保栄茂 當銘 光清(南部避難)_1_全文

ID1170191
作者當銘 光清
作者備考出身地「保栄茂」、1932年(昭和7年)生、当時12歳(小学校6年)
種類記録
大項目証言記録
中項目戦争
小項目住民
細項目南部避難
資料名(別名)保栄茂_當銘 光清_「12歳の當銘光清さん。米軍が迫る中、父や道案内のおばあ達に導かれて、南部へ避難します。米軍の激しい攻撃に逃げ惑う中、任されていたご飯を炊く大切な羽釜を…」_1_全文
キーワード南部避難、10.10空襲(十・十空襲)、学童疎開
総体1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶_映像資料
総体2
総体3
出典1語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶(映像DVD) disc2、YouTube @TGDA_okinawa
出典1リンクhttps://youtu.be/RGkA-KzyqQM?feature=shared
出典2
出典2リンク
出典3
出典3リンク
国名日本
都道府県名沖縄県
市町村豊見城市
保栄茂
市町村2
字2
時代・時期近代_昭和_戦前
近代_昭和_戦中
昭和_戦後_復帰前
年月日(始)
年月日(終)
年代(西暦)1940年代
年月日(和暦)(終)
年月日(和暦)(始)
年代(和暦)昭和10年代~昭和20年代
始期(年・西暦)
始期(年・和暦)
始期(月)
始期(日)
終期(年・西暦)
終期(年・和暦)
終期(月)
終期(日)
収納分類16行政委員会
収納分類26_01教育委員会_06文化課
収納分類36010604文化行政
収納分類4語り継ぐ受け継ぐ豊見城の戦争記憶
資料内容
全部茅葺きで、いつも馬2頭は養っていました。
2頭のうち1頭は繁殖用で、子馬を生まして
これを売ります。
馬以外は、豚。繁殖用の母豚が1頭。
また1匹は、大きくして
正月になったら豚1頭つぶしてですね。このお肉は塩漬けしよったです。スーチカーと言って、塩漬け。

農作物
主にサトウキビです。自家製糖と言いまして
馬2頭ずつ養っていることは、この馬の力で砂糖車を引張らせて回して
3世帯イーマールと言って共同作業ですから、2頭ずつ、3所帯では馬6頭いたんです。
この6頭の馬で交代で車を引張らして、サトウキビ搾って黒砂糖を製造していました

家の手伝い
学校に行っている頃、馬の草刈り、毎日。馬は2頭いますから
父は勉強しなさいとは言わなかったです。学校帰ってきたら、馬の草刈ってこいと。

学校
豊見城の第二尋常高等学校。
3年生の時にこの豊見城第二国民学校に名称が変わったと思います。
4クラスまでありました。1クラス45名の時もあれば…このぐらいの大人数でした

学校の日本軍
(日本軍が学校に来たのは)私が小学校5年の秋頃だったと思いますけど
海軍の陸戦隊の山根部隊。
小学校全体が全部瓦葺でしたから、運動場にこの海軍さんたちは野戦用のテントも張って
運動場の隅々に、たぶん4カ所。井戸を掘って。こんなにたくさんの兵隊さんが入っているから
この井戸のそばに炊事場があったのを覚えています。
日本軍が入ってきてからは、学校の授業は正しい授業はなくなって
ほとんど午前中は一応出校して担任の先生から話を聞いたりして、午後からは
弁当持参で鎌を持ってこいという学校の先生の指導で、鎌を持って行きました
防空壕は松の木で枠木を立てていたので、この枠木の松の木の皮はぎ

学童疎開
私は学童疎開をしていないが、行く予定で荷物も準備していたが、私と弟と2人で行く予定が
昭和19年の8月、夏休み期間中でしたけど

病気
私が、左わき腹にリンパ腺ができて、もう痛くて
私が病気治すまでには、学童疎開の船は、同級生も全部、出ていったんですよ

10.10空襲(十・十空襲)
集落の外れの木の陰で、米軍の飛行機が低空(飛行して)
那覇の街に焼夷弾や爆弾を落とすのを眺めていました
もう弾1発で那覇港に入っておる商船、大きい船も全部爆破されて燃えている
真っ黒な煙が立っている。ああ、これは船に今、爆弾落とされて、これで燃えて
黒煙がこんな出るんだなと、子どもながらに思って見ていました

