豊見城 赤嶺 宏(南部避難)_1_全文

ID1170311
作者赤嶺 宏
作者備考出身地「豊見城」、1930年(昭和5年)生、当時14歳
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)豊見城_赤嶺 宏_「一冊の本も作れる戦争体験」_1_全文
キーワード一般住民体験談、宜保医院、供出、10.10空襲(十・十空襲)
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1豊見城村史 第6巻 戦争編 pp.665-669
出典1リンクhttps://www.city.tomigusuku.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi_bunkazai/2/1/3254.html
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
豊見城
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010606市史編集
収納分類4豊見城村史第6巻戦争編
資料内容私は10.10空襲(十・十空襲)前は、宜保医院で働いていた。そして青年団長もしていた。区長さんを先頭に軍への協力態勢は、ちゃんと取られていた。当時は当部落の家のほとんどに日本の兵隊が入っていた。
 村内部落の様子は、防空演習、敵機来襲の時、灯を消す。解除になると、各家庭の防空壕作り、防空頭巾作り、食糧貯蔵などをした。
 日本軍の駐屯状況は、沖根司令部・山部隊・球部隊だった。
 軍への協力態勢は、区長さんを先頭に青年団、一般住民は何時でも働いた。
 学校では、防空訓練、先生の指導により、校舎を離れて山に移動、又は消火訓練、手旗信号を習っていた。
 10.10空襲(十・十空襲)は、朝早くから飛行機の音が激しく聞こえたので、外へ出て見たら、那覇港の海をすれすれに低空して那覇市街に来ると急上昇して、小禄飛行場を爆撃していた。高射砲を射っていた。破片も敷地内に落ちて来たのでびっくりして、すぐ防空壕にかくれた。自分の家族は、今の県道七号線の部落のはずれた所の道の下に、溝があり、流水の上に床を敷き、そこを壕として住んでいた。自分は宜保医院の壕に入っていた。
 沖縄戦開始まで、私たちは食糧や物品等を軍へ供出、壕掘り、陣地構築などの徴用があった。
 青年でもあり、壕掘りはずっとしていた。それから与根海岸へ上陸する時の備えに、戦車を落とす為に大きな幅の溝を掘っていた。伊良波の上あたりだった。
 食糧と物品等の軍への供出は厳しかった。豚等も勝手に殺せなかった。野菜、芋等も指定された場所でしか売れなかった。
 壕掘り、陣地構築、徴用など日本軍への協力については、区長さんからの通知だったと思う。一般住民(婦人、女子青年、17歳以下の男子青年、部落に残っている男子)は、それぞれに働かされていた。とにかく、戦争に勝つまではと、良く頑張ったと思う。
 部落内の状況は前の坂(メーヌヒラ)の山にルーズベルトとチャーチルのワラ人形をつくり竹槍で突く訓練もした。
 私は国民学校、高等2年の卒業手前に学校から大刀洗航空(福岡県)へ願書を出して志願をしたが空襲が来て、試験も受けられなかった。
 当時はもう、医院の宜保先生(宜保成晴)は、子供が病気(急病)で軍の飛行機で本土に行かれて、先生の住宅は山部隊の連隊長が住んでいた。それで私は米軍上陸(昭20年4月1日)の第一報を連隊長の部下から聞かされた。その当時は宜保医院敷地内は将校クラスが出入りして連隊長の世話役、伍長、兵長と飯作りの上等兵が出入りできて、兵卒は、入れなかった。でも自分は自由に出入りできて、民間人として、連隊長に近寄れるのは自分一人だった。将校連中の出入りは激しかったように思う。
 豊見城村の青年学校生は団体で中部の大工廻という部落の山に青年学校の先生と一緒に行った。そして、近くの学校に寝泊まりしていた。3日位は壕掘りして先生に呼ばれ、「君は病院に働いているのか」と問われ「ハイ」と言ったら、君は帰って病院で働くように言われたので、すぐ帰った。自分達は、病院勤めなので軍の協力者でもあり、又、連隊長の部屋の敷地内で寝泊まりしていたので、特別に連隊長の当番兵の士官が山部隊の防空壕に入れてくれた。もうその時からは、空襲、艦砲射撃は毎日の様に、そして、トンボ(偵察機)は朝早くから飛んで人や軍人の動きを偵察していた。壕の行き帰りも木の枝を持ち、偽装して歩く。トンボが真上に来ると止まって、木の枝を持って背を低くして草むらにかくれる。なれてしまうと恐さも忘れる。それまでは豊見城方面は、まだゆっくり生きられる。中部は上陸されて激戦である、だんだんと首里、安里まで攻められているとのこと、弾薬運搬の兵隊さんも一緒に5、6人いたが、一人いなくなり、次の日も、又、いなくなったと……だんだんといなくなっていく。でも激戦地に運ばんと戦えないので夕方からは、出発準備。連隊の士官から本部を真壁に引っ越すとの情報だから、貴方達も引っ越した方がよいとのこと。自分で自由に逃げなさいという事は敗戦である。病院勤務の家族7人は逃げる事に決めた。年寄りは4人残す。病院の壕に残る年寄り4人に別れを告げて出発。外は飛行機の爆撃や艦砲射撃でごった返している。榴散弾とか、迫撃砲の弾、あらゆる弾をくぐり抜けて、逃げなくてはならない。昼は山陰にかくれ、夜は島尻の先に追われて、右往左往、とうとう追いつめられて皆集まり、皆一緒、兵隊も一緒、生きる為か戦う意識も失う。ただ、夜になると、ひもじさに食べ物を求めて、または、弾を防ぐ。破片とかに当らぬ様に場所を探す。そして後は自分の家を目指して……家で死ぬのが良いと死を待つようなもので、島尻の先から戻る人もいっぱいいた。途中で敵陣地に入り捕虜となる。かえって、早く逝った人は、楽だったかも知らん。自分ら7人も自分の村に帰ることに決めた。糸満まで戻って来たら夜が明けたので、又、かくれないといかん。途中には、敵の戦車もあった。見たらブルドーザーの歯もまいていた。道も作りながら砲を撃ち、火炎放射器も射ちながら……とても日本軍の兵器とはくらべものにならない程勝っている。キーンム畑にかくれた。そしたら、皆並んで、米軍にジープが先頭について行くので自分らも一緒に行こうと言ったら叱られた。あれ達は一ヵ所に集めて殺されるんだと言われた。そうかなと思い、出て行くのをやめた。それから夜になるのを待って、又自分の村をめざす。座波、賀数の道まで来た時に、道の上の山からカービン銃で集中射撃を受けた。7人共、又、後へ一生懸命に逃げる。自分は若いのでずっと遠くまで逃げた。6人が見えない。逃げて来た所をゆっくり探しに戻ると途中で外間さんが弾に足を撃たれ皆で手当てをしている。弾がすねの後の筋肉を貫通していた。そして、もう一人の若い叔父さんにおんぶさせて、また大通りの脇道を通って、波平部落に入る。製糖工場の前に来ると、また、米軍人に止められた。前の3人は捕まり、自分から後ずさりしてその場を4人で逃げた。私の戦争体験は一冊の本も作れる。だから、戦争中に体験して感じた事は、負け戦はするものでは無い。生きるという事は例え、戦争をしなくても大事な事である。

