高安 大城 良子(学童疎開(宮崎県岩戸村))_1_全文
| ID | 1170241 |
|---|---|
| 作者 | 大城 良子 |
| 作者備考 | 出身地「高安」、1932年(昭和7年)生、当時12歳(高等科1年) |
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 学童疎開(宮崎県岩戸村) |
| 資料名(別名) | 高安_大城 良子_「12歳の大城良子さん。自ら、申し込み、宮崎県に学童疎開します。疎開先で体験した厳しい冬、飢え、そして差別とは…」_1_全文 |
| キーワード | 学童疎開(宮崎県岩戸村)、10.10空襲(十・十空襲)、学童疎開 |
| 総体1 | 豊見城村史_第06巻_戦争編_証言 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc3、YouTube @TGDA_okinawa |
| 出典1リンク | https://youtu.be/WQoYf6mbHl8?feature=shared |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 高安 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
| 年月日(始) | |
| 年月日(終) | |
| 年代(西暦) | 1940年代 |
| 年月日(和暦)(終) | |
| 年月日(和暦)(始) | |
| 年代(和暦) | 昭和10年代~昭和20年代 |
| 始期(年・西暦) | |
| 始期(年・和暦) | |
| 始期(月) | |
| 始期(日) | |
| 終期(年・西暦) | |
| 終期(年・和暦) | |
| 終期(月) | |
| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類3 | 6010604文化行政 |
| 収納分類4 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶 |
| 資料内容 | 戦前の高安 皆、サトウキビを植えてるから、 皆でユイマール(助け合う) 馬とかも2頭ずつ皆いますから、例えば誰がでも、馬を借りたいなら貸して また自分たちがやる時は借りて、助け合う 製糖場 こっちも製糖場でしたけど、1号2号3号ってありましたから 5号ぐらいですかね 家の手伝い 私たちは、色んなことをさせられる 畑に行ってカズラ、イモを掘る前にカズラを刈ります 私はイモ掘りは出来ないから カズラの前刈りをさせられました 学校に行って、家に帰ったら、また畑に行かせられたりして 何が楽しかったでしょう。遊ぶ時しか 高安の日本軍 (日本軍が入ってきたのは)さあ、いつ頃か、疎開する前ですから、(昭和)19年くらいかな (昭和)18年か、壕も掘らされたんですから 壕堀り これぐらいのザルをもって、これに兵隊さんが掘った クチャンプニー 沖縄のクチャ(泥岩)が(壕の)奥から出るので それをザルに入れて運んで 勉強はできませんよ 学童疎開 申し込み 妹とおじさんとおじいと3 名で一般疎開することを聞いたんですよ それ聞いたから、私は連れて行かないって 3名しか行かないと言ったもんだから、私はもう学校に行って申し込んだ みんなは お父さん お母さんたちが 申込んでやったんですけど 私は自分で申し込んだ。 疎開船 船上 (乗船して)いい気持ちでしたけど。ああ、沖縄離れるなと思って 部屋には入らないで、甲板に子どもたちはみんな乗っていた 途中で魚雷(攻撃)が来るって思ったのか、何か分かりませんけど 真夜中に海軍の兵隊が、ガラガラ、上に上がったりなんかして ガラガラするので、起きてしまったんですけど 魚雷が来るんだってよと、心配も何もなかったですけど 学童疎開(陸路移動) (鹿児島に到着)旅館に一泊、すぐ汽車に乗ったんです 汽車に乗るのは嬉しかったですよ。みんな喜んで、騒いで トンネルに入ったら、鼻とかも真っ黒くして、笑ってたんです 学童疎開 花田旅館 旅館は花田旅館でしたか…布団もちゃんとあって (布団は)疎開する時に持ちなさいということあったんですけど 私は自分で申し込んだもんですから何も持たされなかったんですけど 旅館の布団がみんなに与えてありましたから また大きい布団を持っている人は、誰々と一緒に寝なさい、ということで 決められていた 学童疎開 食事 はかり飯で、高等科と1年生まで、みんな同じはかり飯ですから おばさんたちがいる所で、入れてまたこうやって計って 5、6年生以上は(量が)足りなかったでしょう ひもじい思いを、皆しているから お汁も具がない、具が1つ2つ入って 味噌汁といっても塩じゃなかったかねと思うんですけど そんなに味噌汁の味はしなかったんですけど ご飯とその味噌汁と、食事は おかずはない 学童疎開? 食料調達 大変ですよ、男の人たちは。だから大変みたいで、ひもじいから ちょっとは泥棒をやりに行きよったんですけど 男の人たちは、夜も盗みに行って。こんなにしてみんな、しのいだみたい 学童疎開? 