長堂 又吉 トミ(女子青年(南部従軍))_1_全文

ID1170261
作者又吉 トミ
作者備考出身地「長堂」、1927年(昭和2年)生、当時17歳
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目軍人・軍属
細項目女子青年(南部従軍)
資料名(別名)長堂_又吉 トミ_「17歳の又吉トミさん。女子青年として、日本軍と行動を共にする中、激しい戦闘に巻き込まれていきます。迫る敵の戦車。爆弾を手に自爆を覚悟したその時…」_1_全文
キーワード南部従軍(女子青年)、10.10空襲(十・十空襲)
総体1豊見城村史_第06巻_戦争編_証言
総体2
総体3
出典1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc3、YouTube @TGDA_okinawa
出典1リンクhttps://youtu.be/-SV2AVvVzkU?feature=shared
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
長堂
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)1940年代
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)昭和10年代~昭和20年代
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010604文化行政
収納分類4語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶
資料内容女学校進学を断念
女学校へ行きたくても、行ききれなくて お金が無いですから
クバ笠の下から友だちが行くのを見て泣いていましたよ、いつも
そしたら、父に怒られて
こんなにしては、仕事が出来ないと怒られて
泣かないつもりですけど、泣きました。

幼稚園の先生
高等科2年を卒業して、すぐ
村の人たちに 「お前じゃないと誰もできなから」と言われて
(幼稚園の先生になるために)那覇の昭和会館に通った
(長堂の)子供達を集めて遊戯を教えたり 歌ったりしてやっていました(宮城右勲さんもいた)
本格的になってから戦争が始まって「 戦が来るよ 来るよ」されたから
37名の生徒がいたけど、 子ども達はあちこちに疎開して
17名か18名だったと思います。 残りの子ども達を教えていたんですけど
字の保育園 幼稚園は兵隊にとられてしまって
瓦葺だったんですけど
長堂の公民館 、今は公民館と言うんですけど (昔は)ムラヤーって言っていました

兄が招集
ちょうど兄が(兵役)召集されまして ただ、家の近くの坂グヮーに
あっちまでただ見送ってあげただけです
あれからは見たこともなかったんですけど
しばらくしてから 真和志国民学校にいるということを聞きまして
姉に「(兄は)真和志国民学校にいるみたいよ」と言われて行ってみたら 、いたんです
それで「お父さんのところへ持っていきなさい」って、タバコを1本
「これだけしかないから、これだけでも持って行って」
「お父さんにあげなさい」って 私に言っていました
持って行って、父にあげると 、父は喜んで
「兄さんは、 自分が吸わないで、お父さんに持たせたのか」って
そう言って、 喜んでくれたんだけど
この父もまた防衛隊にとられて 長いことはいませんでした

家族の避難壕
避難壕というより みんな銘々で壕は作っていますから
ちゃんとした壕じゃないですよ
ただ掘って 上から見えなければいいといったみたいな
畑の近くに ちょっとした森みたいなところがあったらこっちで
ここは上等だ ということで そこを使ってやっていました

10.10空襲(十・十空襲) 那覇の避難民
音は聞こえたんですけど 飛行機を見たことはなかった
(避難民の)那覇の人たちが長堂に入ってきて
家の広いところはみんな貸してあげてました
私の家でも 3・ 4所帯の人たちが来て 泊っていました。ずっと
親戚じゃないです
全然知らない人でも 住むところもないのに かわいそうにということで

軍に勤務
長嶺城址の下に壕がありました 球部隊の 18864だったか よく覚えてないけど
(軍での仕事は)主に電話係をしていました
まあ 情報隊と言っても 私みたいなちっぽけなあれですから
どこそこに持って行きなさい これをしなさいと言われて はい はいって行って

空襲・同級生の死
(空襲で)私の同級生も、1発でやられましたよ
同じ集落で 家が大きかったですから 彼女たちは

自爆用の手榴弾
長堂から逃げて、 平良・高嶺の後ろ
あっちはなんて言いますか 。保栄茂って。たぶんその辺だったと思います
大きいお墓があって そこから下のほうに
50メーター以上は(手榴弾を)投げないといけないよと言われて
(手榴弾を)もらって ポケットに入れて持っていたんですよ
本当は2つずつなんだけど
トヨさんが「こんなもの持って歩けない あんたもらいなさい」と言ったから
私もまた喜んで 「イー」と言ってもらって
「あんた方(手榴弾を) 持たないといけないから 」
「 もしもの時は 自分で死になさいよ」と(兵隊に)言われて持っていたんです

新垣の壕
私は 当番で 水くみに行ったら
帰ってくるまでには、もう一人もいませんでした
(壕に他の兵隊は)いなかったと思いますよ 自分たちが働いている兵隊たちの
仁位隊の人たちしかいなかったと思いますよ
(水汲みには)トヨさんと2人で行きました
帰ってきたらもう何も無かったです
艦砲射撃でやられて もう何も無かったです。跡形も無いくらいでした

