。うちの近くの畑には、大型の地雷が多数埋設され、緊迫した毎日が続いた。また、敵艦船を奇襲攻撃するための特殊小型船艇が、タングチの川の木陰に多数係留されていた。 郡道以西の住民は郡道より東の奥地へ疎開せよ 本土疎開や山原疎開に参加しなかった住民がまだ現地にたくさん残っていたが、軍は、敵上陸地点に近い住民を、安全な地域に移動させる。また足手まといになる住民を排除するために、疎開命令が下された。僕たちは、幸い溝原(字饒波)に親戚がいたので、そこへ疎開し世話になった。 敵の陽動作戦 日本軍は敵の陽動作戦にまんまとひっかかったらしく、折角埋めた地雷を掘り出して、東の港川方面へ運んで行った。しかし、去る1977年(昭和52年)12月、道路工事で、現在のうちの近くで、埋設したままの地雷が発見され、撤去された。日本軍は、全部撤収したかどうか現在も気になる。 米軍捕虜を見る 横の連絡が不自由な中、字豊見城に米軍の捕虜が収容されているという噂を聞き、早速行ってみた。ヒーザーガーの裏の広場に小屋があり、その中に捕虜は収容されていた。赤ら顔の大きな米兵は、座っていたが、ほんとうに鬼のように見えた。(この捕虜は、後に隣の屋敷に移され、別の屋敷で軍法会議にかけられ、尋問されたという) 米軍の上陸 東の方から艦砲射撃の音が聞こえて来た。そして、連日艦載機による空襲。しかし、疎開先の溝原は、まだ静かだった。時々、宜保の家を見回ったり、畑の作物を収穫したりしていた。溝原の裏山には、日本軍の輜重隊が駐屯していたらしく、大型の馬も多数いた。米軍機がそれを見逃すはずがない。とうとう、艦砲や飛行機からの射撃に見舞われるようになった。そんなある日、母と宜保の畑から帰ってみると、弟が飛行機の機銃掃射で、足をやられていた。幸い、輜重隊の獣医さんに治療してもらっていた。戦火は激しくなる、雨は降り続く、そんな中、日本軍の南下が始まっていた。溝原はその通り道の一つにもなっていたらしく、負傷兵たちの姿も見られた。日本軍の南下が始まった頃、今度は、裏の丘に米兵が現れたという情報。そら逃げろと、近くの住民、避難民は、持てるだけの荷物を持って南の方へ。その避難民目がけて銃弾が降ってくる。ばたばた倒れる。これでは逃げられないと、うちの家族は、壕へ引き返した。しばらくしたら、壕の上で、米兵の話し声が聞こえる。じっと息をのんでいた。暮れてから、もう大丈夫とまた持てるだけの荷物を持って、昼とは別の道を南に進んだ。山道にさしかかった時、照明弾が上がった。昼のようである。もうかくれない。前進のみ。進む先々を照明弾が照らす。住民だけと判断したんだろう。それにしても、米兵はすぐそこにいた。翌朝、阿波根の親戚のうちに着いた。翌朝、そこでは自然壕(サキタリガマ)に入れてもらった。大きなガマで、ものすごい数の人が入っているらしい。中には、川も流れていた。寝棚を一ヵ所貸してもらったが、座ったまま、しずくにうたれてしばらく暮らした。食事は、ごはんも食べたが、母たちは、どこから調達したのだろう。ガマの中で幾日暮らしたか知らないが、みんな外に出ろ、と言われて、荷物は全部置いて外へ出た。裸の米兵が銃をかまえて待っていた。 避難経路 阿波根のサキタリガマで捕虜になり、米軍の小型トラックで潮平の浜へ。翌日、水陸両用戦車で沖へ。そこにはLSTが大きな口を開けて待っていた。ここで初めて黒人を見た。怖かった。着いた所は大山(宜野湾)。テントで数日待機させられ、今度は、水陸両用トラックで中城の仲順へ、テントで一泊して大きな瓦ぶきの家へ移った。 しかし、数日して、隣の喜舎場へ移動、そこでも大きな瓦ぶきの家に収容された。しかし、夜になると、裏山から日本軍が銃撃してくる。またある日、中城湾の米艦船に、日本軍の特攻機が襲来。迎え撃つ米軍の砲弾の破片で収容されている難民が怪我をした。そのためか、しばらくして、また移動。今度は、米軍の大型トラックで、古知屋開墾地へ。はじめのうちはテント暮らし。そのうち難民作業隊によって建てられた、竹の葉ぶきの小屋に落ち着くようになった。そこでは、栄養失調とマラリヤ等で大変な生活だった。僕は、最初ハイスクールヘ入学したが、しばらくして、初等学校へ移った。ここでは、給食があったからである。本やノートはなし。登校の際は、おわん(空き缶)だけを持って行き、何を勉強したかは覚えていない。しばらく通っているうちに、食料調達の方法を知り、山越えをして、西海岸の米軍施設に出かけた。米軍のMPも、民警CPもこわかった。中でも、最も怖かったのは、日本軍の敗残兵だった。そうこうしているうちに、台風の時季も去り、月日はたち、出身地へ帰れるようになった。米軍の大型車トラックにゆられて豊見城に向かった。 (1999年寄稿) |
