高安 平田 光枝(学童疎開(宮崎県岩戸村))_1_全文
| ID | 1170251 |
|---|---|
| 作者 | 平田 光枝 |
| 作者備考 | 出身地「高安」、1936年(昭和11年)生、当時8歳(小学校2年) |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 学童疎開(宮崎県岩戸村) |
| 資料名(別名) | 高安_平田 光枝_「8歳の平田光枝さん。集落に駐屯していた日本兵の強い薦めで、宮崎県に学童疎開します。はじめての氷、はじめてのいじめ、はじめての飢え、幼い感性が鮮明に記憶した疎開とは…」_1_全文 |
| キーワード | 学童疎開(宮崎県岩戸村)、学童疎開 |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc3、YouTube @TGDA_okinawa |
| 出典1リンク | https://youtu.be/eYt9eaGZ_ek?feature=shared |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 高安 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
| 年月日(始) | |
| 年月日(終) | |
| 年代(西暦) | 1940年代 |
| 年月日(和暦)(終) | |
| 年月日(和暦)(始) | |
| 年代(和暦) | 昭和10年代~昭和20年代 |
| 始期(年・西暦) | |
| 始期(年・和暦) | |
| 始期(月) | |
| 始期(日) | |
| 終期(年・西暦) | |
| 終期(年・和暦) | |
| 終期(月) | |
| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010604文化行政 |
| 収納分類4 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶 |
| 資料内容 | 日本軍の思い出 昭和19年かな。高安で一番か二番(に大きかった)。私のお父さんの実家、この角にあって そこに兵隊さんたくさん入っていらっしゃいました とっても優しいおじさんたち 私なんかいつもそこで遊びますから、そしたら兵隊さんが2人ぐらい並べて ベルトはずして、叩くんですよ 私なんか見ておって「アガー、アガー」 もう見て、自分たち「兵隊は嫌い、兵隊さん嫌い」言ったら 他の部下の兵隊さんが 「みっちゃん、おじさんも嫌いか」って聞くから「大好きさ」って「毎日見ている人は大好き」 「あのおじさん叩くよ 大変よ」って 「私、こんな人、大嫌い」って言って そうしたら相棒に「これから子どもの前では叩けない…」 グジュグジュ言っているんですよ 長男兄の召集令状 私たちが内地に行かない前で 長男兄さんに赤紙と言うんですか、召集令状が来たから 「兄さんは甲種合格だよ」って赤い連絡の紙、兵隊という 甲種合格だよとか、子どもながらに覚えています 戦争に行くことは、良いことだね まさか死ぬとかそういうことまでは考えないし 「兄さんは甲種合格だぞー!ホレ」と言いながら、腕もこんなにして また棒の手をしたりやっているのを見て、こんなにいいことだねと思った 日本兵が勧めた学童疎開 3年生以上だったんですけど、こちらの兵隊さんが 「みっちゃん、必ず学童疎開しなさい」と 「学童疎開というのは、お父さんお母さんと離れて行くけれども」 「心配することないから、お父さんお母さん沖縄にいても」 「あんたは、妹も 一緒に学童疎開しなさいよ」って それで私は宮崎に学童疎開したんです 本来だったら 2年生だから行けなかったんですけど 「あんたは本当は行けないけど、お父さんお母さんに行けるよう手続きしてもらって 」って だから今、大人になって考えると やっぱり、自分の実家(にいた兵隊は)偉い兵隊さんがじゃなかったかな 何か色々考えて下さったんじゃないかと、今つくづく思うんです 疎開船 船上 前から駆逐艦が護衛して、私たちが乗ったのは大きい船ですから 船の中で、海軍の兵隊、兵隊ではないけど、朝から晩まで抱っこして、可愛がって 私の妹が 1人、一緒なんですけど、私だけ可愛がって 私はもう最高に良かったです 私を「みっちゃん、みっちゃん」、夜も腕枕してお尻もたたいて 暑いから、扇いでくださる方がいたんですよ そういう子が行くから見てちょうだいってお願いしてあったのかって とにかく(実家に)偉い兵隊さんが 1人いらっしゃたんですよ それでだったのかなって。