長堂 宮城 右勲(南部避難)_1_全文

ID1170271
作者宮城 右勲
作者備考出身地「長堂」、1938年(昭和13年)生、当時6歳(幼稚園生)
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)長堂_宮城 右勲_「6歳の宮城右勲さん。幼稚園で習った「防空壕の歌」を今も歌えます。日本兵から親豚を奪い返した父。南部避難。ふんどし白旗。幼い瞳に刻まれた戦争の記憶とは…」_1_全文
キーワード南部避難、
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc3、YouTube @TGDA_okinawa
出典1リンクhttps://youtu.be/CQvNG_Y1yVo?feature=shared
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
長堂
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)1940年代
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)昭和10年代~昭和20年代
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010604文化行政
収納分類4語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶
資料内容戦前の長堂 ムラヤー
ムラヤーは、結構裏側のほうに森があって
そこの森には琉球松がいっぱい生えていました、そこの下は
芝生がきれいに生えていて、集落の人たちの暑い時なんかは夕涼み場所になったり
また子どもたちはあそこの森で遊んだり遊戯したりして
そこからまた東側のほうには津嘉山の集落がずっとこの森から見通せるし
津嘉山のほうから糸満線の軽便鉄道が走っていたので
この軽便が煙を上げて糸満のほうに行く、あるいは那覇のほうに行くのを見ると
「汽車が通る、煙を出して」とこういった歌を歌ったりして
そういったのを覚えていますね
だから結構この辺りは、今はもう何も無くて広っぱになって
公民館の広場として今使っていますが

長堂の幼稚園
幼稚園は字ごとにありましたので、長堂はムラヤー、今の公民館に幼稚園があった(先生は又吉トミさん)

戦前の子供たち
?服は幼稚園に行く時に
小さい短パンはあったんだけど、とにかく寒い時は
2つ3つぐらい重ねて、何でもいいからとにかくあるものを重ねて学校に行った
2、3日も同じものを着ているから
汚れても平気で着けて、遊び回っていると
新しい服を買ってきた時にも、母親が柱のほうにこの新しい服をこすりつけて
命は長く、「チヌーハラハラ イヌチハ ナゲーク」ということで
着物は適当に、命は長くなるようにという、まじないを唱えながら
これを「はい、これ正月着物だから、大事にしなさい」ということで
そういうのはありました

防空壕の歌
幼稚園生で、軍事的な歌でもなんでも、防空壕の歌というか、空襲警報の歌かね
「空襲警報聞こえてきたら、今は僕たち小さいから、大人のいうことよく聞いて」
「慌てないで騒がないで落ちついて、入ってみましょう、防空壕」という
「防空壕の歌」と言ったかな。あるいは空襲警報の歌とか
また「僕は軍人大好きだ、今に大きくなったなら」
「勲章を下げて、剣下げてお馬に乗ってはいどうどう」とか
軍人を礼賛する歌など、幼稚園の時から教えると
要するに軍部を中心にして国が動いて、戦争体制だから
結局幼稚園生でもそのようなものから教えたかなと、今になったら思うんです

家族の防空壕
防空壕は、うちの場合は庭先に、最初穴を掘って上に木の枝をのせて
簡単に作って自分のお家の前庭に、そういうふうにやって
これではもうもたないということに、親たちは気づいたのか
家の屋敷の後ろのほうにまた、花城、ムートゥヤーね
そこの家の後ろには竹やぶがあって、ちょっと斜面になっていた
そこに横穴式の個人壕を作って
家の壕なら、2、3名と、ちょっとした家財道具入れる程度で
そんなに大きいものじゃないですね

空襲と恐怖心
空襲警報のあれが鳴ると、私たちものすごく怖がりだから、幼稚園の頃は
空襲警報が鳴ったら、母の言い分では
「お前は一番怖がりだからすぐ空襲警報が鳴ったら食べているご飯ももう」
「放り投げてすぐ防空壕に逃げよった」そういう話を母はよく言っていた
自分は恐怖心というのはやっぱり今でも、ああ、そうだったかなと
もうブルブル震えてね、空襲警報だよと言ったらもうブルブル震えて
食べるものももう投げて、すぐ防空壕の中に飛び込んで行ったと

