豊見城 宜保 キミ(南部避難)_1_全文
| ID | 1170321 |
|---|---|
| 作者 | 宜保 キミ |
| 作者備考 | 出身地「豊見城」 |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 南部避難 |
| 資料名(別名) | 豊見城_宜保 キミ_「死の恐怖から生きる喜びへ」_1_全文 |
| キーワード | 一般住民体験談、10.10空襲(十・十空襲) |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.669-674 |
| 出典1リンク | https://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 豊見城 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
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| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010606市史編集 |
| 収納分類4 | 豊見城村史第6巻戦争編 |
| 資料内容 | 太平洋戦争がおし迫った昭和19年には、私は玉城国民学校に勤めていた。豊見城の家には年老いた姑と弟の嫁とその子達五人が留守を守り、弟は出征していた。昭和18年までは糸満線の汽車で、玉城と豊見城の往復に利用できたが、19年になってからは、汽車は軍専用となり、許可のない一般人は乗れなくなった。私は小さい子供三名を抱えては、とても歩いて帰れないので、豊見城との連絡は、専ら主人が日曜に日帰りで果たしていた。その話によると、豊見城には海軍の司令部が置かれて、火番毛には盛んに壕が掘られていたとか、家にも常時、16、7人の海軍兵が宿泊しているとの事だった。 弟の子供二人(小学6年と4年)は本土へ疎開するそうだから、私達も行ってはどうかと言う事だった。 しかしあいにく一歳半の長男が病気で、船や汽車では駄目だし、それに主人も沖縄にいる事だからと断った。長男は6月1日から那覇の比嘉小児科医院に入院し、9月30日にやっと全快して退院できたが、その直後の10.10空襲(十・十空襲)で那覇市はもちろん、あの比嘉医院も全滅したと聞いて、よくも危機を危うく免れたと、ぞっとした。 そのうちに玉城村の周辺は学校も山も野も、兵隊が入り込み、民家も広い家は、兵隊が入って来て、軍靴の音がかまびすしくひびくようになった。生活用品は、もちろん衣類学用品、総て配給で、作る作物は徴用といって軍に納めねばならなかった。士気ばかりは上っても体は栄養失調状態で、長男の病気も幼いために抗し切れないのが原因の一つだった。 19年の10月頃に私達一家にとってはとても深刻な問題が起こった。それは、主人が久米島の具志川国民学校長へ転任に決まったのだ。刻々と迫ってくる戦争の事態を思い、一家は随分迷った。行こうか、行くまいか、家に残した年老いた母の事もあり、自分の幼い子供3人を連れて、果たしてあの小さい島で戦争がしのげるかと。いろいろな人の意見も聞いたが、結局は母も私達も連れて行くという事に決めて、先ず主人が一人で行って宿を定めて、後で私達を迎えに来るという事にして、12月に久米島へ赴任して行った。ところが戦争は日々に緊迫して、久米島航路の船は米軍の爆撃でやられてしまい、音信はそれっきり途絶えてしまった。 月日は前に戻るが、夏頃からは、学校は全く兵舎と化していたので、授業は各部落の公民館で行なっていた。それも下級生のみで、上級生は毎日壕堀りにかり出されていった。