高嶺 金城 利一(南部避難)_1_全文

ID1170201
作者金城 利一
作者備考出身地「高嶺」、1933年(昭和8年)生、当時11歳(小学校5年)
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)高嶺_金城 利一_「11歳の金城利一さん。日本兵に憧れ、竹やり訓練も真剣に取り組む軍国少年。「死ぬな」と言った日本兵。米軍の攻撃が激しさを増す中、避難壕を脱出します。はぐれた祖母と弟を追いかけて…」_1_全文
キーワード南部避難、10.10空襲(十・十空襲)
総体1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶_映像資料
総体2
総体3
出典1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc3、YouTube @TGDA_okinawa
出典1リンクhttps://youtu.be/voByXAz5kP8?feature=shared
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
高嶺
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)1940年代
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)昭和10年代~昭和20年代
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010604文化行政
収納分類4語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶
資料内容遊びと学校生活
当時の遊びは、すべて食べること。キビ畑で(サトウ)キビを食べたり
川で、カニとか小さいエビを捕って、焼いて食べたり
戦前の子どもたちの遊びは、ほとんどが食べることにつながります

日本軍・戦車隊
当時は、広い家の一番座、一番上の部屋は、兵隊が借りていました
字高嶺でも半分ぐらい入っていました
私が育っている家には、戦車隊の中隊長が入っていました
家に中隊長いたので、僕は可愛がられた
軍国少年になって、かわいがられて
戦車にも乗って演習も連れて行ってもらったり
中隊長のそばに、座っていましたよ

竹やり訓練
朝は早朝竹やり訓練をさせられて、みんな裸足で、冬は寒いし
竹やりをもって前に進む、「突け」といったら、わら人形があって
「これがルーズベルト、これはチャーチル」と突いていた
「米兵は、ヤギの目(青い目)で、夜は見えないから、一突きで殺せるよ」と教わった
私も軍国少年で、兵隊に憧れていたから、本当に真剣だった

10.10空襲(十・十空襲)
10.10空襲(十・十空襲)の頃は(小学校)5年生
那覇や空港がやられて、那覇の人たちが避難してきて、
うちの集落にも何家族か来ていました。
私達は田舎ですから、そんなに変わることはなかったです。相変わらず、壕堀り

壕掘り作業
学校は行かなかったです。学校は兵隊が入って兵舎になって
私たちは、地域の拝所などに集合するが勉強はしなかった。すぐ壕掘り
一列横隊でずっと並んで小さいザルを手渡しした
ほとんど毎日でした、授業はなくて

戦車
戦車があったのは、(平良の)給油所の下で(以前)砲弾が出たところ
あっちに戦車は隠してありました

壕避難
米軍が攻めてくるまで、どこにも行かなかった、集落の壕に入っていた
兵隊が掘ったわりと大きい壕があって
そこに入った、なぜかわからない
わりと大きい壕だったが、4・5所帯入っていたと思う
米軍が来た5月までは、ずっとこの壕にいた
上の畑へ行ったら、海は全部見えた、米艦が囲んでいた
海は見えないぐらい全部船だった。米軍の。6時になったらドンドンドカドカ撃っていた
砲弾は、前は遠くに落ちてたが、だんだん近くに落ちるようになって

戦車隊 出撃
戦車隊も5月のはじめだったか
出撃命令が下って、僕らは手を振って万歳して見送った
戦車が行くのを、首里に行くの、一線に

シカー兵隊
今でも覚えているが、ユキタさんという上等兵で、いつも一緒だった、私は
「坊」と呼ばれていた、「坊、ちょっと来い」と戦車の片隅に呼ぶから行った
「日本は負けるよ、犬死にするな、死ぬなよ」と言われた
当時は、親切とは受けず「臆病な兵隊だな」
当時は死ぬことは怖くないと思っていた
今だったら「この兵隊はありがたい話をした」と思う、当時はそう思わなかった