機銃掃射の威力
この防空壕の入り口に、非常用に、水甕を置いてあった
その水甕を空から見て人間がいると思ったのか分からんけど
空から米軍の飛行機から機銃掃射されて、この水甕が不思議なことに
入った所はこれぐらいの穴しか、10センチあるかないかぐらいの小さい穴だけど
出た所は3倍ぐらいの大きな穴になっていた。この壺が貫通していた
米軍に見られたら、あんな風に殺されるよ、と言うもんだから
よけい怖くなって
空襲警報が解除になるまでは、防空壕の中で潜んでいるというのが普通だったです

日本軍の砲撃
たぶん慶良間方面に米軍が最初に1945年の3月の末頃に
慶良間方面に米軍は来ているんですよ。それでその時だったと思うんだが
うちの屋敷の一角に、ものすごく大きな、3、4名ぐらいでしか巻けないぐらいの
アコウの木、ウスクという。木があったが、その根っこのところには
石で囲って砲台を作って、一夜限りそこから、那覇港沖、慶良間方面か
向こうに向けて大砲を撃って、すぐその晩のうちに
もうここは危ないということになったんでしょう、すぐ撤去して
その時に使った大砲の薬きょう殻、これが家の前の溝にいっぱい転がっていて
これを戦後スクラップブームの頃に
この薬きょうで結構うちは儲かった

姉の災難
すぐうちの近くに、道に大きな爆弾が落ちて
この竹の根っこがすぐ屋根に豚小屋の屋根に落ちて
姉は、ちょうどそこの豚小屋のそばに
あの当時の豚小屋は便所とも兼ねていた時代だから
そこの便所に入っている時にこれがきて
咄嗟にもうその便所から飛び出してきて、姉が
「魂が抜けるぐらいびっくりした」と言って
非常に怖がりになっていた。1つ上の姉は
だからこれが落ちてからは、この近辺もだいぶ爆弾が飛んでくる
恐ろしさというか威力というか、それを感じてね

父怒る
うちの家が焼けた後は
放し飼いしているニワトリが焼けてしまって、小屋もみんな焼けたから
そこで放し飼いにした。夜になるとこの小屋に集まって寝ていたニワトリが
みんな屋敷の周囲の竹やぶで寝るようになってから
別のお家に駐屯している兵隊たちが夜、懐中電灯か何かを持って来た
この鶏を捕ってつぶして、料理して。うちの親父はものすごい怒って
特に花城の屋敷の一角にある豚小屋の親豚
もうやがて子ども産むこの親豚を養っている時に
この軍人がこの豚を捕まえていって
駐屯しているお家の庭先で豚をつぶして、鍋に入れて炊こうとすると、怒って
うちの親父は怒って、ちょっと短気者だったから、うちの親父は
軍の命令で民間のこういった家畜を勝手に取ってよいと、軍は指導しているのかって
この豚の肉を取り返してきた。他の人たちはもう驚いて
「軍に手向かいしたら大変だよあいつら全員、銃剣とか持っているから」
「大変だよ、殺されるよ」と、周囲に言われた
「エー、何でもない」と言って行って取り返したことを、覚えている

南部避難 飲み水
途中で雨が降ったりやんだりで、梅雨時になっていたのか、道も
道路のわだちのところ、馬車が通ったりして、くぼんだところには水溜りもあったから
道のそばの溝にも水がたまっている
後半からは飲み水も十分にないから道のそばの溝から手ですくって水を飲んだり
ボウフラ(蚊の幼虫)が湧いているところも、手ですくって飲んだりということもあった

南部避難 屍
もう畑のそばとか、溝なんかに (死体が)
死んで2、3日、4、5日経っているのか
お腹がプーっと腫れているのを見たり
馬なんかもね、弾に当たってそこに転がっている死体とか
そういった人の死体を飛び越えて、道の途中で亡くなっている人もいるから
これも踏みつけながら飛び越えたり
子どもの足だから精神状態もおかしくなっていて
死体を見てもなんとも思わない、自分もいつやられるか分からんという状況だから

南部避難 日本兵
日本兵に遭遇したのは砂糖小屋に隠れている時
日本兵も一緒にそこに隠れてきた
そしたら集落の人で、一緒じゃなかったんだが
途中で弾に追われて逃げてきた集落の人がいたんだ
「アメリカ人に見つかって、あいつらヤギの目(青い目)をして、怖いから逃げてきた」と
言わなきゃいいのに、言ったもんだから
「お前たち、敵の兵隊に見つかってこっちへ来るのはスパイと同じだから」と言って
「もうここから出ていけ」と日本兵に。えー、可哀想にあんな小さい子ども…
この子どがまた泣いたもんだから
「この子どもが、ここで泣いたら、敵の兵隊に」
「見つかって危ないから、この子どもはなんとか処分しろ」ということで
兵隊に言われて母親が、タオルだったかな。ボロ切れみたいなもので
口につっこんで、もう声が…。ひもじいと子どもは泣くわけ
泣いているところを「エー、可哀想に」と周りの人は言うが
僕らもビクビクしながら見ていて、もう兵隊がきたら
怖いというイメージもまた強くなって
米軍以上に、あとから考えたら日本軍のほうがかえって
住民(に被害を出し)たんじゃないかなと感じた

