嘉数 赤嶺 ハル(学童疎開(宮崎県上野村))_1_全文

ID1170281
作者赤嶺 ハル
作者備考出身地「嘉数」、1930年(昭和5年)生、当時14歳(高等科1年生)
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目学童疎開(宮崎県上野村)
資料名(別名)嘉数_赤嶺 ハル_「14歳の赤嶺ハルさん。宮崎県へ学童疎開します。寒さとひもじさの三か月。やがて迎えに来た兄と兵庫県へ。慣れない本土の暮らしを支えたのは、沖縄から届く長男兄さんの手紙でした。」_1_全文
キーワード学童疎開(宮崎県上野村)、10.10空襲(十・十空襲)、学童疎開
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc3、YouTube @TGDA_okinawa
出典1リンクhttps://youtu.be/LKrzIW72ld0?feature=shared
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
嘉数
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)1940年代
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)昭和10年代~昭和20年代
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010604文化行政
収納分類4語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶
資料内容家族
父がフィリピンに出稼ぎに出ていた時は私は母のお腹の中に入っていたそうです
母は自分1人で子ども7名を育てました。苦労したので、50(歳)に亡くなって
風邪から肺炎になって亡くなった

母の思い出
(母の仕事は)肉の販売。私が小さい時、母は津嘉山の屠場に行って、肉を取ってきて売っていた
小学校の先生など、節日の時には、みんなが(肉)を注文するので、持って行った
注文が多い時には、自分で豚も殺し、肉を用意するほどで、母はとっても意地があった

集落の池
家の近くに池があった。学校帰りにいつも友だちとこの池で泳いだ
集落の大人に見られたら怒られるので、ホーギという木(ハマゴウ)の下に隠れたりして泳いで遊んだ
戦前は、この池で、クムイで、馬を浴びせたり、イモ洗ったり、しました

豊見城第一国民学校
学校は、豊見城第一国民学校です
字嘉数の同級生は6名で、男3名女3名
1クラスは40名ぐらいで、たくさんいました
あの時は、松組と竹組の2クラス。私はいつも松組

学校の思い出
学校では、優等生が、12、13名しかいなかった。私は、いつもこの中に入っていた
踊り好きだったので、学芸会にもいつも出されて…当時は全員ではなく、選ばれた人だけが出た
今みたいにみんなが(学芸会に)出たほうがいいけど
(遠足は)嘉数バンタ。今の長嶺小学校・豊見城第一国民学校の遠足は全学年がここでした
眺めがいいので、遠足でここまで歩いて来ました。とっても景色がいい所です
高台なので、嘉数バンタからは、那覇の風景が全部、見えます

字の日本軍
(嘉数で日本軍が駐屯していたのは)公民館の向かいの「前大屋小」
ここは集落で裕福な家だった。私の隣の家にも日本軍が入っていたと思う

竹やり訓練
竹やり訓練は、大きい木に藁を縄で巻いたものに「突っ込め」と竹やりを突き刺す。
場所は公民館

陣地作り
(嘉数の)日本兵は、松の木を切っていたみたい。兄が手伝っていたからわかる
長嶺城址のここ側には、高射砲陣地を作っていた。あっちこっちに、作っていたようだ

学童疎開の理由
(学童疎開は)自分で行きかったので、「行くよ」と言った。長男兄は止めたけど
根差部の友達が、「行こう、行こう」と(学童疎開)に誘ったので
(嘉数から)10名ぐらい(学童疎開に)行ったと思う

学童疎開・出発
私達が乗る疎開船は、軍艦だったので、港の岸壁まで入れなかった
それで、沖までは小さい船で行った。この船をあの時はポンポン船と呼んでいた
これで軍艦まで行った
その時の気持は、もうなんとも言えない。もう泣いてばかり
船で「さらば沖縄よ、また来るまでは」の歌が流れているからよけいに懐かしくなって
「しばし別れの涙をのんで」って、船からこんなふうに歌が流れていた

疎開船
軍艦は、波が荒くて、みんなすぐに船酔いして大変だった
出港する時に、「上から飛行機で監視して、下からは潜水艦が守っている」って、言っていた

学童疎開・宿舎
(疎開先は)宮崎県西臼杵郡上野小学校。国民学校ではなく、上野小学校だと記憶している
私は、高等(科)1年生。今でいうと、中学1年生。あの頃は高等(科)1年と言いました
(宿泊先は)学校の教室のいる人もいるし、また寺があったんです。正念寺。
寺と学校に二つに分かれて。私は、字豊見城の生徒と一緒に
(私の宿舎は)学校。教室の1室に20名ぐらい。こんなふうに、足をつけあって眠っていた

学童疎開・食糧事情
(辛かったことは)一番、食事。いつも少ししか食べさせない
(食事は)毎日のことなので、たくさんは出さなかった
(今でいうと)中学1年生で、食べ盛りの年頃。だから、いつもひもじかった
(お腹が空いて)勉強はやりたくなかった。山に柿とかを十っては食べていた
もう勉強どころじゃない。ひもじくて
だから地元の集落から、いつも苦情が出て
学童疎開の生徒達は、何も取ってはいけないと言って、苦情が学校にきていた