国民学校の生徒だから、大した事も出来ないのに、今日はあちらの原野に、明日はこちらの岩かげにと皆出かけて行った。 そのうちに私達は親子で入る壕も準備しなければと思っていたところ、大家さんのお母さんが隣組の人達が準備した洞穴に入れてもらうよう頼んで下さった。その洞穴は「馬喰い穴」と云われて、馬が死んだ時に、ほうり込んでいた穴だったようだ。それから6月まで辛い壕生活をした。私は一人で3人の子を抱えていたが、宿のお母さんは一人身の軽さでいろいろお世話して下さった。私達が壕生活に耐えられたのも、お母さんが陰になり日なたになって私達をかばい励まして下さったお陰だった。 やがて昭和20年3月22日頃になると玉城村は急に緊張とざわめきに包まれて来た。米軍が具志頭村の港川から上陸するという。私達のいる糸数部落は一番高い糸数城跡があり、兵達は右往左往して、戦闘の準備に忙しく、民間人は避難に大さわぎだった。身の廻りの物を整理し、食糧と子供達だけを連れて、初めて壕の中に入ってみた。2、30人位は入れる広い洞穴だった。村外出身者の私達は、お願いしますといって身を縮める思いで、一番奥のうす暗い低い所に入った。 港川沖の方からは、24日、果たして艦砲射撃が始まった。ヒューヒューと頭上を越して行く音、時には壕をゆるがしてパラパラと土くれが落ちる近い弾の音、皆は、息をひそめて抱き合っていた。すると、すぐ前の家のお母さんが避難しないで家にいた為に破片に当たって即死したという報が壕内にも伝わった。生きた気持ちはしなかった。ところが夜に入ると、砲声はぴたりと止んだ。皆は恐る恐る壕からはい出して行った。子供達にも十分な食事も与えてないので夜の間に、翌日1日分の食事の準備をしなければならない。大急ぎで炊事して、また、それを持って壕に帰るのだ。こうして、壕と家を往復する生活が6月初めまで続いたが、次第に食糧は欠乏してきた。それは何の配給も無いからである。でも軍に雇われている軍属達は食糧を持っていると聞いて、お母さんが、私の着物を一枚、二枚と持って行っては交換して来て下さった。そのうちに戦闘は中部に移り、次第に南下して来るという情報は日増しに多くなった。しかし、夜な夜な空を飛んで行って敵艦をやっつける特攻隊に拍手を送り、今にきっと神風特攻隊が来て、米軍を全滅させるんだと確信していた。 6月に入ると、とうとう敵米兵の姿を見たという話が広まった。今まで、私達親子の世話を親身にして下さったお母さんも、「こうなっては、進むのが良いか留まるのがよいか私にはわかりませんが、どうしますか。」と涙を押さえて話された。お母さんは、村人と行動を共にして留まるとのこと。私は、3人の子を預かって、一歩も逃げないで殺されたといっては主人にすまないから、逃げられる所まで逃げてみましょうと言って、今までのお礼を述べて、6月1日夜、壕を出た。八歳の長女に黒砂糖や貴重品の入ったリュックサックを背負わせ、一歳半の長男を背負った私は頭に鍋釜やお米、着替えの一枚ずつを載せ、右手に五歳の二女の手を引いた。 糸数の部落を出て、船越へ向かったが、道は長雨でぬかるんで歩きにくく、時折頭上を砲弾が飛んで行く音がするが、もうその音には大分馴れて来ていた。一発グヮンと近くで破裂した音を聞いたと思ったら、黒い破片が私の足元のぬかるみでスルスルスルと音を立てた時には、ヒャッとした。でも先を急がねばならない。 船越の村外れで県道に出たとたんに兵隊が仰向けに倒れて死んでいる姿が見えた。ギクッとしたが、子供達には黙って、それを見せないように遠回りして少し歩くと、何やらカマスのような物が動いて来て、「オバサン百名に行く道はどこですか。」と聞く。びっくりして見ると、こもをかぶった7、8歳位の男の子が、上半身焼けただれた服を着て道を聞くのである。どこかで焼け出されたのだろう。