 沖縄戦終結(昭和20年6月23日)は、昭和20年7月2日捕虜になった日にわかった。
 私が捕虜になった日(7月2日)午前4、5時と思う。その前の晩に真玉橋を渡ろうとしたら、向かいの山から「誰か」とマイクみたいな声で問われたので、びっくりして後ずさりして、木の根っこに伏せた。黙っていたのですぐ照明弾が橋の上に上げられ、そして、自分のいる所に集中射撃された。
 約半時間……。自分が伏せていた木の幹にパチナイ当る。絶対動かない。木の幹の当る後に伏せているので射撃が射ち終えるまで、ようやく半時間くらいは、撃ち続け止んだので自分は考えなおした。
真玉橋の向こうの山に陣地がある事を判断して、次は津嘉山へ渡る計画を立てた。そして一旦引き下がった。ユーナ木の根っこの所に草が生い茂っている所をかくれ場として、夜も明け始めて来たので、そこにかくれていた。そしたら、朝早くからカービン銃を持って2名、3名とグループで米軍兵士が2回、3回と探しに来る。確かに橋を渡ろうとした時に照明弾を上げて集中射撃した所には、死体が無いので探しに来たと思う。4回目には、午後4時頃かな、自分も疲れたのかウトウトして、眠ろうとしていた。そしたら犬が自分の顔をじっと見ている。黒い犬だった。舌を出して息をしながら……。そして、後を向いている。そこを見たら、米軍兵士が2人はずっと後に離れて、一人はカービン銃を向けて、自分に近づいて見に来た。そして自分を見てから、又、もと2人のいる所に戻り、その時に犬は兵士の所にいて………その時に米軍兵士は「テッテコイ、テッテコイ」と2回位大声で呼んでいた。自分は出なかった。すると黄リン弾とかを自分の近くに投げた。さくれつする音と同時に自分の周辺が燃えた。自分も手と足と頭にドロドロの火が飛んで来て燃えたので、すぐ川に飛び込み、一応ドロドロの火は消して、米軍兵士の前を見ると手招きで、上って来なさいと合図している。それで自分は、両手を上げて白いタオルを持っていたのでそれを出して降参旗の積りで米軍兵士の所へ川から上って近寄って行った。その時の身なりは半ズボンに半袖シャツだった。だからすぐ民間人とわかっていたと思う。チューインガムはあげる。水筒の水は上げるが食べようとも飲もうともしないので自分でチューインガムも食べて、水も飲んで見せて、また、あげるので自分もその時は遠慮なく食べ、飲んだ。そして民間人の捕虜収容所、古波蔵に連れて行かれた。収容所入口には訊問室(米軍人と通訳がいた)があった。その前の広場では捕まった子供達が元気よく大声で遊んでいた。そこを通り抜けて、病人テントがあって、そこまでしかわからない。翌日は病院車で胡屋病院に送られた。