白旗の投降
捕虜になる時には、うちのグループの中に結構
60、70近いおじいちゃんが新地というところ、新地のおじいちゃんが
ふんどしをはずして、その辺からススキの棒切れを探して
これにふんどしで降参旗みたいのを作って
私は子どもの時だから、これが何を意味するかも分からないんだが
旗を作って、みんな手を挙げて出ていった
「殺さないでよ、手をあげて行くから」ということで
相談して、みんなそうして。だから誰も怪我もしない
無事この激戦の中をくぐり抜けることができたと

古知屋収容所 マラリア感染
7月8月頃、夏だから蚊がいるでしょう
この蚊に、マラリア(を媒介する)蚊がいて
うちの母もヤンバルにいる時にマラリア罹って高熱出して、ブルブル震えて
もう死ぬんじゃないかと思って、一番これが子どもながらに…。
マラリアがね夏場の蚊の発生で

石川収容所 兄の戦果
うちの兄はアメリカ軍の基地の近くに行って、そこで何か戦果と言って
テントみたいな、今キャンプする時に使うテントがあるでしょう、あんな感じの
小型の野戦用のテントだったと思う、米軍の、もらってきたと
実際には盗んできたんじゃないかと
戦果と言って、結局敵の兵隊から取るものはみんな戦果と
今で言えば窃盗になるがそんな感じで、人々は
うちの兄は12、13歳ぐらいなっているから、荷物をある程度の持てるから
持てる範囲のものを持ってくると。毛布なんかも持ってくるから

長堂集落の復興
あの頃、長堂の地域は米軍がみんな占領して、今の南部農林(高等学校)の敷地は
米軍の使った自動車、モータープールと言ったが
米軍の車の修理工場みたいなところ
うちの畑も米軍が大きい道路作って、その一角に修理工場もあって
米軍も結構いたから、米軍がもう引き揚げて使わなくなったから
みんなそれぞれの集落に家を建てて、帰るようにということで
長堂の人たちはグループで家を建てるのが始まった
だんだん資材が集まり、今度はあっちのお家つくろう、あっちのお家つくろうと
だんだん増やしていって、これが増えてくると
それぞれ自分の元屋敷に移っていって

不発弾事故
不発弾の事故は、一番最初は伊良波にいる時に、今の渡橋名の公民館の広場に
仮の学校ができた時に、そこの運動場の端っこみたいな所にドラム缶を置いて
学芸会なのか、ちょっとした催しのためだったか分からんが、舞台を作ってあったよ
この舞台の上で子どもたちは遊んで
そこの下のほうで子どもたちが不発弾をいたずらして、これを爆発させてしまって不発弾事故
私はね、そこの職員室のそばにはまだ竹やぶがあったわけ
その竹やぶのそばにカタツムリ、チンナン、このカタツムリを
カタツムリを探しに竹やぶに入っている時!爆発した。みんな驚いて
大変だ、ということで
戦争が終わった後に犠牲になっている人たちが何名か

次世代へ
(教師として)私が小学校の時、あるいは幼稚園の時はこうだったと
防空壕の歌を歌って聞かせたりすると、子どもたちは笑う
笑ってね、ニコニコして聞いて「エー、こんなのもあったか」というふうな感じで
そういったのも、何も隠す必要ない。過去はそういうものがあったと
そういうのの中から自分も今になっているんだと
皆さんもそういった皆さんのお父さんお母さんや
あるいはおじいちゃん、おばあちゃんの時代には
過去にはこんな悲惨な状態もあったんだよということを理解して欲しいと
そういう子どもへの対応の仕方によっては、教師の対応によっては
子どもたちはいくらでも変化もしていくし、成長もしていくし
沖縄の歴史も、もっと理解が深まってくると。沖縄の特に文化面では
沖縄は世界にも通用するような素晴らしい文化国家になると思う

収録日:2018年(平成30年)11月2日

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