兵隊の死体には余り驚きもしなかったが、民間人のしかもこんな子供がこんな姿になるとはと、初めて見るこの姿に私は口も聞けない程だった。あそこと指さしたが、後はどうする事も出来なかった。その子は黙ってよろよろと歩いて去った。私達が逃れて行く南部とは反対の方向に行くその子の後姿を見て、私は訳が分からなかった。 しばらく歩くと機銃の音がパラパラと聞こえた。私達は急いで道端の排水溝に入りこんでうつぶせていた。また歩き出したが、畑のあぜ道でしかも相当の人馬が通った後らしく、すごくぬるんで歩きにくい。でも進まねば後から米兵が追いかけて来ると思えば、恐くて、子供らを励ましながら、やっと前川部落の見える丘の上にたどりついた。しかしそこらには人一人見当たらない。みんな逃げた後らしい。そのうちに「お母よ、お母よ。」という2、3歳位かと思われる子供の泣き声が部落方面から聞こえた。もう夜明けも真近かと思われるので空墓が見つかったのを幸いにそこに入りこむことにした。入って見ると、お骨はまとめて後側の台の上に積み上げてあり、足の骨等がにょきにょきと突き出ている。ぞっとしたが見ないふりをしていた。五歳になる二女があれは何かと聞くが私は答えなかった。墓の中には水も薪も用意されたままだった。ああ神様が、私達の為にこれを残して下さったのだ。有難いと思った。間もなく夜が明けてしばらくすると、墓の前の通りで人の声がする。ふと墓口から外をのぞくと敵兵の顔だ。2、3人の米兵の姿が見え、その中の一人がこちらの墓を指さしていた。間一髪、後にさがって暗がりの中で息をこらしていた。もうこれで終りだ。今に米兵が銃を撃ち込んで来る。息はころしても、子供達を抱えこんだ体はガタガタふるえていた。しかしいくら待っても来る様子はない。多分、敵は字前川一帯は一人も残ってないと思ったのだろう。墓口からうかがっても誰も見えない。「助かった。」と思った。昼中は墓の中にひそんで夜に入ってからまた南部を目指して出かけたが、照明弾が十分おきくらいに上がる度に立ち止まって動かないようにしたので、一晩では、わずかしか進まない。人一人も通らない道を私達親子四人がノロノロと歩んでいた。後で分かった事だが、私達は進みが遅くて、いつの間にか米兵達に追い越されて、後方になってしまったのである。それが幸いする事になった。 ふと目の前に大きな川が横たわる所に来てしまった。一人身ならば何とか川を渡れるが子連れでは駄目である。東側の下流に行けば港川の橋もあるはずだが、そこは、2、3日前両軍の激しい撃ち合いのあった所で、こわくて行きたくない。ああこの川を越せば具志頭に行けるのにと思案にくれていると、川岸に坐って休んでいた娘二人は、夜中歩いて疲れたのか、こっくりこっくりと居眠りをしている。ふと気が付くと東の空が白々と明け始めている。これは大変と、隠れ場所もなく、キビ畑の中に入りこんだ。不思議にここは静かで砲声は南部の方のみに聞こえた。1日中、煎り豆を食べたり、砂糖キビを食べたりして、飢えをしのいでいた。畑からは、川向こうに具志頭の畑や原野がよく見える。そこでは、あちら、こちらと敵兵がうろついている。又、私達みたいな親子連れがススキの陰に隠れひそんでいるのが、はっきり見える。頭かくして、尻かくさずだが、米兵達は、それを知ってか、知らずか外の場所を火炎放射器で焼いている。初めて見るのだが、赤い炎を4、50メートルも吹き出して原野を焼き払う様子を私達は息を呑んで見ていた。どうか、あの親子が見つからないようにと祈った。幸いあの親子にも私達の周辺にも弾丸一つ飛んで来なかった。一日中、畑の中は静かだった。 目指す南部には、敵が入り込んでいるから、もう進む事は止めようと考えて、夜に入ってから引き返すことにした。後も、前も敵ならば、どうせ死ぬのだ。それならば第二の故郷である糸数の壕にしよう。