蛸壺の中 自爆攻撃
蛸壺に入って 蛸壺って 自分が入れるくらいの壕に入って
(場所は)新垣で
「戦車が来たよ」と言われて 怖くもあるが 入りたくもないけど入りました
生きているより 入ったほうがいいということで
火薬持って
(しばらくして)「あれ 何も聞こえないけど どうしたのかね」と思って
周囲の人たちはみんなドヤドヤして聞こえたもんですから まずはと思って
木や草で押さえてあるところ(蓋)、 そこを開けて首を出してみたらみんな
「大変だったね」って なにかブツブツ言いながら歩いていたみたいです
だから私も「あれ私は生きていたんだ」と そうしたら
「あんたは死ななかった 。福があったね」と言うから
「どうしたんですか」と言ったら
「上から(戦車が)通ったよ 君はわからなかったの」と そう言われましたよ
私の上を通ったみたいだけど なんでもなかった
手榴弾投げなさいとは言われません。 爆薬を持っていますから
小さい蛸壺壕に入ったら 構えておきなさいと言われて これですましたんです
はい 自爆 覚悟はしていました でも「天皇陛下万歳」はしませんでしたよ
泣きながら「お父さーん お母さーん ごめんなさい」これだけ
「天皇陛下万歳」は、しませんでした

捕虜 手榴弾
(あれから)2日ぐらいして、アメリカ兵たちに捕虜にされて
大変でしたよ 私 手榴弾を2発 3発 持っていますから
どうやって捨てればいいのかなと思って
本当に怖かったです
見られたら大変でしょう ユルユルして持っていますから
みんな脱ぎなさいと言われて 怖くて
どうやって脱げばいいのかなって、見られたら大変でしょう
こっちに挟んで(手榴弾)持っているから
だけど「こんな小さい人に 何もできないさ」と(米軍は)そこまでは見なかったですよ

知念小学校の捕虜収容所
(捕虜が)いっぱいいました
水もあるし それからお粥 、粥は普通の缶 の半分ぐらいずつ
小さいおにぎりもありました
2週間ぐらいはそこにいたかね

知念村字知念の収容所
知念村字知念には、1カ月ぐらいいたかと
真玉橋の方たちがいましたから
「アイ!長堂のトミちゃんグヮーでしょ?」
トミちゃんグヮーと言ったんですよ。私に。 小さいから
「トミちゃんグヮーじゃないか」 そう言われたら
「ヤイビンドー(そうだよ)」と言ったら
「ああ、よかった。ここに来れて」ということで
みんなにかわいがられましたよ 私
小さいからとてもかわいがられました
(収容所では) 仕事という仕事はありませんでしたけど
田植えをする時に、田んぼの中に入れられて
足はあれだし 手は腫れるし 大変でした
班長がいたんですけど
この方が「こんなことして可哀そうに、もういいから、あんたはあっちで 」
「ここに、ただいてはいけないから、 草むしりしなさい」と言われたから
「ああ そうですか どうもありがとう」と
座って草むしりはしていたんです
だけどもう大変でした 手も腫れて 水膨れになって大変でしたよ

帰村・長堂の様子
本当にバラバラ あっちの家も無くなっている、 こっちの家も無くなっている
おじさん おばさんたちもいなくなっているって こうだったんですよ

父帰る
お父さんは帰っては来たけど
病気がちでなにもできなくなってしまって

戦死した兄
兄は戦死だったんです
兄も球部隊にいたんです 球部隊の重砲隊だったと思います
1日橋の近く そこで亡くなったよ あんたの兄さんはと そう言われて
もうあれからなんの音沙汰も無いです

許嫁の死と結婚
シゲルは私の同級生と言うか 私より1つ年下です
シゲちゃん シゲちゃんしていましたけど
はい そうです 彼は二中(県立第二中学校)でした
(許嫁ですか)そうみたいです いつも私の叔母にあたる人が
「トミちゃんはどこにも(嫁に)行かないよ どこにも(嫁に)行かさないよ」と
ただ1度 新垣で見ましたよ シゲルは
「あれ シゲちゃんじゃないの」と言ったら
「トミちゃん なんでお前こっちにいるのか」と言われて
「僕らの部隊は ここなんだよ」と言ったから「ああーそうね」
「生きれよ」って「生きれよ」って言ってそのまま
彼もまた帰って来ませんでした
何十年待っても来ないから もういいよということで 私もまた
母が「いつまでも一人でいるんじゃないよ」
「 いいから もうあんた結婚しなさい」と言われて
今度は うちの人 は、ウフアガリ島の人
ウフアガリ島と言ったら、南大東 。大東の人なんですけど
この人と一緒になってしまって
(子どもは)いませんよ 晩婚も晩婚だから

次世代へ
いくらなんでも 世の中のある限りは戦争という戦争をしないでくださいって
それだけのことです
私は 本当に戦争の怖さをわかりました
自分の好きなこともできないし
好きなことって言っても、あれだけど
本当に辛かったですよ とっても

収録日:2017年(平成29年)12月12日

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