日課 起きるのは、6時に起こされますから 先生たちがいらして、「はい、起床」と言って起こして 布団とって、またラジオ体操して、顔洗ったりなんかして、学校に行く 疎開先での差別 高等科1年の先生は、あんまりよくなかったです 「沖縄人」と軽蔑するところがあって 高等科1年の男子を教える先生は、興梠先生って言いましたけど あの先生はとっても優しかったです、沖縄の人には 男の人たちは喧嘩したりなんかしますけど 引率の先生方は 沖縄人って、軽蔑するなら、一緒に戦え 戦いなさいって言いました 沖縄の喧嘩と、向こうの喧嘩では違って 沖縄はすぐこう殴ったり蹴ったりするんです それが怖くて、逃げたりなんかしていたんですけど、沖縄の喧嘩は怖いと言って 引率の先生が「沖縄人って軽蔑するなら、やりなさい」と言ってるから すぐやるんですよ。そうしたらもう、軽蔑しなくなっている 10.10空襲(十・十空襲)の報 沖縄がどうなったかとか、空襲がありましたでしょう。すぐ聞きました 口伝えで、先生方がおっしゃったのか、何か分からないけど 「空襲だったってよ」とかこんなのはありましたよ 沖縄全滅の報 アメリカ軍が上陸して、みんな沖縄の人は全滅ってよとかなんとかと話は聞きました… いつも拝んでましたよ。ご飯食べる時にも拝んでましたし 学童疎開 村人との交流 村の人たちは優しくて 「お風呂入りに行こう」とか 「柿がいっぱいなっているから、柿を取りに行こう」とかって 連れて行ってくれましたから、今でも付き合ってます 4、5名 学童疎開? 農家の手伝い 向こうとっても寒いんですよ 私達が行った時には40 年ぶりとか言って 足のこのぐらい、朝起きたら雪が積もって 寒い所なんですよ、山奥で 生徒たち、沖縄から行っているものだから、冬物というものは、ないですよ だから靴でも足袋もないし、草履とかこんなので行ったから ちょうどこっちから向こうの学校に 個人でも何年生でもいいから、養いたい家庭を募集したんですよ 何年生はうちに来て欲しいとか、手伝いできますよね 稲刈りとか田植えとか、やっていますから、これもできるから これを手伝いたい人たちは、何年生をやってくれとか、こうして 子守りは何年生をやってくれって。下級生ができますので、子守りだったら こんなにふうに、募集があったんですよ 高等科2年と私が高等科1年で、2組 兄弟同士の家でしたから、そこに募集されて行ったんですよ そこで足袋と靴と、準備してもらって 個人から学校に。学校が募集して また学校から、はい、誰々、どこに行きなさいって、募集がありました 稲刈りとか、また田植えとかを、させられたんですよ。 そこでも、テーブルに、おひつをこうして2つ置いて、5、6人だけど そしてうどん汁、うどん汁って、自分で打って作ってるんですよ それを夕ご飯に並べて、自分が食べたいぐらい、食べて 男の人たちは いつもひもじいものだから、食べるだけ食べてから、歩けないぐらい食べて 途中で本当に休んだりしたんですよ 旅館に行ったら何もないから、食べれるだけ食べていて 自分が欲しいだけあるので、ご飯もいっぱい こんなにしてみんなもう大笑い。今でも集ったら話して大笑いですけど 終戦の日 先生方も 歩く人たちも、地べたに、こうしてしゃがんで 泣いていたもんですから、何かな、と思って 何が起こったのかと思って、聞いたら 戦争に負けたってよ、という話 地べたにこうして泣いていたものですから、大人たちは 何が起こったのかと思って。ラジオ放送も何もなかったから 戦争が終わってからです。延岡工場に行ったのは 父親と再会 お父さんがボルネオにいましたから ボルネオから引き揚げてきて 子どもたちが生きているかって、県庁とか、あっちこっち、探したみたいな (父は)神経痛を患って、病院に入院していたんですよ、鹿児島の病院に 入院していたから、延岡工場、2カ月は働いたかな 呼び出されて、鹿児島の病院に、お父さんを看病しに行きました 帰沖 沖縄に戻るのは、みんなと一緒じゃない みんなは1カ月前に来ているんですよ 私は、後から一般引き揚げに乗ってきたんですけど 高安に来た時に、疎開者で先に帰った人たちが4、5名来ていたんですけど (肌の)色が真っ黒になって来ていたから、びっくりしたんですけど 1カ月でこんな真っ黒くなるんだと思ったんですけど 帰沖直後の暮らし 沖縄に来た当時は、物もあまりなくて、大変でしたよ ゴミの中をあさって、こんな材料、古材料を探しながら コンロないでしょう、だからこんな古材料を探しながら、食べ物も探していたんですよ 戦後・疎開先との交流 (戦後、疎開先に)初めて行った時には、ほとんど生きていらっしゃいますので おばあちゃんたちが本当に泣き叫ぶ 「あの時はごめんなさい、ごめんなさい」って 「本当にやってあげたかったけど、向こうも食べるのはなかったのよ」って 「本当にやってあげたかったけど、親を離れて、親兄弟を離れてきて」 「ひもじい思いさせたこと、本当にごめんね、ごめんね」と、泣いてましたよ そのおばあちゃんたちが、ほとんどいなくなりました 次世代へ ひもじい思いするし 寒い思いするし いろんなことがありますけど そうですね、戦争はやってほしくないですよ 子どもたちの夢も壊すし 本当にあんな暮らしは もう二度とやりたくないですよ 収録日:2017年(平成29年)12月4日 |