 私が戻ってきたのは、先ず最初は村の収容所、伊良波部落から座安、渡橋名の三ヵ部落に収容された。そして、各部落の整理後、片付け等の作業をして帰るようになった。
 戦後、役所や警察や配給所は座安学校の敷地内にあった。その時の村長さんは、瀬長清さん(字豊見城出身)助役は伊良波の大城一男さん、庶務課長は瀬長亀次郎さん、産業課長は赤嶺成春さん(字宜保出身)、社会事業課は名嘉地の上原恒雄さん、配給所は与根の大城英男さん、産婆さんは渡橋名の方だったと思う。警察署長は垣花出身の比嘉さん、通訳は上田の大城静子さん、私は庶務課の雇員だった。給料もあった。B軍票の10銭、50銭、1円だったと思う。
 衣食住は米軍の物資で配給制だった。役所に山口さんという二世の方が通って来て、衣食住について調査されているようだった。当時の通訳大城静子さんは、山口二世の良き相談役だったと思う。村民の為に、その時、糸満も集落として引っ越して来ていたので山口二世は糸満も兼ねていた。大城さんの接待が良いので運転手の米軍兵士の山口二世は、糸満に運ぶ物資(食糧、衣類)等は、なるべく村に多く廻させる様だった。そして山口二世は、グンボーアンダーギーが好きで米軍兵士の運転手はサーターアンダーギーが好きだった。それで、ぐんぼう畑を探して二世が車を出して掘りに行き、食べさせていた。そして当時は村民には配給もして、倉庫にもゆとりを持って在庫もあり、宿直して番をした事がある。

(1996年11月聞き取り)

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