壕 脱出
5月の中ごろ、米軍がここまで来た、「逃げろ」ということでみんな南部に逃げた
避難する時、壕から一人ずつしか出られない、狭いから
一列縦隊になって、列を作って、逃げる
手ぶらの人もいれば、荷物を担ぐ人もいる、それで逃げていった
どういう意味かわからないが、僕らは母も一緒で、一番あとだったと思う、列では
前列は、どんどん前に行く
轟泉(トゥドゥルチガー)の辺りまで来たら、どんどん弾が落ちた、艦砲射撃が、この辺に
僕たちから見たら、前に弾が落ちる
前の人から見たら、後ろに落ちる、弾は(列の間に落ちた)
前の人たちはヒンギー、前に逃げる、僕たちは後ろに下がる、そこで弟と別れた

祖母と弟
僕が5年で弟は4年の早生まれで、2つ違いだが、学校は1つ違いだった
弟は大家(ウフヤー)のばあさんと行ってしまった
先に行ったなら、追いついていくとしか思っていなかった、永久の別れとは思わなかった
ところが追いつけなかった、行けなかったんです

避難民
道路は避難民も兵隊も、いっぱい並んでゾロゾロゾロゾロ行く
(糸満)阿波根の入口まできたら、いっぱい帰ってくる人もいた
大人同士の会話で「行っても隠れる壕はない、行かないほうがいい」と一生懸命に言っていた

阿波根の壕
僕らのグループは、阿波根の小さな壕に入っていた
グループは10名ぐらい
1週間ぐらい、その壕にいたかな、何日間か、そこにいた
すでに米軍は、糸満の先まで行っていた
夜になると、米兵が大声でワーワーするのが聞こえた
ワイワイしているので、壕から出れなかった、怖くて

捕虜
不思議と、米兵が、壕に入ってきた
身体も大きいし、壕の入り口は狭いが、ホーヤホーヤして入ってきた
僕の祖父が(居たのは)壕の入り口だった
子どもは(壕の)奥、大人は出口のほう。(米兵が)捕まえて「心配ナイヨ心配ナイヨ」と言った
日本語で「心配ナイヨー」していた、それはわかった
教えられているんでしょう、祖父を揺り起こして、祖父は起きて、ひざまずきして、こんなこんなして
「壕カラミンナ出ナサイ」と出されて、米兵3名いたが
僕の母親に、アメリカの妻子の写真を見せたみたいだった、こうして
「ああ、殺さないんだな」と思ったと母は言っていた
僕たちはてっきりそこで殺すものと、どこで殺すのかとしか、思ってなかった
なんだかんだお菓子とかくれて
食べるな(言われて)と食べなかったら、自分で食べて見せて、だから僕は食べた

潮平の収容所
引っ張られて行ったら、潮平の下に仮の収容所があった
方言で「スンジャ」といいますよ
ここで一晩、寝た。翌朝は「海ノ方ヘ並ンデ歩ケ」と言うので、歩いたら戦車が待っていた
水陸両用戦車が、これに乗れというから、当時の日本軍では戦車が海から泳ぐ話は聞いたことがない
大人たちは「ああ、この戦車ともども沈めるんだ」とワーワー泣いていた
乗ったら沖に、LST(戦車揚陸艦)が口をあけて待っていて戦車が上がっていった

仲順の収容所
北谷桑江というところ、そこの沖に船は泊まって
そこから戦車ゴロゴロ陸に上がって、トラックが待っていて
トラックに乗って、中城の仲順というところに、最初は行った

安谷屋の収容所
(仲順に)行ったら満杯で戻って、今度は安谷屋に行って、そこはがらがらで
エーキンチュ(金持ち)の素晴らしい家でした、そこに入りました
安谷屋は、食べ物はいっぱい。缶詰はもらってくるし、ヤギはとって食べるし
イモもいっぱいあるし、米の配給もわりとあった

安谷屋の軍作業
「16歳以上は軍作業に出なさい」と
米軍がトラックで迎えにきて、男はみんな連れて行った
僕は、小学校5年生。12・3歳。行ったら、受付の人が「16歳になるか」
「はい、なります」と言ったら「はい、乗れ」と言って、軍作業に行った
毎日、送り迎えトラックがあった
帰りは、缶詰いっぱいもらってくる
そうこうするうちに、山原に引っ張られて
ところが山原に行ったら何もない、1か月ぐらいで山原に行かされたから、金武の中川