今でも(一緒に疎開した) 2 人が 「なんで、みっちゃんさ、宮崎行く時、船の中であんなに、可愛がられたかね」って 知らない 宮崎までついていらして、帰られたって、この兵隊さん 疎開先、岩戸 ふつうの田舎みたいな、このへんみたいな感じ そんなに気づかいもしなければ、ただ私が一番最初バスから降りて 防火用の水桶があって、どこの家庭もあったんですよ 初めて見た氷 東にも西にも置かれているんですよ。これに水がいっぱい入っていて ガラスが浮いているんですよ。沖縄では見たことないものだから 突くと同時に「えっとっても冷たいけどガラスが浮いてるさ~」と言って? 「へー、こんなってあるかね」って。妹に「見てごらん、こんなよ~」 そしたら氷ということ知らないんですよ 学童疎開・旅館 みんな、遠足みたいな感じを受けたんじゃないかと 子どもだからそんなに知らない 親から離れても、お兄さんお姉さんが、いっぱいいますから 何もそういう心配もないし また与えられたのは大きい部屋ですから 何年生から何年生はここ。どこはどこという感じで分けてもらったんですよ だから寝る時も、いつも一緒、お兄さんたち、お姉さんたちも だから寂しい思いもしたことないし 学童疎開・食事 食事は、米は少し入って こっちではジョンジョロージューシーって言うんですよ、少しだけお米入れて 一階で食事はみんな揃ってしますから、上の階段から何番目と (目星をつけた)先輩方が大きいの取るんですよ 「何番目はワームンド」「何番目は僕のものだよ」とか。 私は小ちゃいから「どこに空いてますか」って言ったら「ここ空いてるよ」 (小さい)私達は、食べるのが、ないから、よく おばさんたちが可哀想だと思 って 「はい、誰々、 3名はおばあさんと薪十い行きましょう」って「はーい」って喜んで行くんですけど (世話人の)おばさんの言い分としては 「あんたがた(小さい子)は家にいたら、もうモノマチカンティスセーヤ」って ご飯の来るのが待ち遠しいという感じだから いつも、あっちこっち、薪も十いきれなくても、連れて歩いたよーって、おっしゃるんですよ そうだったんだと、とっても感謝はしています 屋外での食べ物探し (外に)出れば、神社なんかに行けば、栗が落ちていたり、しいたけを 大きい神社だから、いっぱい木も生えて (しいたけを)植えてあるらしいんですけど、植えているとは知らない、最近知って 取って食べて、生。生をそのまま。もう食べられるものは口に入れて食べましたよ 私の妹なんですけど さくらんぼの木、学校の校門にさくらんぼの木、大きい木があって さくらんぼいっぱいなっているんですよ 食べたこともないものだから 取って食べたら美味しいって、2人中毒するまで(食べた) 妹がいっぱい食べたと言って、ポケットにもいっぱい入れてきてね 「ご飯よ」したらガタガタしているんですよ。どうしたのかねしたら 「妹とキミと学校でいっぱい食べていたよ。この中毒じゃないか」って え!すぐ病院にって。10分ぐらい行けば病院だから そこに連れて行って、ちょっと食べ過ぎたねって言われて、安心したんですけど 学童疎開・食料調達 食べるのが本当にないから、人の芋畑に行って こっちの芋は、すぐこんなって抜けるよということで 1つ持ってきたら、4・5個出来ているんですよ 持ってきて生で食べて、すぐそのままかじって また 1人では食べない、必ず分け与える 私なんか人のもの取るということやったこともないし、何も分からん だけど先輩の男、 1 つ2 つ上、 3 年生 4年生ぐらいは一番 やんちゃする頃だから、その方なんかが取ってきて ぬかをポケットに入れてくれるんです、夜 私みたいな弱い人に分けてくれるんですよ、ポケットに入れてくれる そして「ありがとう」って また起きて残ったのそのまま食べて また麦とか、あっちこっちから盗んできては、先生方はまた ごめんなさいって詫びしに行ったり、それも2回ぐらいありましたよ 日課・沖縄への挨拶 朝起きたら必ず南に向かって「お父さん、お母さん、おはようございます」 「今日も学校で一生懸命頑張って勉強してきますから」 「心配なさらないで下さい」ってこれだけ。