字の壕
昭和20年の3月頃に、この集落全体、米軍の空襲で、爆弾や焼夷弾が落とされて
ほとんどの家が茅葺の家ですから、焼夷弾1発でもう燃え広がって全部なくなったんですよ
もう1日の間に、全部この字保栄茂の集落は焼けてました。灰になって
その時はここに住んでいた人間は、個人の防空壕、準備して掘ってありますから
防空壕に逃げて避難していたと私は思いますが
家族と親戚で掘った壕が集落の後ろ側にあったのでここに隠れていました。
防空壕といっても、私達が掘った壕ではなく岩陰の昔の古墓
アジシーと言いますよね、今は。
どこの古墓だろうが、あの当時のお年寄りの話を聞いたら、
このイクサ(戦争)が終わったら、もとの位置に骨壷は返してあげますから、
今回は命を助けて下さいとお祈りしてあるから、大丈夫だよという大人の話を聞きましたけどね
私の家族の9名と母の実家の家族が4名。この1カ所に13名ですね、避難していました

南部避難
私達も集落から離れて南のほうに避難したんですよ
保栄茂から歩いて、この農道通って阿波根集落のあぜ道を、小さいわき道を通って
兼城まで着いたら、もう夕方なっているんですよ
もう子ども連れですからあまり長距離は歩けないですよね
荷物を担いで、大人は荷物を持って
家から避難食料として米、以前から貯めて持っているから、だいたい
1斗ぐらいは担いで持っていたと思いますけど
袋2つに分けて、うちの父が、棒で、オーダーに入れて、食料、鍋、釜。
お汁沸かす鍋とご飯炊く羽釜というのを。

羽釜持ち
私は親にご飯を炊く羽釜持ちを言いつけられていたんですよ
子ども4名分ぐらいは作って、この背嚢に鰹節1本と防空頭巾被せて、
紐もつけてあるからあごの紐結びなさいと親に言いつけられたんだよ

おばあの案内
おじい、おばあの中の1人は、とっても地理の詳しいおばあさんがいたんですよ
保栄茂から出たら次はどこに行く、次はどこに行く、
次はまた捕虜される前の糸洲小波蔵という、このおばあはよく知っていたんですよ
兼城の集落から出て国吉に行くまでは、今の糸満高校前の道を通って
あれは昔からの道だそうですよ、今現在、国吉坂ってカーブがある所です
ここ通っていきましたから、だから行く前からこのおばあさん1人は、道順は知って
だから子どもながらに、この年寄りがこんなに道がよく分かるかなと思って
家族が泊まっているあいだに、夜のあいだにですね、次の壕、避難する壕を探しに行ったり
中には食料炊く、この鍋釜が無い、置き忘れて無い人もいるから、夜の間に空き家から探して
こういう感じです
おじぃ2人と私の父3名で主に、どこ通って、次はどこまで行こうと相談していた。
子ども連れだから、長距離は歩けないから、次はどこの集落に泊ろうかと話をしていたみたいです

自然洞窟
この洞窟を探して、どこにあるか場所を探して、
探した夜は瓦葺家から私の家族はこの洞窟に移動したんですよ
入り口は小さいですけど、中に入ったらすごくもう広くて、天井も高いし、幅も広いし
この自然洞窟の入り口に兵隊が2人負傷して担架に乗せられて壕の入り口のそばに寝かされて
奥に入っていったら、怪我もしてない別の兵隊が10名ぐらい群がっているのがわかった。
見えないけど、声やこの人声を聞いて、まだ兵隊がいるなと思って
夜遅くに、この兵隊達が「避難民達は、この壕は広いから、入り口から奥に移動しなさい」と
もう戦争で気が荒れているから兵隊達も、何をするか分からんよ
兵隊さんが行けというなら、大人たちが、言う通りに奥に移動しようと、奥に入ったんですよ
夜中になっていたと思うが、この兵隊達は何も言わないで、静かにこっそり、夜逃げ。
移動ですよ、壕から出ていって、私達だけ残されて、
(親達が)これ洞窟で、抜け穴がないから、万が一、アメリカ兵が攻めてきて
手榴弾でも白煙筒でも、投げられたら、傷がなくても、窒息して、みんな死ぬんだから
兵隊達も逃げているから、夜明けに私達一族と親戚の子ども、おじい、おばあ達も一緒に
夜逃げしたんです

国吉の坂
兼城村の字兼城から夜明けに移動して
国吉という字がありますよね、糸満の南に。
あの坂道は、勾配、緩くなってるかも分かりませんが
あそこで私達は移動中に、死んでいる人を踏んで通りました。
真っ暗ですから、見えないから。足で踏み込んで、踏んで初めて足が熱くなって
ああ、今、死んでいる人を踏んだなと感じたんですけどね