あそこは宿もあったし、私達の荷物も大分残して来てあるし、親元に帰るような懐かしさがあった。今度の夜道は、照明弾も上がらず暗い。道端のあちこちに死体があるらしく、臭いがする。黒く横たわる物をよけるために、道は左に曲がり、右に曲がりして、一晩中歩いて糸数にたどりついた。しかし、前と違って、どの家も道もしんと静まり返って人の気配一つしない。よし、元いた壕に行こうと思ったとたん、ハッーと強い鼻息に驚かされた。びっくりして横の道を見ると、馬である。きっと飼い主からも見放されてさがしていたのだろう。馬は主でないことを知るとさっさと立ち去った。 自分達が前に入っていた壕に行ってみた。ところがそこは死の静寂がただよっている様に思えて不気味だ。隣の壕は区長さん達一族が入っていたが、そこにもどうしても入る気にならない。後で聞いたが、区長さん方は全員ここで自爆されたとのことだった。次は友軍のいた洞穴に行ってみると、そこには人は誰もいないが今まで見た世界とは別世界のようだった。洞穴の中はきれいに桟敷がつくられ、畳が敷かれ、アルミの真新しい鍋釜や、お米、梅干等日用品は皆揃っている。私達は御殿にでも迎えられたような錯覚を覚えた。ここなら何日でも生活できる。又、私達は神様に守られた。その夜は白米のごはんを炊き子供達に腹一杯食べさせた。そして久しぶりに畳の上でぐっすり休んだのである。元気を取り戻した子供達が翌日、はしゃいだのがいけなかった。見廻りに来たらしい米兵に気付かれてしまった。洞穴の上の方から「出て来い、出て来い。」との声、一瞬、胆を冷した。どうしようか。今、出て行かなければ銃、またはあの火災放射器が構えている。そう思った私は、子供達を後にかばいながら入口に顔を出した。すると3人の米兵が立って手招きしている。これでおしまいだ。覚悟を決めた。死ぬ時の為に取ってあった一枚ずつの服に着替えさせて少々の手荷物を持って出て行った。外にはトラックが待っていた。見ると外にも10人位の人達が乗せられて、みんな青ざめた顔色をしている。どこへ連れて行って殺すのだろう。 後で思えば、この日6月4日頃は、豊見城の部落でも大空襲を受けて、部落は全滅し、家を守っていた姑と弟嫁とその子の3人が亡くなった頃であった。 玉城村の百名部落を通り、志喜屋まで行ってトラックは止まり「降りろ。」と言われた。来て見てびっくりした。ここは世界が変ったのかと思うほど、大勢の人々が生活の営みを始めていた。「どこでも好きな所へ行って住め」という。もう、すごく混雑した村人達が水をかついだり、お米を臼でついていたり、大方の家も残っていて、戦争の様子は全然無い。人殺しはしない。とにかく助かったのだ。と思ったとたん、緊張が一瞬にほぐれて、ただ、子供達を抱きしめて泣いた。 さあ、住む場所を見つけなければならないが、顔見知りの人は誰も見えない。どこの家も何家族かの人々がぎっしりつまって、一人だに入るすきは無かった。仕方なく知念方面へと歩き始めたが、行く先々の村も家々も、よくもこんなに多くの人が生きていたと思うほど、人で溢れていた。山里とかいう所でやっと一坪程の薪のつまった小屋を見つけた。そこに宿ることにして、つみこまれた薪を全部引きずり出して、土間の上に枯草を敷いて枕を並べて寝た。みんな栄養の悪い体で、何十日間の壕生活の疲れと、解放感でぐったりしていた。私達は助かったが、久米島の主人はどうしているだろう。豊見城の家の人達のことなど思い出されたが、何の情報も得られなかった。 その後、5か月位たってから、主人の無事と姑達の戦死の報を伝え聞いた。それから食糧難と闘ううちに私は20年10月頃に志喜屋に設けられた高校(知念高校の前身)に呼ばれて、国語と家庭科を受け持った。それも2、3ヵ月後には、今の座安校の運動場のテント村に収容された。 (1981年1月寄稿) |