全体で一緒に沖縄に向かって いつも「おはようございます」また寝る時も「お休みなさいませ」やったんですよ 疎開先で聞いた戦況 いつでも日本は勝ったって、お休みなさいの前に 「今日も兵隊さん頑張ったみたいですよ」 「今日もどこで勝ちました」って、パチパチパチして。毎日、日本が勝った話 疎開先で受けたいじめ 私は外間なんです、旧姓は、だけど「はかまさん」ほかって言わないんです向こうの方 「はかま~、はい、こっち来い」って男の人達が呼んで また女性も、私を真ん中において、セルヤーセルヤーというのをするんですよ すぐ「セルヤー、セルヤー」って 向こうからも「セルヤー、セルヤー」して寄せて、私をつつくんですよ 手で打ったら多分、よくなかったんじゃない、今考えてですよ 今考えたら、手で打ったら叱られるから、みんな5、6名、10名すぐ右に左にって 私を真ん中に必ず立てるんですよ そして「セルヤー、セルヤー、セルヤー、セルヤー」して あっちにも寄せる、こっちにも寄せる いじめることがあったら、お兄さん、お姉さんたちに言いなさいと そしたら、ちゃんとするからって 「あんたがたがあんまりこんなしたら、お兄さんに言うよ、3年生に言うよ」 あとからやらなくなりました、翌日から 学童疎開・団子と世話人 他の人よりはずっと私はみんないい友だちに恵まれて もう本当に幸せだったと思いますよ 祭り、なんかがある時は 団子というの持ってきてくれたんですよ みんなも最初もらったけど、あとからもう全然もらえないんですよ だけど私はこっちに来るまで、箱のいっぱい持って来て 「ただいま」して帰ってきたら、おばさんが 「みっちゃん、今日は、天長節だから、何か、もらったね」とおっしゃるんですよ。 だから「はい。こんなしていっぱい団子もらいました」って 「一人だけで食べないよ。こっち持っておいで」って、おばさんが全部、取り上げて またみんなに切ってあげるとか、1個ずつあげるとかこんな感じでやったけど だから(世話人の)おばさんたちも大変ご苦労なされたと思います 今はそう思います。前は子どもだから何も分からないし。 「おばさんたちは、自分たちはたくさん食べているはずなのに」 「私達はいつもひもじい思いしているさ」っていう感じで 考えていたんですけど。そうじゃなくて やっぱり、おばさんたちもいっぱいあげたいけど、無かったんですよ。 だからいつもこの話、最近までおばさんなんかが亡くなるまで 「こんなだったよ。みっちゃん」っていう話してました 疎開船の轟沈 自分たちが乗ってきた船は沈没した 「へえ、アンシェ、あの優しい兵隊さんも!」これだけは覚えてます。今でも いつ聞いたかは分からないんですけど、そういう話は聞きました これも宮崎で生活して、しばらくしてから あの優しいおじさんが、自分のお父さんみたいな人が とっても可愛がってもらって「みっちゃん、みっちゃん」して この方が亡くなったのかって、子どもながらに泣きましたよ 帰沖・家族の再会 戻ってきた時はですね、自分の父が、イリーモーグヮーという 自分のお家の隣りにちょっと山みたいなものがそこの所に立って 自分たちはまた車に乗っかってきたもんですから 「おいおい、光枝よ」するから「私のお父さん!お父さんよー」って喜んで うちの父が「ユウキチよ、光枝よ」して呼んでいるから 上のほうから。見たら、おばさんたちが 「光枝、あなたたちのお父さん、生きているよ、元気よ」と言って とても喜んだことがあります。 そして帰ってきたらお母さんなんかもみんな元気で、良かったですけど 次世代へ 自分の孫たちには 「おばあちゃんたちは、こんなして学童疎開して、そういう経験もあるよ」 「だから戦争というのは絶対やるもんじゃないよ」って 戦争はもう何があってもやったらいけないということ いつでもそれは念頭に置いてます 一歩譲れば、戦争起きなくていいのに、必ず負かそうとするから 兄弟でも一歩誰かが譲れば、食べ物でも譲れば喧嘩しなくていいのに。それだけはいつも。 (今の)こんなにいい世の中に、生きて良かった、いつも感謝です 収録日:2017年(平成29年)12月4日 |