置き忘れた羽釜
着いた所の国吉で、親に「お前に、鍋を持たせたが、どこに置いたか」と言われて、
これから、目が覚めた感じで、もうはっきり言わんと大変だから
「あの壕から出る時、とっても眠くて、羽釜、ご飯炊く鍋は、忘れて持って無い」と言って
糸満の兼城の洞窟で、夜明け方に移動するものだから、このご飯を炊く鍋、羽釜というのですね
親が鉄兜を頭から、蓋を手に持ってこれ忘れてはいかんよと厳しく言われていたんですけど
もう夜明け方の眠い時期に起こされて移動ですから、このご飯炊く鍋をこの壕に私は忘れて
次に、国吉の集落から、夜明け方に、まず南のほうに移動した
小さい子供たちは寝かせたらなかなか起きないですよね、起こしたら泣くんですよ
だから起きている時間に「明日は夜明けの何時頃起こすから
パッと起きない子は、もう置いて行くよ、と言いよったから、親は
置いていくよという話。親が言うこと聞かん子は、イクサユー(戦世)だから置いていくよ、というか。

名城の古墓
集落の後ろから、糸満市の名城、字名城に通じる農道があって、
そこを歩いて名城の集落に行って、もう家は壊れて家に入れないから、
地下タンクに水はないから、ここで一夜を過ごして
私達が寝ている間に
この集落の海岸、北名城の海岸からちょっと陸地の山手のほうに
岩の下には古墓やお墓があるんですよ
私ら家族はこの古墓の岩下に10名入っていたんですが
隣もまた点在した感じで岩がぼつぼつあったんですよ。ここもほとんどもう古墓で
家族が少ないところはこの小さい古墓を利用してそこに隠れていたんですが
(捕虜は)私達が偽装してあるソテツを取って捨てて、アメリカ兵が宣伝ビラ持ってきて
私らに手まねで「デテコイ、デテコイ」言いながら
この宣伝ビラを親たちに見せて、言葉は通じない、分かりませんから
指でこの宣伝ビラの字を読みなさいということだったんでしょう
こういうやりかた、手まねだったです
言葉は知りませんけど、大きな声で1人の兵隊が声かけるのを聞いたんですけど
大人、男性、男は裸で、女子と子どもはそのまま手を挙げて出てきなさいというビラだったです
(投降呼びかけビラ)それもで、漢字はなくてほとんどカタカナ。カタカナで書いてあるんです
それでこの米軍の兵士は宣伝ビラを十ってきて、捕虜民に見せて、指でこんなこんなして
読みなさいということを言っているなとは感じましたけど
米兵が1人先頭について、手まねで、2列縦隊に並べということだったでしょう。
だから2人ずつ並んで2列縦隊で名城の北側から糸満ロータリーまで歩いていきました

野嵩
野嵩の収容所は、古民家の茅葺で、私達はこの一角の、屋敷の茅葺に収容されたんですけど
家畜小屋だったと思いますけど
そこが空いていたので、そこに、屋敷の周辺の木の葉を折ってきて、牛小屋馬小屋にこれを敷いて
ここで寝泊りやっていました。

古知屋
野嵩から移動して、宜野座村に着いたのは肌寒い10月の末、11月じゃなかったかなと思いますけど
古知屋開墾は、結構長かったですよ。

帰村
正月は北部から伊良波に移動して、このテントの小屋で正月は向かえました

帰字
自分の集落に帰ってきて 共同作業で
この屋敷でも建てる、あっちでも建てるというような感じで
女性は農作業、イモ植えて
豊見城のこの辺は肥沃地ですから、土地もジャーガル地であるし
共同作業でやってました

戦争を振り返って
毎年慰霊の日が近づいたら、この戦争で亡くなった自分の親戚のこと思い出します
私のスジの従兄弟が3名、親も含めたら4名ですからね。その親の親おばあちゃんも1人含めて
南の喜屋武まで避難して、死ぬぐらいだったら自分のお家に帰って死ぬと言って、
この私の従兄弟たちは戻って、家に帰る途中に歩き疲れて
その時に近くに艦砲弾が落ちて、それでこの中からこの場所で10名すぐ即死
もう遺体も無くて、どこに吹き飛ばされたか、無かったそうですよ

次世代へ
どんなことがあっても戦争は起こしてはいけない。
戦争は人間が起こすもんだから、心を大きくもって周囲の人と仲良くすれば、
喧嘩もいくさというのもしない、ないと私は思ってるんです
いつも自分の息子たちにも話はしますけど、心を広くもって、周囲の人と仲良くすれば
自分が困った時にも周囲が助けるけど、自分に力があるといって、小さい、自分より下の人を
力で負かすようなこういう心持ちは絶対にしてはいけない、これはいつも私が言ってます

収録日:2018年(平成30年)10月9日、11日

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