金武中川収容所
何もない山の中に、仮小屋が作られていて、運悪く私たちの割り当ては一番山奥だった
米も缶詰もちょっぴりずつあったと思う
ところが量が少ないから、配給の度に、大人は喧嘩、それを子ども心に見ていた
食べるものなんにもない、しょうがないから海に行って、海藻が流れてくる、これをとって食べた
炊いて、みんな下痢した。食べるのがない。
周囲はイモもカズラも少しはあった
(畑の主が)取らさなかった、カズラの葉1本も取らさなかった、絶対取らさなかった
男は僕しかいない、12・3歳の少年が男だから
読谷の飛行場があって、米軍が食べ残しのチリ場があった
米兵の食べ残しを全部捨てる、それを取りに行く
今は恥ずかしいが、当時は平気で「ヘイギブミー」米兵を見たらすぐ「ギブミー」
これだけわかった、英語何もわからないが
平気で「ギブミー」って言っていた
米もメリケン粉も缶詰もだいぶある、1個でも手で渡してはくれなかった、全部投げる
袋に入ったまま投げる、だから切れてこぼれる、僕たちはこれをかき集めてこうして
この米を、とってゆっくりゴミを取って、というふうにして
いい時は1日ぐらい、なかなか集められない時は3日ぐらい
運が悪い時は途中でMP(軍警察)に捕まって、石川の警察に引っ張られて行って
沖縄の警察だった。CP(文民警察官)と言っていたが
全部取り上げられて、巡査たちが分けたのだろう
僕たちは1晩泊められて、説教され「家に帰れ」と
家に帰るどころじゃない、またすぐ読谷(で食糧探し)
何回か繰り返して命をつないだ

豊見城に帰村
はっきり覚えていないが、たぶん12月ごろ帰ったと思う
豊見城に
当時は渡橋名に2つあって、一豊と二豊(小学校が)あって、帰ってきたらすぐ学校へ行った
6年生になって、クラスも半分ぐらいは死んで、同級生は半分になっていた

高校受験
終戦直後一時は、7年8年って、あったんです
私は、7年生になって、7年も、8年も、(高校)受験できた。
私は7年入学
私たちの割り当ては糸満高校

糸満高校と那覇高校
茅ぶき校舎を作るということで、PTAが作業で、私たちは茅を担いで、糸満まで学校まで
茅を担いで行って、茅ぶき校舎が出来たら、1日2日入ったかな。那覇高が出来て、はい転校
糸満高校でも一生懸命作業ばかり、那覇高行ってもなんにもないから一から作業、できあがった頃は卒業

戦死した家族
一番辛かったことと言えば、戦争で肉親が亡くなったことだった
弟たちは、新垣・真栄平(アラカチメーデーラ)と言って、糸満の新垣という集落まで行っている
新垣の小さな壕に彼らは入っていたらしい
そこに兵隊が来て、ここは軍が使うから一般人は出なさいと急き立てられて
出て、代わりに軍が兵隊が入っているわけ
出たらもう隠れるところがないから、そこに迫撃砲が集中して落ちたらしい
その迫撃砲で何十名かそこで死んだ、その中におばあや弟も、集落の人たちも親戚もいっぱいいたと
結局、戦後、(生き残った)従兄弟の案内で、遺骨十いに行きました
その遺骨を十ったのが一番辛かったんじゃないかな
骨になっているからよくわからないんです。従兄弟が「これだ」と
頭も小さいし、着けている服の切れっぱしを、母が、弟のものだということで
服の切れっぱしと小さい頭とで、母が間違いないと連れて帰ってきた

次世代へ
今、日本の空気が、互いの空気が、戦争の前の匂いがする、だからたいへん怖い
武力ですべて解決するなんてとんでもない、そこを日本の戦前の軍は間違った
しっかり目を開いて、世界を見たほうがいいと思う
世の中は、最終的には、話し合いじゃないか

収録日:2017年(平成29年)11月17日

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