高安 宜保 フミ(南部避難)_1_全文
| ID | 1170221 |
|---|---|
| 種類 | 記録 |
| 大項目 | 証言記録 |
| 中項目 | 戦争 |
| 小項目 | 住民 |
| 細項目 | 南部避難 |
| 資料名(別名) | 高安_宜保 フミ_「23歳の宜保フミさん。米軍の攻撃で、片腕に大けがを負いながら家族や親せきと南部へ避難。追い詰められた海岸べりで、家族を次々と失います。」_1_全文 |
| 資料内容 | 子供の頃 畑仕事 お父さんとお母さんがいて、私は一番上だったから、学校から帰ってくるのも、6年生にね 帰ってきたら、すぐイモ掘りに行ったり、小さい兄弟たちがいたから、ずっと待ちかねて 学校から帰るのを待ちかねて、お母さんが。4・5歳からお母さんの手伝いしていた イモ掘りの他に、サトウキビ畑の仕事もある。男のようにいっぱい頭に乗せてやった 昔は、馬はいるけど、人間が担いで、女は頭に乗せて、男は肩に。こんな仕事していた 飯作りはお母さん。お母さんが子どもたち見ながら飯作りやっていた。 私たちは畑に行ってイモ掘ったり、10月頃なったら製糖の仕事が始まるから 結婚 結婚は(早かった)私たちの時は、20歳までは家にいられなかった。 自分で決めるよ 私たちの時には、夜になると男も女も、役所の敷地とか、集って 歌を歌ったりして、流行の歌を歌ったりして 20歳くらいに結婚したかな、結婚して、よその集落に行っていたんですよ。 高安ではなくて、よそ(上田)の人と結婚して、そして子どもがいたんですけど 亡くなった夫 すぐに兵隊に行って、いないですよ、6カ月くらいにね、子どもが(生まれて)6カ月まではいた 熊本辺りに行ったけど あっちについたからまた別に船に乗り換えて別のほうに行って、亡くなったって 同級生のお父さんが、亡くなったよって、私に話した 失った腕 (腕を怪我した)のは、上田の人の家の門で ずっと向こうに艦砲が落ちたんですよ。その艦砲の破片でやられた 子どももおんぶしていたけど、子どもは大丈夫だったけど 壕に行こうと出た時に。艦砲は朝は緩やかだからゆっくり行こうとしたら、艦砲が始まってよ あっちこっちに落ちて破片が飛んできた 夫の母親もいたけど、ケガしたから(高安に)帰ってきた 軍属に連れてこられた。中頭の人たちに、担架か何かに乗せられて、高安に帰ってきた 上田に病院があったけど、艦砲が激しいから、医者は壕に避難して、出てこなかった 私は、軍属さんたちに助けられて「これで治るよ」って言われて 薬は無いから自分で、雨降りに出てくる虫、アミライムサー(ナメクジ)というんですか あれを塩で溶かしたら、脂になる。それを(傷口に)付けた 雨が降ったからたくさんなナメクジいるわけ 今はあまり見てないけど、昔はたくさんいたから あまり治療してない。すぐそのまま もう治っていた、すっかり 治療しないで、すぐそのままですよ お医者さんが、あんな治療しないよ。ただ薬だけ塗って (腕は)怪我で切れたけど、そのまま治った 亡くなった子ども 赤ん坊じゃなくて、大きくなっていた。(1才の)誕生は越していた 3月まで(1歳)だから、もう5月だから、ちょっと誕生日は越して あれから大丈夫って家に置いて、昼はお粥を炊いてあげて 私は仕事ばかりしていた。旦那もいないから、誰もいないから、男のように仕事していた 赤ん坊は、主人の妹もおばあもいたから、夫の家族に預けた。高安には連れてこなかった 宜野座辺りまで行ったというけど、私が会った時にはもう亡くなっていた 妹は14・15才だから、(子供の面倒)見きれなかったはず (子どもは)栄養不良で亡くなったって言っていた。助からなかったって マサヨシって(平和の礎に)書いている。見て確かめた。 実家の家族と南部へ避難 糸満には行ったよ。1カ月くらいかな、こっちにいて。高安にはいられないよと言ってから 何名だったかな。2家族だったけど 私たちの家族は、父と母と、弟と妹と5名ぐらい お父さんは持てるだけ羽釜とかいろんな所帯道具持って (おじさん家族)も5名か6名ぐらいだった 小さい子供たちもいたから 一緒に、島尻に、糸満から山城に行って、山城に長くいた 2週間、10日ぐらいいたかな。山城というところで 亡くなった父・母・弟 こんなに小さい岩場みたいな所で、こっちに 日本の兵隊がグヮーグヮーグヮー急いで来たから、すぐ日本兵めがけて アメリカの鉄砲隊がこっちまで来ていた アメリカの兵隊が鉄砲で、この時は艦砲ではない、鉄砲。 あの時には艦砲はもう止んで、艦砲撃たないけど、陸の兵隊たちが戦車から来たり 島尻の、(沖縄戦も)終わり頃、艦砲はあっちにはこなかったけど その前には来たけど、捕虜になる時には艦砲なんか無い 日本の兵隊さんたちは、ヤマトゥンチュー(他府県の人)だったはず 私たちのいるところに来て、私の家族も撃ち込まれてよ、鉄砲で 父と母と、こっちに昼寝していた時、亡くなっている 寝たまま、弟と… 弟は4、5歳。