農家の手伝い
上級生は、稲刈りとかがあるんですよ。(農家の)手伝いに行ったら
麦もいっぱい作っているものだから
麦を製粉してまんじゅうを作って、私達に食べさせてくれた
いつも稲刈りあったほうがいいとみんな言っていた
手伝いするって言って、まんじゅうをもらいに。イモ餡
あそこのイモは甘いので、イモ餡の大きなまんじゅう。
だから喜んで(農家の手伝いに)行った

疎開先の友達
運動会でも、上野の友だちが、竹の皮に包んだおにぎりをいっぱい持ってきてくれた
とても美味しかった
同級生の友達がいっぱい作って持ってきた

長男兄の手紙
(疎開先に)長男兄さんから手紙がきていた。姉さんからは来ないけど
長男兄さんからよ。一番上の兄さんが。手紙みたら、いつも懐かしくなってよ
次男、三男、四男に比べて、長男兄は、背は大きくなくてがっしりして、父に似て

10.10空襲(十・十空襲)の報
(上野で)10.10空襲(十・十空襲)で、沖縄が玉砕されたと聞いて
「玉砕」なので、(沖縄は)みんな死んだのだと、みんなで泣き崩れたよ
布団の上にみんなで正座して、沖縄玉砕になったというから
こんなしてうつむいて、ウートートーして泣いていたよ

次男兄のお迎え
(学童疎開は)3カ月ぐらいしかいなかった。次男兄さんが連れに来て
寒さも慣れなくて可哀想だからと連れに来たんですよ。
でも、行かなければよかった。あそこで学校に行かなかったものだから

兵庫の暮らし
次男兄は(兵庫で)学校に行かせるよと連れて行ったんだけど
家は、大きな会社の側で、空襲が激しくて、学校に行っていないですよ
だから、14、15(歳)になっているのに、遊ぶわけにもいかないし
隣りに朝鮮の人がお餅作って商売していたんですよ。
お餅を仕入れて町で売り歩いた。自分の小遣いを稼ぐって
本当は(兵庫に)行かなかった方がよかった。
(宮崎に)残っていれば、ちゃんと学校も出たんだけど

長男兄の手紙
沖縄の長男兄から手紙がきていた。(兵庫に)次男兄のところに
私が自分のこと忘れていると思ったはず。
長男兄の手紙には「あんたは今まで育てられたこと忘れてはいけないよ」と書いてあった

兵庫の空襲
兵庫も、空襲激しく、焼夷弾がもうポンポン落ちた
釜に肉を炊いた鍋を置いていたんですよ
これに焼夷弾が直撃。鍋に突っ込んでいた
やがて、戦争が終わる頃だったから

初めて会った父
(終戦の頃)次男兄さんは隣組の消防団長をしていたものだから
「戦争終わったよー」ときたもんだから、ほっとした
戦争終わって、福岡に父がフィリピンから負傷して来ていたんですよ
父が福岡にいるから、会いに行こうと、次男兄と汽車に乗って行った
私は父の顔 知らないので
福岡の病院は沢山の負傷者が入院していたから
「面会ですよ」の声にみんな飛び起きたから、誰が父がわからない
次男兄が「お父さんはあっちだよ」と言って
父は、次男兄のところに私が来ていると知らないので
次男兄がワカトゥジ(若い嫁)をもらったと、思ったって。
父は「大きくなったな」と言ってたけど
初めて。15年ぶりにお父さんと会った

沖縄に帰る
父達(フィリピンにいた兄も)先に沖縄に戻っていた
私達が沖縄に戻ったのは冬だった
次男兄夫婦と子ども5名と私

帰村 姉との再会
嘉数に来た時には、すぐ下の姉が、家は無いから、いとこの家にいたので、私もそこに行って
姉さんが「あなた元気にしてた」って、二人抱きついて
長男兄の嫁と子どもたちも一緒に親戚の家に世話なっていた
家は茅葺で、下にテントを張っていた。みんな来たから、ここに住んだ

長男兄の死
長男兄は砂糖作りの時に怪我して亡くなったと姉から聞かされた
長男兄は、砂糖の味付けが上手だったんです。責任持っていたから
砂糖は大鍋に炊いてまた大鍋に移すんです。鍋を持つ時に長男兄は転んで火傷して
その後も元気だったみたいだけど、悪性マラリアに罹って亡くなった
(大宜味村)喜如嘉って。あそこに遺骨もちゃんとしていたので、持ってきて

次世代へ
慰霊の日は、人がいっぱいなので、2、3日して行く。長男も一緒に。
自分たちはもう戦争を渡ってきたが、若い人たちはまだ体験してないので
もう二度と戦争が起こらないようにさせないといけないよといつも話はしているけど
あんなにたくさんの人がもう亡くなって、もう二度とあんな戦争は…

収録日:2018年(平成30年)11月2日

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