歌もよく歌って「撃ちてし止まん」こんな軍歌も分かるぐらいだった 私の父は49ぐらいだったから、兵隊には行かなかった (家族が亡くなった場所は)束辺名。今のチリ焼き場(糸豊環境美化センター)のところ 捕虜 私は少し足をケガした。捕虜の時には、血があっちこっちから出て、歩けなかったけど よその人に連れられて、途中まで行ったら、アメリカの車が迎えに来た 捕虜になったのは6月22日ぐらいだった 23日ぐらいに終わり、戦の終わりという時に、22日だったと思う (腕の包帯に)書かれていたよ。アメリカが書いたか分からんけどさ 6月22日って書かれていた。覚えている、(腕の包帯)こっちに、巻いたところに 伊良波収容所 そして(米軍の車に)乗せられて、伊良波の収容所に あっちこっちからみんな集っていた 畑だったかも。集落内じゃなかったと。金網で囲まれていた 宜野座 久志収容所 石川に行った。家族とおじさんたちは。私たちは病院に運ばれた。久志の病院に 病院には長くはいなかった。病院には知っている保栄茂の人がいたから 私は足は元気だから、あっちこっちのテントに行って、豊見城の人ね 豊見城の人が、こっちにも、あっちにもいるよって、みんなに面会に行った 歩けない人もいるでしょう。だから、豊見城の人を励ましたり、話を聞いたりして 古知屋収容所 古知屋に高安の人がいたので、そこに一緒に行った 古知屋の開墾、木がいっぱい。私たちがいた所は8区。19区まであった 古知屋の真ん中に19区。ずっとずっと山のところにあった 帰村 豊見城に帰るのは、(おじさん達や高安の人と)一緒に。渡橋名に。 座安小学校の近くに、豊見城村の人が全部集って、集落の掃除して みんな集落全員よ、高安の人も別の人も。掃除したら茅家を作って、集落(高安)に引越した 私達も屋敷跡にテント小屋作って、引っ越した 二人残されて 父と母と弟と3名が亡くなった。(生き残ったのは)私と学童疎開させた妹。 妹は5年生。2人、生き残って。あとで(妹)が結婚して私は家にずっといる 次世代へ 戦争のことは、なんでこんな小さい沖縄に、こんなたくさんのアメリカ兵が来て 船は、水面も見えないくらいの船だったよ、あっちからアメリカの船、浮かんで 那覇港、あの辺、水面は見えない。船だけ浮いてる こっちに戦争が起きたのかな。こんな小さい島に戦争が来たかな 日本に大きな土地があるのに、あっちに行けばいいのに、なんでこっちに来たかって思うぐらい 嫁さんの親も、20歳もならないのに、弾薬をおんぶして首里まで行ったという話を聞いた 肩にリュックサックのように持って行ったって 竹やりグンサン(杖)して、運んだってよ。このお父さんから聞いた。嫁さんのお父さんだよ (戦争について言いたいことは)今は言いたいことはない。今は一流の暮らししている 収録日:2017年(平成29年)12月4日 |
| キーワード | 南部避難、学童疎開、伊良波収容所 |
| 総体1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶_映像資料 |
| 総体2 | |
| 総体3 | |
| 出典1 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc3、YouTube @TGDA_okinawa |
| 出典1リンク | https://youtu.be/7C9LkFNxt2A?feature=shared |
| 出典2 | |
| 出典2リンク | |
| 出典3 | |
| 出典3リンク | |
| 国名 | 日本 |
| 都道府県名 | 沖縄県 |
| 市町村 | 豊見城市 |
| 字 | 高安 |
| 市町村2 | |
| 字2 | |
| 時代・時期 | 近代_昭和_戦前 近代_昭和_戦中 昭和_戦後_復帰前 |
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| 年月日(終) | |
| 年代(西暦) | 1940年代 |
| 年月日(和暦)(終) | |
| 年月日(和暦)(始) | |
| 年代(和暦) | 昭和10年代~昭和20年代 |
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| 終期(年・和暦) | |
| 終期(月) | |
| 終期(日) | |
| 収納分類1 | 6行政委員会 |
| 収納分類3 | 6010604文化行政 |
| 収納分類2 | 6_01教育委員会_06文化課 |
| 収納分類4 | 語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶 |
